- Amazon.co.jp ・本 (146ページ)
- / ISBN・EAN: 9784652078044
感想・レビュー・書評
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「傷ついたと自覚している人間ほど、かえって、他人の苦しみに鈍感になっているところがあるのです。自分だけが世界から虐げられていると、みずから世界に心を閉ざしがちになるからです。」
「人は、奪われたものを取り戻すのに必死になることで、「生」そのものを実感することができるのです。ここにも、世界に自分の居場所を作ろうとするからこそ日々を充実させることができる、という逆説が示されています。」
熱にうんうん魘されているときに後半読んだものだから、なんだか物凄く心にどーーんと来たのだ。
さびしい、、ってどうしても感じるよね。
その寂しい気持ちが許されたような気がした。
【6/30読了・初読・市立図書館】詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「どうしたら自分が「生きられる場所」をみつけていくことができるのか。「ぼく」の悲痛な「いじめられ体験」をふまえながら、「世界」と「君」の間に生じる亀裂に対して、君自身のかけがえのないプライドを保ちつづけながら、ひとり向き合っていく方法を提案する。]
目次
1 きみが生きられる場所
2 ゆっくりと、信じて待つこと
3 たったひとつのプライドを守れ!
4 仲間とつながることで
5 「ふつう」であることのむずかしさ
著者等紹介
伏見憲明[フシミノリアキ]
1963年東京生まれ。作家。武蔵野音楽大学付属高校声楽科を経て、慶応義塾大学法学部政治学科卒業。明治学院大学非常勤講師。2003年、処女長編小説『魔女の息子』(河出書房新社)で、第40回文芸賞を受賞
・タイトルの「さびしさの授業」にあまり書かれている内容が繋がっていないように感じた。
・全体としては”何が言いたのかよくわからない”印象。でも、心に残った言葉はあった。また思い出すことがあるだろうか。
メモ:
・著者は、小6の時に「突然クラスメイト全員から1週間無視される」という体験をしている。・この出来事で、著者の心の風景は一変した。自分を取り巻く世界や、親しい友人に、「おまえはいらない」といつ拒絶されるかわからない。先生や親はかんじんな時に自分を助けてくれるものではない。自分の居場所が変わらずいつもあるとは限らない。
・「私」がいなくとも世界はあたりまえのように回っていくし、何も問題を生じない。しかし、悲しいことに「私」はそうした世界の中でしか生きられない。「私」がいなくてもクラスは成り立っていつのに「私」自身はそこで認められないでは存在しないのと同様である。
・そういうふうに、世界と「私」がイコールで結ばれないからこそ、ぼくらはこの世界を、自分とは異なるものとして外からながめざるをえないし、それをなんとか自分の都合のよいものに変えようと働きかけるのでしょう。p26 -
いろんなことを語る材料として引き合いにするのが、赤毛のアンやシックスセンスなどのストーリーからで説得力を感じない。しかも、ストーリーの説明が長すぎる。それをもとにした考察よりも、ダラダラと話すあらすじのほうが遥かに長くイライラ。実体験としても作者があったいじめについてのエピソードがあるが、期間としては一週間なのでそれも説得力を感じるには至らない。
正直、この本の構成力からして論理的に物事を考えられる方ではないのではと、作者自体にも不信感。
読後として、印象に残る言葉も私はなく、余韻としては『あらすじ長かったな、、』があるばかり。 -
スゴ本オフのために久しぶりに読み返してみた。やっぱりこの本は自分にとってスゴ過ぎる本。読むと元気がわいてくる。
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中学生向けの自己啓発書を探していたのでとても良い本だと思いました。思春期で色々悩みながら読んでみる1冊に加えて欲しいです。
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私とは何なのか、私は何のために生きているのか、私は生きているかにがあるのか。ふとしたときに考えてしまう、そして孤独感に襲われる。そう言ったときに、安易に「自分探し」に解決を求めるのではなく、この世界に自分が役に立つ場所を見つけること、今は報われなくてもいつか理解される日を待つこと、どうしても譲れないものは守り通すこと、同じ悩みを抱える仲間を見つけること、そして日常は当たり前でなくその奇跡を感じることを説く。
実体験や映画の解読を補助線に、わかりやすく説明をしている。いつか報われるから今は耐えろ、だとかの精神論でなく、また、人生なんてそんなもんさ、という諦めでもなく、これが俺の人生よとニヒリズムに陥るのでもなく。 -
子どもへ向けて書かれた本。
けれども、
私たち大人の生きるヒントにもなり得るのではないでしょうか。
『きみはこの世界なしには生きられないが、
世界は、きみがいようがいまいが
関係なく存在し続ける』
そんな言葉で始まる伏見さんの文章。
どこにも居場所がなくても、
世界が自分を受け入れてくれなくても、
それでもみんな、生きていく。
世界にとっては別にどうってことない私たちが、
どうにか世界とつながっていくということ。