考える身体

著者 :
  • エヌティティ出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (265ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784757140141

作品紹介・あらすじ

身体の思想ではない。いまや、思想の身体こそ語られるべきではないか。人類の起源から現代に至る歴史的文脈のなかに「身体」を位置づけ、身体と精神・言葉・文学・思考・芸術・舞踊…との関係を縦横に論じる。

感想・レビュー・書評

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  • 36513

  • 「身体の零度」を書くと、ここに来るということなんでしょうね。もう一つの方向が近代文学なんですが。

  • ・人間にとってじつは自然なものなど何ひとつないということだ。何気ない言葉、何気ない表情と言う。だが、言葉も表情も、徹底的に学習されたものなのである。徹底的に学習されたからこそ、完全に身についてしまい、本人にとってさえそれが何気ないものになってしまった。それが、言葉であり、表情であり、さらに言えば、身体所作すなわち立ち居振る舞いなのだ。

    ・自分の何気ない言葉や仕草が、じつは何気ないどころか、まさに文化であり、学習によってはじめて獲得されたものだということに気づくのは、たとえば外国人に接した場合である。

    ・表現としての言葉と、表現としての身体は、まさに表裏一体なのだ。それは、他人に自分を伝える手段として表裏一体であるのみならず、自分が自分自身であることを知る手段としても表裏一体なのである。詩とか日記とかを書き始める時期と、やたらに髪をいじったり、ひそかに化粧し始めたりする時期は、一致している。少女が化粧し始めるのは他人に向かってだけではない。自分に向かってでもあるのだ。同じことは、少女のみならず少年にも当てはまる。髪を染めたり、ピアスをしたりするのは、昔でいえば、詩や日記を書き始めるのとほとんど同じことだ。

    ・古来、洋の東西を問わず、教育は、この時期、すなわちいまでは一般に思春期といわれている時期、小学校上級から中学、高校の時期にかけての時期においてもっとも重要だった。この時期に、成人式すなわち通過儀礼が行なわれたのである。そしてその段階で、言葉づかいとともに、言ってみれば、<身体づかい>も習得させられたのである。自分というものを確立するのと、自分の身体を確立するのとは同じことだったのだ。

    ・教室というのは公の空間なのだ。晴れの場と言ってもいい。それは個人の勉強部屋とはまったく違う空間、社会的空間なのである。誤解を恐れずに言ってしまうが、本音のための場所ではなく、建前のための場所なのだ。それは呻くように本音を滲みださせる近代の文学空間の、それこそ正反対に位置する場所なのである。

    ・誰もが体験することだと思うが、教師に問われて答えるとき、生徒がまず考えるのは、教師がどのような答えを望んでいるかであって、正しい答えなどではない。数学はいざ知らず、国語にいたってははっきりとそうである。また、それでいいのだ。それこそが社会性ということなのだから。教科書、とりわけ国語教科書が考えなければならないのは、教室という場所のこのような性質ではないか。

    ・舞踊に強い関心を持つようになって、身体について考えることが多くなった。その過程で、人間にとって身体というのは、ほんとうはわけの分からないものだということがいよいよ分かってきた。というより、身体がわけの分からないものになった瞬間、人間が人間になったと考えたほうがいいらしい。自分は自分だという意識を手に入れたとき、身体は人間にとって少しも自明なものではなくなってしまったのである。人間は、身体がわけの分からない不気味なものであると認識した結果、身体を加工するようになった。加工することによって、この不気味なものを手なずけようとしたのである。そう思える。

    ・あらゆる芸術の起点に、痛みがある。

    ・アクセサリーは寒さとも暑さとも関係ない。ただ、人間の意識にだけ関係するのである。つまり、装身具というのは人間の意識とともに古いということになる。装身具は、なぜかいつのまにか自己意識を持ってしまった人間の、原罪のようなものである。自己意識を持ってしまった人間にとって、いちばん不可解なものが自分自身の身体であっただろうことは容易に想像がつく。自己意識を持つことのやっかいさが、そのまま身体を持つことのやっかいさへと転化してしまったと言ってもいい。その意識の表れが、アクセサリーだったというわけだ。

    ・興味深いのは、ここにすでに他人との関係が含まれるということだ。人間にとって身体はまるで他人のようなものとしてあるのであって、それを、まあ、しようがないかとでもいうように、自分の身体として引き受けるときの儀式が、つまり刺青や化粧や装身具や衣裳であったということである。ここにすでに人間とはひとりの他者であるという仕組みが見て取れるのであって、したがって、この、人間が自分自身になるための儀式である身体加工が、同時に、自分というものを他者に示す行為でもあるというのは、まさに当然のことなのだ、ということになる。

    ・刺青でも抜歯でもいい。人間が人間になったのは、明らかに自分の身体を傷つけることによってである。それではなぜ人間は自分の身体を加工するようになったのか。自分が自分であることを確かめたいため、社会における自分の位置を明らかにしたいためだ。とすれば、人間は自分が自分であることを確かめずにはいられない存在なのだということになる。逆に言えば、人間は、確認しない限りは、自分が自分ではない存在なのだ。

    ・自分が自分であることを知るには、他人にならなければならない。人間の自己意識の仕組みは、そのまま社会の仕組みに重なっているのである。人間の社会が類人猿の社会から飛躍したのはこの仕組みによってだが、そのもっとも簡明な表れが憑依現象だったわけだ。自己とは小さな憑依現象であり、社会とは大きな憑依現象であると言いたいほどだ。だからこそ人間は、憑依現象の一形式としての舞踊を、そして演劇を発明したのである。

    ・人間は死すべき存在である。それを引き受けることが生きるということなのだ。分かりきったことだが、しかし考えてみればじつに不条理なこの事実を、身体を通してじかに納得しようとする行為、それが舞踊なのである。だからこそ、信長は桶狭間の戦いに臨む直前に幸若舞を舞ったのである。また、だからこそ能であれバレエであれ、すぐれた舞踊はすべて生と死の境を舞い踊るのである。舞踊を婦女子の遊戯としか思っていない人に、舞踊の魅力を伝えるときには、そう話すことにしている。

    ・人間は模倣する。それが最初のコミュニケーションだが、その模倣を通して、表情を、言語を、とりわけ、たとえば微笑み語りかけるときの、その呼吸の機微のありようを獲得してゆくのである。それを中心にして、表情の、仕草の、身体所作の全体系を習得してゆく。だからこそ、言語だけではなく、表情や仕草や身体所作も、民族によって微妙に違うのだ。そして、この身体所作の全体系のエッセンスが、舞踊にほかならないのである。

    ・わたしに触れると

    人は恐怖の叫びをあげる

    でもわたしは知らない

    自分が熱いのか冷たいのかを

    わたしは片時も同じ位置にとどまらず

    一瞬前のわたしはもう存在しないからだ

    わたしは燃えることによってつねに立ち去る

    (大岡信「炎のうた」)

    ・たとえば素晴らしい舞踊を見ると、人は自分とダンサーの違いを忘れてしまう。ダンサーの呼吸に支配されてしまうのです。それで、固唾を飲んで見終えたときにはいっせいに溜息をつく。そして、拍手する。スポーツの試合にしてもそうです。試合が白熱してくると、誰もが熱狂しますが、それは心がひとつになるということなのです。

    これが人間に特殊な能力なんだということを、私は山極さんから教わったわけですが、集団行動ができるということと、他人に憑依することができる、他のものになることができるということは、じつは同じことなのではないか。私はそう思うのです。一篇の詩が集団の心と揺さ振り、舞い手の一振りが集団の心を一つにする。これこそがじつは人間社会の起源というか、根本なのではないか。

    ・絵画は視覚に、音楽は聴覚にもっぱらかかわるが、舞踊と建築はともに触覚にかかわることによって、いまなお密接な関係にある。触覚という言葉が奇異に響くならば、五感といってもいい。建築は、そこに入るもの、居住するものの全身を、全感覚を支配する。舞踊もそうだ。舞踊は見るものの呼吸を支配し、全身の筋肉を支配し、そのうえで感情を支配する。舞踊と建築のこの関係は、いまなお重要な研究課題としてあるといっていいが、じつはこのような問題系のひとつの現われとして20世紀の舞踊の歴史もあったのである。

    ・狂気へのこだわりは、また別のかたちで、太田省吾の仕事のなかにも流れこんでいると言っていい。そこでは、きわめて些細な行為、たとえば歯磨きの手順、食事の作法、寝床の配置といったことこそが決定的に重要な問題なのだ。演劇においてはこれはひとつの重大な発見であって、忘れてならないことだが、それまでは政治こそが論じるに足る最大の問題だったのである。小劇場運動が、それまでの演劇の潮流にもたらした最大の変化は、おそらくこのことにあったと言っていいほどだ。寺山修司も唐十郎も鈴木忠志も太田省吾も、演劇におけるそれまでの価値観を逆転させたのである。

    ・演劇と精神分析といい、舞踊と精神分析という。だが、実際は、精神分析からこそ演劇も舞踊も発生したのだと考えることができる。魂の分析からこそ。

    ひとつの言葉、ひとつの身振りが、強いこだわりとして魂に結びつけられたとき、人はそれを反復するほかない。逆に遡れば、強いこだわりとしての反復こそが言葉になり、舞踊になったのである。人間的意識の起源といってもいい。この意識化こそが、原初の言葉であり舞踊であったとすれば、精神の治療こそ舞台芸術の原初形態にほかならなかったのである。そしてその原初形態としての舞踊を、たとえばピナ・バウシュは、あまりにもあからさまに、いま、人々の前にさらけだしている。

  • 芸術の身体―身体論のひろがりのために
    1 メディア
    2 身体
    3 表現
    4 舞踊
    5 思考
    あとがき
    (目次より)

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著者プロフィール

文芸評論家

「2022年 『ベスト・エッセイ2022』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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