イエズス会がみた「日本国王」: 天皇・将軍・信長・秀吉 (歴史文化ライブラリー)

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感想 : 5
  • Amazon.co.jp ・本 (218ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784642059084

作品紹介・あらすじ

戦国期末から江戸初期まで、約一世紀にわたり日本に滞在し、キリスト教の布教を行なったイエズス会の宣教師たち。彼ら西洋人は、日本の権力者をどのように見ていたのか。活動に関する膨大な書翰や報告書に記された「国王」などの語句に注目して分析。権力者の移り変わりを目の当たりにした、実体験に基づく日本国家観、権力者観を読み解く。

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  • 日本にキリスト教を伝えたのはフランシスコ・ザビエルだが、ザビエルが所属していたのがイエズス会である。
    イエズス会は大航海時代、ポルトガルの庇護を受けて、インドや東南アジア、日本、中国へと布教を試みていった。
    彼らは、まず、布教地の権力者を改宗させるか、または権力者の保護を求め、領内で効率的に布教を行うという方針を取っていた。その地の権力者に関する情報は、彼らにとって極めて重要なものだったと言える。
    そしてまた、その地にいれば当たり前すぎて特に気に留められないような事柄であっても、外国人である彼らには目新しく、記録の価値がある場合もある。
    現地で布教にあたる宣教師たちは、活動内容や布教地情報を同僚や教皇、欧州の権力者たちに書き送った。こうした書翰や報告書を史料として読み解き、彼らの目を通して、戦国時代から徳川初期の日本のすがたを探るのが本書の狙いである。

    近年、イエズス会書翰の翻訳が進展してきており、本書で主に史料として用いられているのもこうした書翰である。
    権力者を指す語句は複数あり、「国王」(レイ)、「王」(ウォー)、「領主」(セニョール)、「太守」(ドゥケ)などである。このうち、最高権力者を指す可能性があるのは、「国王」、「王」だが、果たして、彼らは「誰」を「国王」や「王」と見なしていたのか。
    最初に布教にあたったザビエルは、天皇と将軍を「最高の国王」と見なし、戦国大名を「領主」や「太守」としていた。京都で天皇や将軍に布教を試みたザビエルだが、京都はあまりにも荒廃し、天皇も将軍も「最高の国王」といえる存在ではなかった。ザビエルは間もなく、京を去る。ザビエルの後を継ぎ、布教の責任者となった宣教師たちが、以後、書翰で「国王」と呼ぶのは地方の戦国大名たちである。
    畿内の布教はうまくはいかなかった。天皇・将軍の権力が弱かったこともあるが、戦乱の世でもあり、また仏僧の力が強かったのも理由である。朝廷から伴天連追放の文書も出ている。キリスト教を保護しようとする大名もいたものの、本格的に京都入りができるのは信長が上洛を果たした後のことだった。
    その信長は、「天下」を平定した「君主」と見なされたが、「日本国王」とは呼ばれなかった。日本全国を統一支配する前に、本能寺で倒れたためである。
    秀吉に至って、ようやく「日本国王」と呼ばれるが、しかし武家のトップとなった秀吉は「天下の君主」という呼ばれ方もされ続けた。一方で、天皇は終始、「日本国王」と呼ばれる存在だった。
    イエズス会としては、日本は武家と公家が併存して「王権」を構成していたと見ていたと考えられ、なかなか興味深い。

    イエズス会が布教にあたった期間は動乱の時代で、どこに食い込んで布教のきっかけとするのか、宣教師たちにも考えどころであったことだろう。
    朝廷がありつつ武家もある、当時の日本の権力構造があぶりだされるようでもあり、門外漢だがおもしろく拝読した。

  • 東2法経図・6F開架:210.47A/Ma81i//K

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著者プロフィール

1972年、埼玉県に生まれる。早稲田大学第一文学部史学日本史学専修卒業。早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程修了、博士(学術)。現在、早稲田実業学校教諭。 ※2020年10月現在
【主要編著書】「宣教師からみた信長・秀吉」(堀新編『信長公記を読む』吉川弘文館、2009年)、「信長とイエズス会の本当の関係とは」(渡邊大門編『信長研究の最前線2―まだまだ未解明な「革新者」の実像―』洋泉社、2017年)

「2020年 『イエズス会がみた「日本国王」』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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