民主主義の逆説

  • 以文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784753102488

作品紹介・あらすじ

スペクタクルな現代政治をいかに立て直すか?ロールズやハーバマスの〈合意形成〉の政治学を批判的に検討し、カール・シュミットの政治論とウィトゲンシュタインの哲学から、画期的なラディカル・デモクラシー論を展開する。

感想・レビュー・書評

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  • 本書は、「ラディカル・デモクラシー」の政治理論家、シャンタル・ムフの90年代後半の論稿を集めた論文集です。彼女は近年、自説を一から展開するというよりも、現代の自由民主主義論に対する批判的考察を通じて自説を浮かび上がらせるスタイルを取っているようで、本書でもロールズやハーバーマス、他の討議民主主義者たちの「合意論アプローチ」への批判が中心的な内容となっています。

    彼女は、政治的領域における「合意」の条件を探究する現代の自由民主主義論が、それ自体権力の産物である「理性」の存在を前提にしている点(第1章)、民主主義の条件である「境界」の問題について無関心である点(第2章)で欠陥を有しており、それらは「自由」と「平等」の両立不可能性から生じる問題であると指摘します。そして第3章では、ヴィトゲンシュタインに依拠することによって、そもそもこれらの欠陥の要因は政治理論の方法論としての「合理主義」の限界にあることが明らかにされ、「差異」を受け入れられるような方法論のオルタナティブが提示されていきます。

    以上のような批判的考察を経て、第4章後半では彼女の提起する「闘技的民主主義」が簡単に説明されています。
    そこでは、これまでの政治理論が除去しようと努めてきた「権力」的要素や人間関係にまつわる「抗争性」が逆に前面に押し出され、「対抗者」間の「闘技」する場としての「政治」が描かれます。
    ここで言う「対抗者」の関係とは、相手の掲げる理念は真っ向から批判するけれども、お互いに理念を擁護する権利は認め合っている状態を意味し、そしてこのような「対抗者」関係が、お互いにせん滅し合うような「敵対」関係に転化しないように環境を整備することが、自由民主主義の役割として提示されます。また、ここで言う「闘技」は、合理的な説得を用いたものではなく、お互いに一種の改宗を促すような「情熱」によって争われるものとして描かれています。
    一方で、民主主義の条件である「統一性」は、討議民主主義者たちの主張する「合意」ではなく、C・シュミットの主張した「同質性」でもなく、闘技の場での自由民主主義への倫理的指示の共有という「共通性」に求められています。簡単に言えば、自由民主主義の諸理念の解釈を巡って争うのが闘技の場であるが、自由民主主義そのものへの支持は共有されているため、「統一性」は担保されるということのようです。この辺りは記述が少なく、自分の理解力では理解できませんでした。

    最後に第5章では、それまでとは異なり、イギリスの「第三の道」に見られるような現実政治の中道路線が批判の対象とされ、右翼-左翼対立への回帰が促され、最終的には新たな左翼の取るべき戦略まで詳細に論じられていいきます。ここでは、反グローバリズムの理念やベーシックインカムなどにも言及されていた点、興味深かったです。


    本書を読み終わっての率直な感想としては、彼女の自説が展開されている箇所が少ないこともあり、「闘技的民主主義」理論の的確な把握には至らなかったように思います。ただ、彼女の理論に興味を持てる内容ではあったので、今度別の著書に当たってみようと思います。

    慣れてないと読みにくい内容だと思いますので、政治理論に関心のある方、おすすめです。

  • なぜいわゆる「中道」が勢力を伸ばしているのか、なぜ宗教原理主義とかが21世紀にもなって政治に絡んでくるのか、とか、ありがちな問いから、民主主義的な議論てあるんでしょうか、みたいな複雑なところへもっていってる。アリーナで闘技をするように討議する、そして排除されるひとがでないように誰でも「手続き」に対して異を唱えられる、というルールはどうだろうね、と提案してる。いいけど、どうやったらそういうふうにできるか、てのが問題だよね。集団の「内・外」の説明が差別や排除のメカニズムの説明として書かれているあたりが、考えるポイントになるだろうか。

  • ぱっと手にとって字が大きいから読みやすいかと思ったら難解この上なかった。

    討議民主主義が目指す合理的な道徳に対し強い疑念を抱いてることはまあ、わかった気がする。でも、著者が目指すという「闘技的複数主義」は結局どこへ向かうのか?というのはいまいちよくわからない。結局バラバラのままか、あるいはなんらかの強制によってひとつの集団が他者を抑圧してしまうのではないだろうか。抗争と闘技の境界線が、結局はよくわからなかった。

    まあでも、本来矛盾するはずの自由と平等を、調和?和解?させようとする可能性を見出そうという大胆な姿勢は、困難きわまりないけどその意気込みはすごいと思った。しかしまあ、最初から諦めていたら確かに前進はないわけだし、今後この議論がどういう方向性を辿るのか興味深いし、僕も頭の片隅には置いておくべき問題だなあ、と思った。

  • より巨大で複雑になった社会では直接民主主義による支配はもはや不可能。だからこそ代議制に移行する。
    近代民主主義は権力、法、知が根源的な非決定性のもとにおかれる社会。それが君主の人格に体現され、超越的権威と結びついていた権力の消滅を引き起こした「民主主義革命」の帰結。それによって社会的なものの新たな制度化が始まり、権力は空虚な場所となった。
    1 支配形態としての民主主義
    2 民主的な支配が行われる象徴的枠組み。

    近代は特に「人民の支配」に加えて自由主義的言説による個人的自由の価値と人権が強調された象徴的枠組みを伴っている。法治国家とは民主主義の言説にその起源をもつものではなく、別のところに由来する。

    したがって近代民主主義は二つの異なる伝統の接合に由来する。
    一方は人権の擁護、個人的自由の尊重という方の支配による自由主義の伝統、もう一方は平等、支配者と被支配者の一致、人民主権を主要な理念とする民主主義の伝統。これらの接合は偶発的。民主主義が自由主義化され、自由主義が民主主義化された。

    多くの自由主義者、多くの民主主義者はお互いの尊重する論理の間に緊張関係や自由民主主義が彼ら自身の目的の実現に化する様々な制約に、はっきりと気づいていた。

    民主主義の限界を通じて初めて民主主義の扱い方がわかる。

    自由民主主義とは最終審級において両立しない二つの論理の結合から帰結したものであり、両者が完全に和解することはありえない。ウィトゲンシュタイン的に言うならば、両者それぞれの「文法」の間には公正的な緊張関係がある。決して釣果つされないけれども様々な方法で交渉されうる緊張関係。。

    こうして自由民主主義体制は絶えざる闘争の場になってきたが、その闘争こそが、政治的発展の駆動力になってきた。

    平等と自由の間の緊張関係は調停不可能であること、その対立の安定化は偶発的ヘゲモニー形式であることが受け入れられることによって既存の権力配置へのオルタナティブの理念が消えると同時に支配的な権力関係への抵抗の表現を正当化する可能性もまた消える。そして現状が自然化され、物事があるがまま化される。

    左右というカテゴリは時代遅れのものとして、左右の対立を超えているかのようなふりをする。そして中道での合意を作り出すことにあり、新たな情報化社会に適応する唯一の政治形態と宣言する。

    民主主義の理論家と政治家の無能力のために、自由民主主義政治自体の逆説を認めることができずに、合意を強調し、構想性が除去可能だと信じているこうした間違いによって、適切な民主主義モデルを練り上げることができずにいる。

    民主主義と自由主義のこの緊張関係を互いにまったく外的な二つの原理の間で存在し、単なる交渉の関係が確立されるものと捉えてはいけない。この緊張関係は交渉としてではなく汚染の関係を生み出す。汚染とはー二つの原理が接合されると、不安定な仕方であるにしても、それぞれの論理はもう一方の同一性を変化させる。

    完全な自由と完全な平等はどちらも不可能。これこそが複数的な人類共存の可能性の条件。そこでは諸権利は存在すると同時に行使され、自由と平等は何らかの形で共存する。

    複数主義的な民主主義政治は公正的な逆説を遂行するプラグマティックかつ一時的で、必然的に不安定な諸形式のうちにある。ウィトゲンシュタインの言語ゲーム的な共同体の中で形成される合意。

    真の外部であるためには外部は内部と非今日役的でなければならず、同時に外部は内部の発生の条件でなければならない。これは「外部」が単に具体的内容の外部であるだけでなく、その具体性自体を問題化するような何かである場合において初めて可能となる。「彼ら」とは具体的な「我々」の構成的外部ではなく、いかなる「我々」をも不可能にするような象徴。デリダの構成的外部。

    構想性の発生条件:それまで単なる差異として飲み知覚されていた我々・彼らの関係が友と敵の関係として捉えられ始める時に発生する。この時からそれは抗争性の場、つまり政治的なもの(シュミット的な意味において)となる。もし我々・彼らという様式において初めて集合的同一性が確立されるならば、特定の状況において常にそれが高そう的な関係へと変換されうることは明らか。この時、抗争性は決して除去されず、政治における永続的な可能性を構成される。

    抗争性と闘技性は分けて考える。後者は敵同士の関係ではなく、対抗者の間の関係にかかわるもの。すなわち彼らは共通の象徴空間を共有するが、その共通の象徴空間を異なる仕方で組織しようとする点において敵でもある。捉え方によれば「友好的な敵」。
    ロールズの政治的自由主義の「よく秩序づけられた社会」とは概念構成の多元主義的アプローチに問題がある。主要な欠点は対抗者の場それ自体を消去する傾向を持ち、それによって民主主義の公的領域からいかなる正統的な対立をも放逐してしまうところ。

    「第3の道」も同様に、「対抗者なき政治」であらゆる利害が若い可能であり、あらゆる人々が(そのプロジェクトに同一化するという条件つき)「人民」を構成するふりをする。現在の新自由主義のヘゲモニーの需要を正当化するために、依然としてラディカルであるふりをしながら、「第3の道」は抗争性の位相を回避する性時間を動員し、その実行が勝者・敗者という所対立の解決法を超過つすることであるとされる「人民の一般的利害」の存在を要求する。

    そうしたテーぜの社会学的基礎はフランス革命以来西洋で支配的だった、対立に基づく政治のサイクルが終焉したことにある。

    資本主義に対するラディカルなオルタナティブという理念は諦めるとしても、もし再生され、現代化された社会民主主義ー第3の道がそうであるようにーがより公正でより説明責任を果たす社会を作ることを望むならば、新たな管理者階級による富と権力の固定化に挑戦しなくてはならない。ブレア主義のトレードマークとなっている社会統合は、既存の階層維持につながるのみ。いかなる対話も、道徳的説教も、支配階級がその権力を放棄することを納得させないだろう。

    新たなヘゲモニーの構築を描き出すには、伝統的な左右の理解も再定義されなくてはならない。しかしそれらのカテゴリーにどのような内実を与えるにしても、闘技的な対立に置いてどちらの立場にたつのかを一人一人が決定すべき時が来ている。現代の自由民主主義において種差的で価値があるのは、自由民主主義が正しく理解されるならば、それはある空間を創出することによってこの対立を開かれたままにするのであり、そこでは権力関係が常に問題化され、いかなる最終的勝利もありえない。しかしそうした「闘技的」民主主義では政治には対立と分離が内在するものであって、人民の統一の十全な実現としての決定的な和解が達成されるような場が存在しないことを私たちは受け入れなくてはならない。複数民主種s着が完全な裏付けを持ちうると考えることを、それを自己論駁的な理想へと変容させること。「完全性」の不可能性を受け入れる。

    「現前としての存在」の理念を意味し、さらに「客観性」と「物自体」に属するものと捉えるような、社会的なものの論理に基づくあらゆる多元主義は必然的に多元性の縮小、そして究極的にはその否定に至らざるをえない。だからこそ、私が擁護する多元主義は、際に積極的な地位を与え、全員一致や均質性(それは常にフィクションとしてアキラkになるものであり、排除の諸行為に基づくーという目標を疑問視する。多元主義の全面的許容ではなく、多元主義の限界を理解する。あらゆる災害時されるわけではない。

    多元主義に関して真に問題になっているのは「権力と抗争性、そしてその除去不可能な性格」。これは民主主義理論において有力な客観主義と本質主義を問題化する視座によって、初めて理解することができる。いかなる社会的客観性も究極的には政治的であり、その構成を統治する排除の作用の痕跡を示さなくてはならない。

    あらゆる客体は、それ自体の存在をそれ自体とは別の何かのうちに彫刻するのであり、その結果、全てのものは差異として構築される。

    ロールズ:道徳的区別として、善に対する正の優位性を示すことで問題を回避しようとしている。つまり彼は自らの多元主義の境界を正当化するための説得力ある議論を提示できず、循環論に陥る。政治的自由雨主義は合理的な人々の間での合意を提供しうる。その人々は、定義上、政治的自由主義の諸原理を受け入れる人々に限られる。

    →ロールズの自由主義は必然的に「合理性」の中に限られた中のものとなる。教育や文化による制約は?

    ウィトゲンシュタイン:政治的なものについての新しい理論化の方法を示している。コンテクスト主義。ローティは言語哲学から普遍的な道徳哲学を引き出すことは不可能だと確認している。問題の本質は合理性ではなく。共有される心情の問題。

    プリゴジんによってムフをもう少し「立体化」させることができるのではないか?

    「倫理的視座」を擁護する人々の語彙はレヴィナス、アレント、ハイデガー、ニーチェに由来。ジラールの重要性はミメーシスの葬儀的な本性を明らかにしたことにある。ダブルバインドによって人々を同じ目標への共通の欲望へとまとめ上げるその動きが、構想性の起原でもあることに他ならない。つまり、競争や暴力は交換の外部であるどころか、交換が永続する可能性そのもの。恩恵性と敵意が解消されることはないのであって、社会秩序は暴力によって常に脅かされている。

    複数主義的民主主義は常に存在し続けるのであり、決してその最終的解決はない。倫理と政治の間の必然的な裂け目を還元することを拒否し、平等と自由の間のそして暴力を通じた教会の確立を伴う人種の倫理と政治的論理の間の還元不可能な緊張関係を認めることは、政治的なものの領野が合理的な道徳的計算には還元されず、常に決定という景気を必要とすることを承認するもの。倫理と政治の間の和解可能性という幻想を捨て去ること、倫理的なものによる政治的なものの終わることなき審問に取り組むこと、これこそが民主主義の逆説を認める唯一の方法。

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著者プロフィール

ベルギー生まれ。現在、ウェストミンスター大学民主主義研究所教授(政治理論)。ハーバード大学、コーネル大学、プリンストン大学先端研究所、パリ国立科学研究センター(CNRS)などでの研究職や、コロンビア国立大学、ロンドン市立大学、ロンドン大学ウェストフィールド・カレッジなどの教授を歴任。パリ国際哲学カレッジにも参画。邦訳に、『政治的なるものの再興』(千葉眞・土井美徳・田中智彦・山田竜作訳、日本経済評論社、1998)、『民主主義の逆説』(葛西弘隆訳、以文社、2006)、『政治的なものについて』(酒井隆史監訳、篠原雅武訳、明石書店、2008)、エルネスト・ラクラウとの共著『民主主義の革命』(西永亮・千葉眞訳、ちくま学芸文庫、2012)などがある。

「2019年 『左派ポピュリズムのために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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