差別の民俗学

著者 :
  • 明石書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (204ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784750307091

作品紹介・あらすじ

同郷・播州の柳田國男が語らなかった人間差別の実相に迫り,非常民の民俗学の視点で人間の差別意識と重層的差別構成をえぐる。南方熊楠との共作も収録。

感想・レビュー・書評

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  •  民話は人の心を映す。願望であれ、差別であれ、それが語られる人の心にあるならば。

     「もぐらの嫁さがし」という昔話がある。大まかなあらすじとしては、あるもぐら夫婦に子供が生まれ、これはとてもいい子なので、もぐらなどではなく、もっといいところに嫁に出そうということになる。となればお天道様が一番偉いから、と太陽の所へ行って頼むと、太陽は「雲が来れば太陽は隠されてしまう。雲の方が偉い」と言われてしまう。そこで雲のところへ行くと、今度は「風が吹けば飛ばされてしまう」と言われ、風には「土手は風で吹き飛ばすことが出来ない」と言われる。そして土手からは「もぐらに穴を掘られたら土手は崩れる。もぐらが偉い」と言われ、そうかもぐらが一番偉いのか、やはりもぐらの所へ嫁に出そう、となるのである。めでたし、めでたし。

     この話にはいくつかバリエーションがあり、猫につける名前を思案することになり、猫より虎が強い、虎より竜が強い、竜より雲、雲より風、風より障子、障子より鼠、鼠より猫が強いとなって結局猫と名づけることになる。
     別のバージョンでは石屋がいて、夏に太陽が照り付けるので太陽になりたいと言ったら太陽になり、照り付けていたら黒雲に隠され、黒雲になったが風に吹き飛ばされ、風になったが石を吹き飛ばせず、石は石屋に割られるので最終的に石屋に戻るのである。
     初出を辿っていくと古い朝鮮の本の野鼠の話に行き着く。これも太陽、雲、風、石弥勒を経由して野鼠に戻ってくる話になっている(もっと古い話もあるかも知れない)。

     さてこの話は本当にめでたいのであろうか、という問いである。
     赤松氏(後述するが、この項では栗山一夫という変名を用いている)はこの民話の持つ役割について、身分社会、身分差別の肯定であると指摘する。賎民は賎民、平民は平民、貴族は貴族と──貴族制の廃止された当時(本稿は1931年)においては資本家は資本家と──婚姻すべし、それが社会の秩序を維持することになる、という教訓を人々に伝えようとしているのだ、と。
     日本や朝鮮以外に、中国やインドにも似たような民話が存在するという。インドといえば身分社会の本場みたいな国である。
     支配階級が自己の権益を擁護するために、身分社会を肯定するような民話を生み、それが民間に流布している。それはすなわち、支配者-被支配者間の身分差だけでなく、被支配者間同士においても分断を生んでいるのである。
     「教育勅語」の原型になったとされる「幼学要綱」には、昔話を改変したような話が多いという。

    「昔ばなしを、民衆の生活のなかから生まれた、民衆のための物語などと過信するのは危険である。本当に反体制的な目的の昔ばなしなら、いつの時代であろうとも必ず支配階級は弾圧するものだ。いま残って伝承されているということは、ある程度まで、これまでの支配階級によって去勢され、歪曲され、無害化されているからと思ってよい」
    「この「もぐらの嫁さがし」などは、賎民や平民の上昇志向を断念させるための修身教育説話として、その役割をかなり直接的に表明したものといえる。南方熊楠がただちに、そのかくされた役割を看破したのは、さすがに烱眼(炯眼)とすべきであろう」

     被差別部落、被差別階級の人間がせめて平民と結ばれたいと、故郷を離れ、身分を隠し、やっと配偶者を見つけるが、よくよく聞いてみれば相手も同じ被差別民だったという話も紹介されている。それが己の身分の宿命であると思い知らせようとしたのだろうか。

     一方で、身分を越えた欲望を持ち出し、成功したという民話もある。卑しい身分の男が高貴な女性に恋をし、武芸や歌などの芸能で功績を挙げ、認められて女房にするという筋であれば東北から九州に至るまで様々ある。この手の成り上がりはいつの時代も庶民の夢であり、赤松氏の言葉で言えばマスターベーションの一つである。
     ただ逆に女性が上層の男性に嫁ぐ話となると、不幸な顛末が多くなる。助けられた鶴が己の羽毛で織った反物を売らせて恩返しするが、正体が露呈し飛び去る鶴女房。貧乏で一人暮らしの男が女房を貰い、子を産むことになるが、見るなと言われたのに見てしまい、妻が大蛇であることを知ってしまう蛇女房。他にも魚女房、狐女房などのバリエーションがあるが結末は同じである。
     身分の低い女が玉の輿に乗るのもまた民衆の夢ではあるが、民話であってもだいたい破綻してしまう。それは女性の社会的地位の低さを示すものだという。確かに先に示した卑しい男性が高貴な女性と結ばれる話は、もともと卑しい生まれであることは周知の事実で、武功なり技芸なりで認められるのだから破綻の要素がない(浦島太郎や天女の羽衣など破綻する民話もあるが)。逆に女性の嫁入りはだいたい正体を隠して嫁ぎ、露呈して破綻するのである。
     ここに男女差別の精神を見出すのはいささか穿ち過ぎであろうか。男には立身出世の夢を見せ、女は高望みなどせず分相応の相手に嫁げと圧をかける。求められる役割が違うのだ。

    「「人畜無害」に見える昔ばなしも、いろいろの社会的構造、その権力構成と無縁のものではありえない」

     著者はこの項をそう結んでいる。

     さて著者赤松啓介氏はことあるごとに柳田民俗学を批判しているが、本書においてもそれは顕著である。柳田翁の天才性は認めながらも、その手法の不完全さ、不十分さ、そして解釈の体制に対する迎合ぶりを批判している。
     柳田民俗学における有名な概念として「常民」がある。有名であるがその定義はいまいちはっきりしない。なぜよりポピュラーな「平民」という言葉を使わないのか。その理由を、著者は賎民や水呑み百姓、小作人といった被差別階級を覆い隠す意図があったのではと見る。柳田民俗学が徹底して排除したのが差別と性であって、性については他の書でも数多く述べているので今回は割愛するが、差別を見えにくくするために、「貴族」と「平民」、「平民」と「賎民」の区別を見えにくくするために「常民」という概念を創造したのだという指摘である。

     そんな調子で柳田民俗学を批判し続けるものだから当然柳田一派の逆鱗に触れ、当時原稿を送っていた雑誌の編集者から、「私はあなたの原稿を断るつもりはないが、柳田さんが原稿を渡さぬというので、なにかほかのペンネームを使ってもらえないか」と申し入れがあったそうで、それが先述の栗山一夫名義なのであろう。
     本書ではこうした当時の民俗学の背景についても触れられており、ここでは割愛するが大変興味深い。いつの時代も人々の間に争いは絶えないものである。

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著者プロフィール

本名栗山一夫、赤松啓介は筆名のうちのひとつ。民俗学者・考古学者。1909年(明治42)3月4日兵庫県加西郡下里村(現加西市)生まれ。30年代から社会運動に従事しつつ、民俗学・考古学の著書・論考を発表。39年(昭和14)唯物論研究会事件で検挙。戦後、50年(昭和25)民主主義科学者協会神戸支部局長、58年(昭和33)神戸市史編集委員、71年(昭和46)神戸市埋蔵文化財調査嘱託。2000年(平成12)3月26日死去

「2004年 『兵庫県郷土研究 予審終結決定・年譜・著作目録・総目次』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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