宗教と性の民俗学

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  • 明石書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (135ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784750307084

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  •  宗教も性も非常にプライベートな領域であってそうした情報を人々から聞き出すにはなかなかコツがいる。

     「語り部」というのはわりとあちこちにいる。人は語りたい生き物である。亜人ちゃんも語りたいのである。戦争の語り部というと当時物心ついていた子供であってもいまや80歳近いのであって、高齢化による語り部の減少があり、それを受けて「語り部養成」で「二代目語り部」なんてものを作り出そうとしているわけだが、むしろ必要なのは「聞き部(そんな言葉はないが)」であろうと私は思っている。

     私にとっては毎度おなじみ赤松先生である。赤松先生といえば私の知る限り超一流の「聞き部」であるわけだが、本書にはそんな赤松先生の聞き取りテクニックが満載である。

    「民俗調査をする場合女が男にどこまで本音を言うか、どうか、ということだが、それは調査する者の方法と具体的な手段、相互の信頼関係で違ってくる。ただネェ、一般的にいって柳田流の民俗学と方法では、女組、女連中の実態調査はダメだ。柳田民俗学というものでムラや部落の実態調査しているのを見ていると、学生がカード持って聞き廻るとか、公民館などへムラの男女、老人たちを集めておはなしを聞くという型になっている。あれではみんな、ほんまのこといえまへんわ。他の人の顔色ばかり見て発言するから、テイサイのええことばかりし
    ゃべる。要するにカンジンのところはウソばっかりや」
    「よく生知りのアホが、「俺は百姓どもと酒のんでワイ談やって、なんでもかくさんとしゃべらせた」などと得意になっているが、そのくらいのこと、百姓にわからんと思っているのがドアホだ。こいつはこの程度にしゃべっておけばよかろうと、チャンと計算の上でやっているのである」
    「それではどうするか。要するに調査の対象となる人たちと、同じ水準の人間になること、ときによったらもう一段、二段と格の下の人間になることだ。それをハッキリいうと、そうした調査を金儲けや立身出世の手段として考えんことだ。そういう生な感じは低層の人たちほど、すぐに看破する。看破されたら、喜びそうなデタラメの情報ばかり流される」

     忸怩たる想いがあるのか柳田氏に相当思うことがあるのか、このあたりは冗長とも言えるほどに強調している。ここからは赤松先生の半生記が始まる。丁稚として働きながらその界隈での性事情を学び取っていく。片っ端から引用していたらキリがないので端折るが、現代では想像もつかないような奔放な性の姿がそこにある。
     赤松先生としては今(本書の執筆時期は1990年代だろうか)に比べれば当時(昭和初期)の奔放さを懐かしく面白かったと感じているようだが、そうした奔放さの割を食わされてきたのは主に女性や子供であって、私生児の増加や性病の蔓延もあった。現代人には現代人の倫理観があるわけで、どちらがよいとは一概には言えない。現代でも避妊や性病対策が万全であれば奔放な性もありえるかも知れないが、その前提はあまりに危うい。

     もっとも本書において重要なのは現代人の倫理観などではなく、かつて確かに存在した性風俗の姿である。
     タイトルに「宗教と性」とあるように、性風俗は宗教とも関わりが深かった。性器信仰や歓喜天のような男女交合の神もいるし、もっと俗っぽいところで宗教儀式と称して性的行為を行うものがいた(現在でもいるだろう)。そこから性が大衆の関心事であったことがうかがえるのである。

    「生駒の聖天さんが繁盛したのは、聖天さんが性交、つまり夫婦和合の神様ということになるが、門前町では参詣者が性的解放を楽しむような機能を備えていた。伊勢神宮でも、古市に大遊郭があり、ここで性的解放を楽しんだわけだが、その上に爆発的に、周期的に起こった「抜け参り」では、男女老若のはばからぬ性的解放が公然と行われたのである。民間信仰的教団や教会では、そうした公然、あるいは半公然の性的解放を楽しめるような機能を、別に持つことは困難であった」

     聖天さんなり伊勢神宮なりといった門前町を持つような大宗教となれば、寺社本体は神聖な場所とし、離れた場所に性的解放を楽しむ場所を設けることができたが、中小零細の宗教団体ではそんなことはできず、本体の中に性的な機会、機能を持つものもあった。代表的なものがオコモリであって、夜遅くまでお参りした後、そのまま本堂やコモリ堂で雑魚寝をするわけだが、その暗闇に乗じて気に入った男女同士で交わったりするのである。
     他にもオガミヤ、オタスケヤ、ウラナイヤといった個人レベルの宗教的有象無象が人々の信仰心につけこんで金を巻き上げたり性の慰み者にしたりすることもあった。

     「鰯の頭も信心から」などという慣用句があるように日本人は何でも拝む。祈らずにはいられない生き物であり、一方で生き物である以上性と切り離すことはできない。祈りと性、宗教と性という話になるとどうしてもかなまら祭のように白昼堂々と行われる祭祀を思い浮かべてしまうが、もっと俗っぽい、人々の日常と欲求に根ざした宗教と性がほんの一世紀前には存在したのである。
     科学の進んだ現代にも民間信仰的宗教は残っている。書評としての範疇を超えてしまいそうなので具体名は省くが、そこにあるのは性ではなく、イデオロギー的な何かであろうという気はしている。

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著者プロフィール

本名栗山一夫、赤松啓介は筆名のうちのひとつ。民俗学者・考古学者。1909年(明治42)3月4日兵庫県加西郡下里村(現加西市)生まれ。30年代から社会運動に従事しつつ、民俗学・考古学の著書・論考を発表。39年(昭和14)唯物論研究会事件で検挙。戦後、50年(昭和25)民主主義科学者協会神戸支部局長、58年(昭和33)神戸市史編集委員、71年(昭和46)神戸市埋蔵文化財調査嘱託。2000年(平成12)3月26日死去

「2004年 『兵庫県郷土研究 予審終結決定・年譜・著作目録・総目次』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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