内乱のなかの貴族: 南北朝と「園太暦」の世界 (読みなおす日本史)

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  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784642065900

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  • 洞院公賢の日記『園太暦』をベースに南北朝時代を描いた歴史書。南北朝の内乱で荘園の押領が進み、公家は貧窮した。『園太暦』文和二年(一三五三年)二月二二日条では公賢の弟の前大納言実守が苦境を語っている。洞院家には林田荘が相伝していたが、どこかに飛行してしまい、何の収入も入らなくなってしまった。洞院家は播磨国に荘園を持っており、林田荘も播磨国揖保郡の林田だろうか。

    正中の変の後醍醐天皇は冤罪とする見解があるが、本書は後醍醐天皇の陰謀とする。「後醍醐天皇の側が、その天皇親政の理想をあまり性急に追い求め、幕府機構の衰退を目にして直ちにその滅亡を夢みた結果ということになろう」(34頁以下)

    足利尊氏は後醍醐天皇の死後に天皇の魂を慰めるために天龍寺を建てた。これを尊氏が怨霊を恐れたためとする説がある。これに対して本書は「南朝に対する精神的示威を行ったともいえる」とする(64頁)。また、天龍寺は夢窓疎石を開山とする臨済宗の寺であり、延暦寺や興福寺という伝統仏教を抑え、禅宗の勢力を伸ばそうとした。

    南北朝の合一は両統迭立など南朝にもメリットがあったが、南朝に有利な条件は全て反故にされた。北朝が明徳の和約を反故にした説明には以下の説がある。
    第一に足利義満は最初から南朝をだますつもりで、守るつもりをない約束をした。
    第二に南北朝の合体を進めたい義満が勝手に約束したもので、北朝は両統迭立などを了解していなかった。
    本書は前者である。「義満には、最初からこれを履行する意志はなく、京都に神器をとりあげ、後光厳天皇いらい後ろ暗さを感じていた北朝を正当化することで足りたのである」(216頁)

  • 南朝・北朝ともに所縁を持ち先例引勘に大いに活躍した洞院公賢の日記『園太暦』からは次々に起こる動乱に脅かされて「以ての外」だと「周章」する様が読み取れる。

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著者プロフィール

一九一四年(大正三)、石川県に生まれる。三八年(昭和十三)、京都帝国大学文学部国史学科を卒業。日本史研究会の発起・代表委員。立命館大学教授、京都大学人文科学研究所教授、同所長、京都国立博物館館長、日本学士院会員を歴任。部落史・女性史・地方史の開拓に貢献。九〇年、朝日賞受賞。九八年(平成十)、逝去。『古代国家の解体』『中世社会の基本構造』『中世芸能史の研究』『民衆生活の日本史』『紅と紺と』『京都の歴史』『町衆』などの多数の編著は『日本史論聚』(全八巻)に収録。自伝『一歴史家の軌跡』がある

「2019年 『日本史のしくみ 変革と情報の史観』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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