日本語を、取り戻す。

著者 :
  • 亜紀書房
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本棚登録 : 178
レビュー : 21
  • Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784750516608

作品紹介・あらすじ

私たちが暮らす世界では、なぜ〝ことば〟がここまで空疎なものになってしまったのか!?

森友・加計、検事長の定年延長をめぐる数々のデタラメ、新型コロナウイルスをめぐるアレコレ、世界を、日本を跋扈するポピュリストたちのワンフレーズ、機能不全に陥っているメディア……。

世の中を真摯にそして斜めに睨みつづける〈至高のコラムニスト〉が、雨後の筍のごとく湧いて出る様々な問題を、舌鋒鋭く、ユーモアいっぱいに斬り捨てる!

——あえて、ムシ返すことにする!

感想・レビュー・書評

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  • ここ数年の間に、雑誌などに書かれたものを集めたコラム集。安倍前総理をはじめとする、政治家、あるいは政治そのものに関すること。また、マスコミ、メディアに関することが多く書かれている。
    森友学園問題、加計問題、中央官庁の障がい者雇用水増し問題、色々な事件でのデータや記録改竄・廃棄問題、麻生大臣の武漢ウィルス発言問題、等々。他にも同程度の問題が沢山。
    本コラムは、こういった問題に関する記録にもなっているが、あらためて、これらに関するコラムを読んでみると、一つ一つの案件のひどさ・馬鹿馬鹿しさについてが思い返されると共に、殆どのことについて、既に忘れてしまっていたことに驚いた。もちろん、コラムで読んでみると記憶はあるが、普段思い出すこともしないという意味で忘れてしまっていた、ということ。
    小田嶋隆も本書の中で書いているが、私たちは、こういった、よく考えれば酷いことに、慣れてしまって、いちいち怒ることもなくなってしまったのかも知れない。

  • 分かった気にさせる“マジックワード”の効力とは?『日本語を、取り戻す。』から考える! | ダ・ヴィンチニュース
    https://ddnavi.com/review/682762/a/

    亜紀書房 - 日本語を、取り戻す。
    https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=969

  • 短期間であまりに色々と起こり過ぎていて、ほんの少し前の大きな問題でも、ああそんなこともあったな…とずいぶん昔のように感じてしまった。
    まだほとんど未決着/未解決だというのに…。
    小田島氏の言葉で納得をしたり、新しい見方ができたりしたのは良いのだけど、一層この国どうなるんだと憂鬱にもなる。
    が、自分で狭めてしまっていたところに思い当たり、少し息がしやすくなったこともあって、読んで良かった。
    「理解」という言葉の使われ方の変化にはハッとした、私も注意深くなろう…。

  • ー私たちが暮らす世界では、なぜ〝ことば〟がここまで空疎なものになってしまったのか!?ー
    この紹介文に惹かれて手に取った。おそらく、安倍政権の政策に対する批評本、と言う紹介文だったら手に取らなかったと思う。なぜなら、私は「日本語」に興味があるから。政治・経済よりも「言葉」。
    正直、政治も経済もよく分からない。最低限、社会人なのだからと自分に言い聞かせて、いくつかのニュース番組を見たり、新聞を読んだりはするが、何が問題になっているのか、いまいち理解できなかったり、用語がわからなかったりすることもある。
    だから、安倍さんの政策について、正しく賛同も批判もできないと自覚している。
    それでも、適切に表現できない違和感がずっとあった。
    そして、この本の紹介文を目にした時、そう、「ことばの空疎さ」だ。これだ!と思ってしまった。

    公文書の破棄・隠蔽・改竄、「理解」という言葉について、「代案」がないといけないのか、などなど、興味深いコラムは沢山あったのだけど、
    先に書いた通り、自分が抱いていた違和感について、すごく的確にわかりやすく著者が示してくれていたところがあったので、レビュー代わりに残しておこうと思う。
    『安倍晋三氏の政治手法に苛立つ理由は、おそらく、私の目から見て、彼が政治家というよりは扇動家(アジテーター)に見えるからなのだろうと思っている。政治家とアジテーターの何が違うのか正面切って問われるとちょっと困るのだが、ともあれ、安倍さんの持ち出してくるスローガンが、具体的な政策であるよりは、イデオロギーに近い何かに見えることは確かだ。』
    アジテーターとは、少々過激な表現にも思えるが、でも私が感じていた違和感・もやもや・イライラは、結局、この一節に集約されていると感じた。
    そして、この一文の次のコラムで、著者は『最大の罪は国の文化と社会を破壊したこと』と、これまた少々過激とも思えるタイトルで記しているのだが、この短いコラムも、この本全体を通して、著者が訴えていることの根本をなすと感じた。

  • 内容の前に「この表紙、どうなの?」って話です笑。
    待ちに待った当代随一のコラムニスト小田嶋隆さんの新刊。
    森友・加計問題や検事長の定年延長を巡る政府のデタラメ、世界と日本を跋扈するワンフレーズの罠、凋落する一方のメディアを俎上に載せ、バッタバッタと斬りまくる。
    内容も痛快ですが、ぼくは小田嶋さんの文章が好き。
    先日、読了した武田砂鉄「わかりやすさの罪」ではないですが、理路整然では決してない。
    いや、どちらかと言えば分かりにくい方ですが、小田嶋さん自身の思考の痕跡がしっかり見えて、誠実で信頼できます。
    逆に、借り物の知識で理路整然と語られるコラムほど退屈なものはないですね。
    小田嶋さんが使う言葉もしばしば難しいです。
    一般に、文章は、難解な言葉を用いず、簡潔・平明に書くことが良しとされています。
    私も9割方支持します。
    中には、背伸びをして難しい言葉を誤って使い、自爆している向きもありますが、これなどは絶対に回避すべきでしょう。
    でも、小田嶋さんは敢えて難しい言葉を用いている節があります。
    そうやって文章を引き締めることで、小田嶋さんの最大の魅力であるユーモアが引き立つ効果があるのですね。
    小田嶋さんは、本当に文章がうまいと思います。
    コラムを書かせて小田嶋さんの右に出る人は、少なくともアジアにはいないんじゃないかしらん。
    では、私の好きなコラムを1本、本書から紹介するとしましょう。
    タイトルは「サッカー監督に聞くべきは」。
    ◇◇◇
    面白い動画が流れてきた。
    画面に出て来る主人公は、サッカープレミアリーグ(イングランド一部リーグ)で首位を独走するリバプールFCの監督、ユルゲン・クロップ氏だ。クロップ監督は、パネルの前で記者の質問に答えている。そのやりとりが水際立っている。記者がコロナウイルスについての考えを質す。と、クロップ氏の回答はこうだ。
    「私は、政治やコロナウイルスのようなシリアスな問題について、サッカー監督の意見を聞きたがる風潮が理解できない。私は素人だ。有名人だからという理由で私の意見を尊重する必要はない。ごらんの通り、私は野球帽をかぶった、自分のヒゲをきれいにしておくことさえできない男なのだからね」
    なんと見事な回答ではないか。
    実際、クロップ監督とて、コロナウイルスについて、自分なりの見解を持っていないわけではないはずだ。しかし、彼は自分の意見よりも、サッカー監督たる自身の立場をより重要視している。まったく完璧な自己省察だ。
    対照的なニュースがある。3月2日に放送された民放のワイドショー番組で、吉本興業所属のお笑いコンビ「ブラックマヨネーズ」の吉田敬氏(46)が、与野党の政治家の発言を断罪したというお話だ。発端は、麻生財務大臣が新型肺炎をめぐる臨時休校要請の質問をした記者に対して「つまんないことを聞くねぇ」と返したことだった。これに対して、立憲民主党の蓮舫参議院議員がツイッター上で「貴方にとっては『つまんないこと』なんでしょう。でも、親にとっての費用負担はとても大きいものです」と噛み付いた。で、両者の発言をとらえて、吉田氏は、放送の中で以下のように述べたわけだ。「麻生さんからしたらホンマしょうもない質問なんでしょうけど。そこを我慢もう一歩してほしいし、そこの揚げ足をとってうわぁーっていう蓮舫さんといういつもの流れ。もう、ええわって。どっちも0ポイントというか」
    ま、要するに「どっちもどっち」てなことで、麻生氏と蓮舫氏の双方の発言を相対化した定番のコメントだ。
    吉田氏のコメントに賛同する人もあるだろう。逆に、反発を抱く視聴者もいるはずだ。しかし、問題はそこではない。見解の当否は、この際、どっちでもよい。
    重要なポイントは、しゃべりは得意かもしれないが、政治やウイルス対策の専門知識を持っているわけでもない人を連れてきて、国会議員の答弁やツイートを採点するがごときコメントをさせ、それで番組を作ることにある。
    しかも、そのコメントは、テレビ電波を通じて全国に流され、のみならず、スポーツ新聞がそれをネタに記事を書く展開が約束されていたりする。つまり、われわれは、お笑い芸人であるというだけの素人の台詞を、新聞で読まねばならない国に住んでいるわけだ。
    思うに、お笑い芸人をコメンテーター席に座らせて、政治経済外交防衛いじらせて番組を進行させる手法は、21世紀にはいってから顕在化した、「24時間総バラエティ化」の一環だ。実際、今回のコロナウイルス関連でも、お笑いの人間の意見が、最も大きな影響力を発揮していたりする。
    いや、笑いごとではない。
    われら一般国民がテレビを見て笑っている限り、いずれ、この国は、世界の笑いものに成り下がっていく、と、私は思っている。

  • 日本語を、取り戻す。

    著者:小田嶋隆
    発行:亜紀書房
    2020年9月20日

    人気、実力とも当代切ってのコラムニストが安倍政権時代に書いたコラムを、いくつか集めた本。言葉を扱うはずの政治家が、あまりにおかしな日本語を使っている様子を鋭くつくことで、安倍政権がまともに政治をしていない状況を指摘している。批判は安倍政権だけではなく、それを監視する機能を放棄し、すっかり御用機関になってしまったマスメディア、そして、だらしない証人喚問をする野党にまで向いている。

    読んでいると、安倍政権時代の悪夢ぶりが甦ると同時に、まともにかかっていかなかったというか、いつのまにか安倍のペースにまきこまれていた自分の為体(ていたらく)ぶりにも恥じ入るばかりになる。

    安倍辞任以前に書かれたものばかりで、安倍の辞任や辞任後の自民党政治を予見するような内容もある。1本だけ麻生内閣時代のものがあった。
    本のタイトルはもちろん、安倍晋三と自民党が使っていた「日本を、取り戻す」のパロディ。

    ********

    安倍総理は、演説の中で、自分の言葉に自信を持てない心理状態に陥ると、「まさに」という強調語を多用して、自分を立て直すことを試みる。さらに、官僚に与えられた原稿を自分の中でうまく消化しきれていない場合には、「言わば」という言葉を繰り返すことで。なんとかその場を取り繕おうとする。ほかにも、例えば、質問に対して適切な回答を思い浮かべることが出来ないケースでは、センテンスとセンテンスの間に「なかにおいて」という無意味な接続の言葉を挿入することで時間を稼ぎにかかる。

    アベノミクスは、経済用語ではない。経済隠蔽用語だ。
    「オレオレ経済政策用語」だ。(114P)

    副総理ともあろう麻生太郎が「武漢ウイルス」というのが正確な名前だと思う、ととんでもない暴言を吐いたが、あまり報道されなかった。あまりにも非常識な発言であったがゆえに、メディアが追及を躊躇したに違いない。国際的な恥さらし以外の何ものでもなから。
    企業倒産で言われる「too big fail=影響が大きすぎて倒産させられない」の応用版として「too nasty to write=ひどすぎて記事にできない」という原則が新たに策定されつつある・・・

    麻生総理時代、「踏襲」を「ふしゅう」と読み、古館、みの、安藤優子はもちろん、こぶ平レベルの司会者から、使い捨てのコメント供給業者、ひな壇専任の木っ端芸人に至るまでが、上から目線で嘲笑した。
    なぜか?あの偉そうな、いかにもモノを知っていますっぽく、アゴを上げ気味にもったいぶって喋る態度が、あまりにもものの見事に「小面憎い」からこそ、ミスをした失点がより劇的に見える。
    これが例えば小渕さんなら、「えへへ」的な笑顔を見せる。
    竹下さんなら、漢字の読みミス自体が一種持ってまわった計算なのではなかろうかと思わせる底の知れなさがあった。「さすがは天下の朝日の記者だわな。万事心得ておられて感服だわな」と言われては記事にできない。
    小泉さんなら「あっそう。トウシュウって読むの。知らなかったなあ。トウシュウサイシャラク。ラブミー・テンダー。人生いろいろ。感動した」と煙に巻く。

    初入閣のときの小泉進次郎新大臣の演説はある意味見事だった。あれほどまでに内容希薄な話を、あれほど自信満々な語り口で言い切ることのできる政治家は、近来では珍しい。小泉純一郎以来。

    この五年ほどの間に「政治的」という言葉は、もっぱら「反政府的」という意味でのみ使用され、解釈され、警戒され、忌避されるようになった。政権に対して親和的な態度は「政治的」とは見なされず、単に「公共的」な振る舞いとして扱われる。(2019年)

    ******

    役人が文書を残すことは、飲食店の従業員がトイレの後に手を洗うのと同じく、仕事をする上での大前提なので(南スーダンPKOの日報が「破棄された」との答弁は)明らかな異常事態。

    安倍総理に関する小論を書くときに感じる疲労感は、自分にとって彼が思考の対象であるより、感情の源泉だからではないか。

    安倍総理は、いずれ足元を固めているネポティズム(縁故主義)の罠によって、近いうちに幕を下ろすことになるはずだ。(「新潮45」2018年6月号)

    安倍さんは、ガチで自分がタイホされる近未来を予測している。その事態を心底から恐れている。(2020年5月)

    党派的な人々がゴロゴロ歩いていた70年代のキャンパスは、その一方で、その党派的な学生同士がわりとだらしなく党派を超えてツルんでいた場所でもあった。

    昨今の新聞社の偉い人たちは、その神聖なる業務を放棄している。政府が「骨太の方針」と言ってくれば、その日本語の気持ち悪さを検証することもせずに、そのまま「骨太の方針」という名前で記事を書いてしまう。

    安保法案の衆院特別委員会で可決される前日に石破地方創生相は
    「国民の理解が進んでいるかどうかは世論調査のとおり、まだ進んでいるとは言えない」と発言。
    この法案に関して、政府は当初から「理解」を連発している。法案を支持しない人々を「理解不足」と決めつけている。ここでいう「理解」には、法案を「聖典」視させる一種の詐術が含まれている。
    安保関連法案は「理解が進んでいない」ではなく、「支持されていない」と見る方が正しい。

    「理解できない」「意味わかんない」を、「容認できない」「共感できない」ないしは「馬鹿馬鹿しくて相手にする気にもならない」くらいなニュアンスで使う若い人たちが増えている。

    森友問題での佐川宣寿前国税庁長官(前理財局長)証人喚問で、彼が「その点につきましては、さきほどから何度も繰り返し申し上げておりますとおり、まさに刑事訴追のおそれがあるということでございますので、私の方からの答弁は差し控えさせていただきたいといいうふうに思っておるのでございます」というような言い方。
    それを聞けば、「過剰な敬語を使う人間のうさんくささ」「厳重な丁寧語の壁の向こう側に隠蔽されているもんのけたくその悪さ」「させていただく敬語の気持ちの悪さ」「敬語の鎧で自らを防衛せんとしている人間の内実の脆弱さ」を感じる。
    「お答え」「お示し」「ご理解をしてございます」あたりの耳慣れない言い回しを聞かされるに至っては、「バカにしてんのか?」と気色ばむ向きも少なくなかった。

    キャリア官僚のような立場の人間が、防護壁や本音隠蔽のカーテンとして敬語を振り回すケースでは、「あなたと私は対等の人間ではない」ということを先方に思い知らせるための実にイヤミったらしいツールにもなる。

    野党の質問、批判に対して、どうして「代案」などとういう場違いな言葉が突然出てくるのか?例えば、トランプ政権の疑惑を追及した時、「1院を支配しながら政策の代案を示さずに政権追及に終始すれば、世論の批判の矛先が民衆党に向かう可能性もある」とメディアは書いていた。追及するのかしないのか?なのに、「代案」もなにもない。野党が疑惑追及をしている場合、与党側からの反論として「代案」という言葉を提示しておくのがセオリーだという思い込みが、記者の頭の中に転がっていたのではないか?
    (これは日本の政治にも大いにあり。反対こそが「代案」というケースが多いのに、自民党支持者は代案とかほざく)

    新型コロナウイルスは、国際ウイルス分類委員会(ICTV)によって「SARS-CoV-2」と決定されている。「COVID-19」はWHOが命名した、このウイルスが起こす病気の症状名。

    放送による表現の自由は憲法21条によって保障され、放送法はさらに「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」(第1条2号)を定めている。
    誤解されているのは、「放送の不偏不党」「真実」「自律」は、放送する側の義務ではなく、政府などの公権力に(保障しろと)求められているもの。

    現代日本でとりわけコミュニケーション能力が重視される傾向は、民族的にも、文化的にも、言語環境上も、極めて同質性の高い社会を形成していることと、近年、産業構造が高度化し、ほとんど全ての被雇用者の業務が、人間を相手にするサービス業に近い仕事にシフトしていることに関連している。われわれは、コミュ力の低い人間を障害者として分類せざるを得ない社会で暮らしている。

    サッカープレミアリーグのリバプールFC、ユルゲン・クロップ監督は、政治やコロナウイルスのようなシリアスな問題について、サッカー監督の意見を聞きたがる風潮が理解できない」と言っている。
    日本でわれわれは、政治にまるで素人のお笑い芸人のコメントを、テレビで聞き、新聞で読まねばならない国にすんでいる。

    マスクもトイレットペーパーも、デマに踊らされ、パニックに陥った大衆が過剰な買い占めに走った結果、店頭から消えたというわけではないようだ。普通の生活をしている普通の日本人が、聞きに対応した当然の生活防衛として、一定の買い置きを心がけただけのことで、日本中の市場から在庫が消失してしまった事実こそ教訓にすべき。これは、われわれの商品流通市場が、30年来の不況へ対応するために、在庫と配送回数を極限まで切り詰める形での経営努力を続けてきた結果として、効率と引き換えに、冗長性(余裕)をかなりのレベルで喪失したことを意味している。

  • ただただ、自分には合わなかったなーという本。

  • こういう視点を身につけたい
    言われてみると大きく頷ける話がだが、自分からは展開できない

    変に濁してないし、自慢が鼻につくようなこともなく気持ちよく読める

  •  辛くて、速読はしにくい。
     

  • それぞれ連載時に読んだものも多かったが、このように1冊にまとめられると、しみじみ日本語を壊され続ける日々であることが実感できる。指摘しようが責めようがどんどんひどくなる。政治家、官僚、企業経営者…
    日本語が壊されることは日本が壊されること。こんな国、さっさと捨ててしまいたいが、ちょっと海外へ、さえもできない日々。なんとかこの国を持たさないと自分が持たない。小田嶋さんのコラムを読んで溜飲下げてるだけではダメなのだ。

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著者プロフィール

1956年東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業。一年足らずの食品メーカー営業マンを経て、テクニカルライターの草分けとなる。国内では稀有となったコラムニストの一人。著書に『小田嶋隆のコラム道』『上を向いてアルコール』『小田嶋隆のコラムの切り口』(以上、ミシマ社)、『ポエムに万歳!』(新潮文庫)、『地雷を踏む勇気』(技術評論社)、『ザ、コラム』(晶文社)、『友達リクエストが来ない午後』(太田出版)、『ア・ピース・オブ・警句』『超・反知性主義入門』(以上、日経BP)、『日本語を、取り戻す。』(亜紀書房)など多数。

「2020年 『災間の唄』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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