美学とジェンダー―女性の旅行記と美の言説

制作 : Elizabeth A. Bohls  長野 順子 
  • ありな書房
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レビュー : 1
  • Amazon.co.jp ・本 (454ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784756604842

作品紹介・あらすじ

一八世紀から一九世紀初頭にかけてのイギリスでは、風景への関心や異世界の発見とともに「旅行記」が流行した。ちょうどその時期は、大英帝国の拡張期であり、また近代美学の形成期でもあった。本書は、とくに女性の旅行記に焦点を当てて、市民社会の「外部」(異国、野生の自然、未開人、労働者等)へのまなざしが、近代的な「感性」や国家意識を形成する上でどのような役割を果たしたのかを、ジェンダー的な観点から明らかにしようとする。
 モンタギュ夫人からメアリー・シェリーにいたる女性作家の手紙や報告は、トルコ、西インド諸島、革命期のフランス、北欧、スコットランド等について生き生きと語っているが、そこには崇高、ピクチャレスク、ゴシック趣味、いわゆるオリエンタリズムの言説が散乱している。しかし彼女らは、自らの「眺める主体」(「美的主体」)という立場に何か居心地の悪さを感じてもいた。女性自身が、「美的対象」として眺められる側に位置づけられていたからである。彼女らの感じとったこの違和感は、当時の美学の根本原理「無関心性」に対する疑義へと生成し、近代美学を支えていた政治的・社会的論理が、階級・人種・ジェンダーという複合的な視点から浮き彫りにされることになる。
 著者は、アン・ラドクリフ、メアリー・ウルストンクラフト、ドロシー・ワーズワスといった英文学史の周縁に位置づけられてきた女性作家だけでなく、無名の女性著作家の仕事にも光を当てて、そのユニークで優れた文筆活動を掘り起こしている。これらの女性の語りの根底にある共通した「きしみ」、それを一つの一貫した流れとして読み解こうとする試みであり、著者が取り上げる作家たちが、個人的・文学的交流によって相互に深く絡み合っていることがよく理解できる。イギリス近代社会における風景美学、ツーリズム、旅行文学研究のジェンダー版ともいえる。

感想・レビュー・書評

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  • フランケンシュタインの怪物は女性だった。そう言うと驚かれるかも知れない。あれはどう見ても男性だった、何しろ花嫁が後に造られようとしたのだから、などとむきになられては困る。もちろん、女性だというのは象徴的な意味合いにおいてである。

    ジェンダーという言葉を有名にしたのは、同名のイヴァン・イリイチの著作だった。しかし、イリイチの問題提起は世に容れられたとは言えない。男性や女性という概念が生物学的に所与のものとして存在するのではなく、歴史的、社会的に作りあげられたものであるという「ジェンダー論」の基本的な視点は諒解されたものの、現代の産業資本主義に対して批判的なイリイチが、対向概念としてヨーロッパ中世に由来する相互補完的な非対称性を保持する男性と女性の社会的分業が成立する社会を持ちだしたことによって、保守陣営もフェミニズム陣営も共に敵に回してしまったからである。

    イリイチによってノスタルジックに称揚される「ヴァナキュラーなジェンダー」という概念は、男性でもなければ女性でもない中性的な労働者という役割を期待する産業資本主義にとってはとうてい受容しがたい観念であったし、それはまた、第二の性として抑圧され差別されてきた女性の復権を求めるフェミニズムの立場から見ても男女の非対称性(例えば女性用の鎌は男性に比べて小さかった)故に認められるものではなかった。

    しかし、ジェンダーによる差を認めないはずの現代社会は、現実的には依然として男性中心社会であり、女性は従属的な位置に甘んじて不遇をかこっている。それ故にジェンダーという言葉は、社会の中で歴史的に女性が男性中心の社会によって、どのようにして女性というジェンダーに縛り付けられてきたかを明らかにする立場から用いられることが多い。本書の筆者ボールズも基本的にはその文脈で使用している。

    筆者は、それまであまり日を当てられることのなかった18世紀英国の中産階級に属する女性による旅行記を素材にとり、「ピクチャレスク」という風景の見方を表す美学上の概念を手がかりに、従属的な性であった女性が、書く主体の側に回った時、どんな事態が起きたのかを克明に辿ってゆく。そして、そうした女性たちによって書かれたテクストが織りなした作品として、アン・ラドクリフの『ユードルフォ城の謎』、メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』を提出する。ジェンダー的視点で読み解かれるゴシック小説論というのは新鮮な試みではないだろうか。

    エドマンド・バークによって代表されるピクチャレスク美学は上流階層の男性によって作られたものである。当時、女性は「見られる側」の位置にあり、書く主体たり得なかった。その女性が風景を語るためには男性的言説に頼らざるを得ない。カントに始まる美学上の約束では風景を前にしたとき、対象に対して距離を置き「無関心な主体」と化すことが要請される。ところが、彼女たちは、過酷な労働に従事している女性や子どもといった同じ「見られる側」の声を代弁するという行為をあえて冒すことにより、それまでの美学的言説に亀裂を生じさせることになった。

    御存じのようにシェリーの小説の中の怪物は、フランケンシュタインによって創り出されながら、彼の一家から追われることになる。自らが創り出した〈生きもの〉を排除することで彼ら西洋文化の幸福な小宇宙は平穏を保つことができる。いわば「彼らの生き方の快適さや美は、自分たちの文明がそのアウトサイダーに対しておこなう暴力によって養われている」のだ。ここまでくれば〈生きもの〉が、女性や植民地の人々のように「オリエンタリズムからピクチャレス美学にいたるまで屈辱的な表象の慣習によって主体性や声を否定されてきたタイプの人々を独立した主体性や声を持ったものとして表象」したものであったことがはっきりする。

    初期の女性旅行家たちは、風景中の人物にも感情があることを明らかにした。シェリーはそれを拡充し、グロテスクな存在に感情や品位を与えることで、美学とは「社会の一定のメンバーを〈文明人とする〉ために、残りのメンバーの価値を低める必要があるような社会的分断をする言説だということを暴露」しようとしたのだ、というのが筆者の分析である。実に美とは暴力であった。

    旅に出ると、誰でも旅行記のようなものを書いてみたい誘惑に駆られる。そして、書こうと思えば誰にでもそれなりのものが書けるのは、これまで美学的言説が培ってきた文化的蓄積が我々の社会には澱のようにたまっているからだ。しかし、何を美しいと見るかということについてはこのような論も成立する。迂闊に旅行記など書くものではないな、という畏れを覚えたことであった。

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