ゴダール マネ フーコー―思考と感性とをめぐる断片的な考察

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  • NTT出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784757142015

感想・レビュー・書評

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  • 本書を評価できるほど内容を完璧に理解できているとは言いがたいけれども(特にデリダはあまり読んだことがないので)、図書館で何気なく手にとって読み始めたところ、引き込まれて借りた。
    というのも、冒頭であのゴダールの家に『映画史』の3Aを観に行くまでの顛末が描かれているのだから、引き込まれないはずがない。
    スリリングでどきどきさせられた。そんな批評は読んだことがない。
    それはおそらく、一見すると時間とは縁遠い(例えば、作家が死んでからその評価が安定するといったふうな)批評というものが筆者の生きる時間と密接に関わり合っているスリルだろう。連載のさなかにダニエル・ユイレが死に、チェリストのロストロポーヴィチが死ねば、書かれる内容も変更を受ける。逆に、ミシェル・フーコーがもはや亡き人であろうがなかろうが、著者の批評の刃の切れ味は容赦がない。あるいは、まだご健在の、ドゥルーズの『シネマ』の訳者、宇野邦一のマネ論への痛烈な批判。
    そのあとで展開される、マネを媒介としたゴダールとフーコーの、実現しえなかった、あるいは実現しえた、あるいは実現していたかもしれない両者の邂逅をほのめかす『映画史』論には感動した。事実はどうだっていいのだ。それがゴダールにとっての映画。いやいや、とはいえやっぱ知の「考古学」だよ、と反論する『言葉と物』のフーコー。そんな相容れない二人の間で交わされるわずかな同意があったとすれば・・・
    筆者はそう書かれて怒るかもしれないが、本書はある意味ロマンティックな書物。

  • 群像2009年3月号書評より

  • ゴダールのマネとフーコーのマネ。両者の比較から、映画・複製性・言語・声といった主題系を手繰り寄せながら、またダニエル・ユイレの死去といった出来事も出来しつつ、テクストは、フーコーの「孤独」へ、そしてありえたかもしれないフーコーとゴダールの邂逅を夢想し、結ばれていく。このシーンは美しい。

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著者プロフィール

蓮實重彦(はすみ・しげひこ):1936年東京生まれ。60年東京大学文学部仏文学科卒業。同大学大学院人文研究科仏文学専攻修了。65年パリ大学大学院より博士号取得。東京大学教養学部教授(表象文化論)、東京大学総長を歴任。東京大学名誉教授。仏文学にとどまらず、映画、現代思想、日本文学など多方面で精力的な評論活動を展開し続けている。著書に『表層批評宣言』『凡庸な芸術家の肖像』『映画の神話学』『シネマの記憶装置』『映画はいかにして死ぬか』『映画 誘惑のエクリチュール』『ハリウッド映画史講義』『齟齬の誘惑』『映像の詩学』『『ボヴァリー夫人』論』『伯爵夫人』『ジョン・フォード論』ほか多数。

「2023年 『ゴダール革命〔増補決定版〕』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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