- Amazon.co.jp ・本 (358ページ)
- / ISBN・EAN: 9784757142589
作品紹介・あらすじ
原始社会において宗教はなぜ不可欠だったのか、信仰の本能はいかにして人間の本性に組み込まれたのか-生物学、社会科学、宗教史を架橋する壮大な物語。
感想・レビュー・書評
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前半は退屈だが中ほどから面白いので是非途中からでも読んでほしい。生物史や古代の宗教の形態、それが自然淘汰にいかに有利に働いたか。人類へいかに貢献してきたかとその害悪。そして三大一神教の教義のパクリっぷりなどが面白くてたまらない。
無神論を押し付けるわけでも進攻を押しつけるわけでもない一冊はどなたにも読んでいただきたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
池田信夫のブログでニュートラルな評価(けなされていない)で紹介されていたので、ある程度まともな本なのかと思っていたが、ひとことでいうとトンデモ本の部類に入るだろう。著者が、自らが擁護したい主張にその論理を合わせに行っているので、そこかしこで論理破綻している。ちょっと長いけど、その辺を少し。
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原題は”THE FAITH INSTINCT”で、スティーブン・ピンカーの主著『言語を生みだす本能』”THE LANGUAGE INSTINCT”をもじっている。「言語と同じく宗教は遺伝的に形成された学習能力の上に築かれた複雑な文化的行為である。」(P.9)と著者は言う。宗教を軽視するピンカーを批判し、言語と宗教を対置して、宗教本能が言語本能と同じ意味で人間の本能として備わっていると言いたい、ということがこのタイトルからも分かる。ただ仮に道徳的行動を本能としても、そこから宗教が同じように言語本能と同じ資格で人類の本能として備わっているというのは論理の飛躍がある。
そこで「本書の目的は、進化論の観点から宗教的行動を理解すること」(P.8)として、遺伝子や淘汰を持ち出して宗教行動の本来性を説明している。しかし、著者の進化論の理解度からは差し控えるべきではなかったのだろうか。それともそのことは承知でのことなのか。著者の主張は、宗教能力が突然変異と自然淘汰からなる進化によって人間の本能として備わっていることを科学的に示すことでは実はなく、宗教が素晴らしく今後も重要であることを科学的な装いで説明したいということでしかないのではないか。本書の論理の展開は、最後の方になるにつれ、どんどん見苦しいことになっていく。なぜならどうやらこれが本書の目的ではなさそうだからである。
そもそもこの本にとって「宗教」とは何か。著者ももちろん「宗教の定義」を行っている。宗教とは、「感情に働きかけ、人々を結束させる信念と実践のシステムである。そのなかで、社会は祈りと供犠によって超自然的存在と暗黙の交渉をし、指示を受ける。神の懲罰を怖れる人々はその指示にしたがい、自己の利益より全体の利益を重んじる。」(P.18)としている。「全体の利益」とはその個人が属している集団の利益だ(著者がまず頭に浮かべているであろう「集団」も読み進めるうちに明らかになる)。集団内の利他的行動が遺伝子の淘汰の対象となるかは議論があるところではあるのだが、ここではあっさりそのことを前提としている。もちろん集団の文化的行動が集団間の淘汰にさらされることは確実だが、そのことが遺伝子レベルでの獲得形質によらないといけないということはない。さらに遺伝的形質を議論する場合には、世界宗教と初期宗教は明確に区別されなければならないのに、この定義ではそれを混同してしまうことになる。
また著者は宗教行動が人間の本能として備わっている証左として、その普遍性を挙げるが、この論理はおかしい。
例えば、「宗教行動は人間の進化した部分と考えるおもな根拠は、宗教の普遍性にある。あらゆる社会になんらかの宗教がある。世界じゅうに存在する宗教は、文化によって大きく異なるとはいえ、共通点も多い。宗教行動が持つそういったほぼ不変の特徴には、遺伝的基盤があると考えられる。」(P.47)という。
ここでも本書を通して多く見られる論理の転倒がある。人類が持つ遺伝的形質(本能)であれば普遍的であるが、その逆、普遍的であるからといって遺伝的形質にその源があることは真実とは限らない。著者は結論をいそいであっさりと論理を飛躍させてしまう。
著者はその論拠が薄いことを分かってのことか、脳神経生理学的研究によってその根拠が見つかる"べき"、としている。「宗教行動の普遍性は、言語と同じように、脳内の構造に仲立ちされているからと考えられる。言語は脳の特定の領域にある神経回路に支えられている。というのも、その領域がわずかでも損傷を受けると、言語能力に障害が出るからだ。しかし言語と違って、宗教行動の土台となる神経回路がある脳領域は、まだはっきりと特定されていない。」(P.51) - ここから得られる結論は、普通であれば"もしかしたら宗教行動は神経回路に根ざしたものではないのかもしれない"、となるべきはずだ。しかし著者は、こう続ける。「つまり、宗教行動は現在の調査方法で発見できるほど大きな脳領域を必要としていないようだ。」(P.51) - この論理の飛躍は、もはやあきれるしかない。
さてここまできて、どうやら本当の「本書の目的」が見えてくる箇所がある。「宗教について書いた生物学者は多くはないが、そのほとんどが、宗教は進化的起源を持つと考えている。しかし何人かは、宗教は偶然の産物であり、自然淘汰上、有利だったほかの性質から生じたと主張する」(P.72) - ここで「ほとんど」の宗教について書いた生物学者とは誰かは述べられない。一方、「何人か」については具体的に述べられる。「宗教行動を非適応とする有名な生物学者に、スティーブン・ピンカーとリチャード・ドーキンスがいる。偶然ながら、ふたりとも宗教を痛烈に批判している。」(P.73) - どう考えても偶然ではないのだが、いずれにせよこの二人が反対していれば、その正当性について真剣に考えるに十分だろう。つまり、本書の目的は実は、著者の考えるところに反する彼らの宗教批判に対抗することにある。リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』のような急進的な無神論に対抗する必要性を感じていることは確かであるように思われる。
だからこそ、著者にとって宗教行動が進化論に根ざしたものである必要があったのだ。
しかし、「目や耳のような複雑な器官は進化の中で少しづつ形作られた。これは宗教のような複雑な行動でも同じだろう。」(P.85)としてしまうほど、著者の進化論の適用についてあまりにも思慮が足りていない。
著者は舞踏と音楽と宗教と言語の四つが共進化したのではないかというが、もちろん「この四つの複雑な相互関係はまだまったく解明されていないが、いつの日にか、それらにかかわる神経回路を作り出す遺伝子が特定されれば、明らかになるかもしれない。」(P.100)としてしまう(妙に事実については正直なのだ)。そして、脳神経生理学にその証拠を見いだせなかった著者は次に考古学的証拠に向かう。「音楽と舞踏と宗教は、五万年前、現生人類がアフリカを離れるまでにそろっていたにちがいない。が、いまのところ、それらの発生時期を特定できる考古学的証拠はほとんどない。知られているもっとも古い楽器は、ドイツのガイセンクレスタールで発見された、白鳥の骨から作られた二本の横笛で、およそ三万六〇〇〇年前のものとされる。」(P.101) - ダメだった。
それにも関わらず、「ある意味で、宗教はひとつしかない。すべての宗教はひとつのファミリーに属するので、互いに関係がある。... しかし、宗教の歴史を一瞥すれば、それがいくつかの重要な点で言語に似ていることがわかる。おそらく今日のすべての言語がひとつの樹から枝分かれしたように、宗教もひとつの樹から派生しているのだ。」(P.162) - まるで言語がひとつの樹から派生したから宗教もそうだと言わんとしているが、比喩は比喩でしかなく、その正当性を保証するものでないことは明らかである。何にせよ、論理に無理があるのだ。
本書では世界宗教について、ユダヤ教の起源、キリスト教の起源、イスラム教の起源、と考察を重ねるが、その考察によってこれらが遺伝的に獲得した形質であることのつながりを証明しているとは思えない。あえて宗教を遺伝形質に根ざすものと言わずとも成立するのではないだろうか。類人猿にも見られる道徳的感情が遺伝的獲得形質であるとして、そこで終了ではないのだろうか。
また、宗教が大事だという論拠についてもいよいよ怪しくなってくる。「それでも宗教は、かつてほど目立たないとはいえ、昔ながらの役割の多くを担いつづけている。なかでももっとも重要なのは、人々に存続に大きくかかわるきわめて困難な行為、すなわち戦闘の準備をさせることだ。」(P.261)として、「宗教は戦闘に対応して進化してきた。宗教によって人々は共通の目標に身を捧げ、味方のために躊躇なく命を投げ出すほどだった。この驚くべき態度は人間の本能に深く刻みこまれているため、歴史をつうじて数多くの人々が、自分の宗教と仲間のために死んできた。本人と家族の利益は、より重要な大義の下位に置かれた。」(P.264)と書くに至っては、宗教に反対する論拠の全くの裏返しだ。
最後に近づくにつれて論理破綻がますます加速していく。「公正な法律があること、経済がおおむね反映すること、富がそれなりに平等に分配されることはすべて、まとまりのある社会には欠かせない。しかし、アメリカのように多様な国が驚くほど社会的に安定しているのは、それらだけでは説明できない。アメリカ市民宗教が、宗教の異なるあらゆる人々に精神的な絆を与えているのだ。さらに言えば、異なる人種間の橋渡しをしていることのほうが大きいかもしれない。」(P.302)というのもおかしい。アメリカ市民宗教にはイスラム教などが入っていないことは明白だ。さらに「結束を強める宗教の力は、ヨーロッパやアメリカなど、それ以外の社会的絆が弱まりつつある国や文明にとりわけ役立つはずだ。ヨーロッパは、何世紀ものあいだ互いに戦ってきた国々をひとつにまとめるという大胆な実験に取り組み、内部での深刻な戦争が起きにくい体制を作ろうとしている。キリスト教という共通の遺産がその結束力になりそうだったが、新たな欧州連合(EU)の憲法によって現代の宗教軽視の傾向があらわになった。キリスト教は加盟国すべてで昔から信仰され、消えようのない文化と歴史の一部であるにもかかわらず、EU憲法でまったく言及されていない。」(P.311)と書いてしまうことで、この人はもう単純にアメリカのキリスト教をその無知なるところも含めて擁護をしようとしているのだ。彼がリチャード・ドーキンスに対して過敏に反応しているのもよく理解できる。それこそが、ドーキンスがまさに撃たんとしているところであるからだ。
「神を信じる人も減っているが、教会に通う人よりはずっと多い。スウェーデンで神を信じると言う人の割合は、一九七四年の八〇パーセントから、二〇〇一年の四六パーセントに減った。同じ時期で見ると、フランスでは六六パーセントから五六パーセントに落ちている。つねづね例外であるアメリカでは、一九七四年に九四パーセントの人が神を信じると言い、二〇〇一年にもまったく同じ数字が出た。」(P.307)という数字を出して、アメリカ人って本当におかしいんじゃないか、ドーキンスが心配するのも分かるわ、と思う。
しかし、著者はこれに対して、「これらの数字の変化は、人間にはもともと宗教行動の能力が備わっているという見解によって容易に説明がつく。能力があるからといっていつも最大限に発揮されるとはかぎらないということだ。」(P.307)としていてあきれる。普通に考えて、文明が進化して科学的な知識が増えるに従い神を信じる人が減っているということは、宗教信仰が環境に対する反応であって、本能ではないことを示す方の有力な証拠としか結論づけられない。
さらには、「宗教行動を好む性質が人間の神経回路に遺伝子レベルで刻まれている以上、宗教活動がすたれることはなさそうだ。そのうえ、たとえ人口のひと握りであっても信心深い人々がいれば、彼らの価値観が多くの人と共有され、国の文化にとどまりつづける可能性もある。」(P.308)と、神経回路に遺伝子レベルで刻まれている証拠はないと、自分で言っているのにそのことは全く無視の論理が展開される。
「宗教行動が大昔から果たしていた役割、すなわち集団内の結束を高め、外部集団から守るという役割は、たとえ教会へかよう人の数が減りつづけても続くと思われる。同じ宗教の異なる宗派間でひとつの価値感が共有されるなら、内と外という社会の両極化が、部族や国を超え、文明規模で起きてもおかしくはない。」(P.308)をなぜか肯定的に記述していることはあきれる。先のEUの例からも見てとれるように、そうとは言わなくてもアメリカの素朴なキリスト教を正義として捉えているのだ。
そして最後の締めがこうだ。「部族が国へ、そして文明へと発展する過程で、宗教は社会を団結させるメカニズムとしてもっとも基本的で際立った働きをする。合理的思考や社会の安定は、人々の宗教行動を減らすかもしれない。戦争や不安は教会へ足を運ぶ信者を増やすかもしれない。いずれにせよ、宗教は人々が団結して敵から身を守るのに欠かせない手段でありつづける。」(P.312) - 「進化論の観点から宗教的行動を理解することである」とした本書の目的は影も形もない。著者がある人の集団に対して「敵」を想定していることも明白だ。頭にあるのは、もちろんアメリカの「敵」であろうことは想像に難くない。
ここで、「際立った働きをする」は、「際立った働きをした」と過去形であるべきだろう。宗教が著者の希望に反して少なくともアメリカという特殊事例を除いては団結に役に立たなくなっていることがますます多くなることを理解すべきだろう。そのときに宗教をその玉座から引きずりおろした科学がその埋め合わせをする必然性がおそらくはある。例えば、内面を管理する方策のひとつとしても、団結を産み出す力としても、ソーシャルネットワークという新たに生まれた場を想定して検証するのは間違っておらず、よほど生産的であろう。
書評などを読んでいると比較的好意的なものも多い。どこを切り取ってもトンデモ本にしか見えないのだが、どうだろう。
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宗教を論理的に擁護しようとすると論理破綻してしまうよい見本だということにしましょう。
道徳的本能はあると思っているし、類人猿にもその徴は見られるし、集団内の利他的行動が集団の淘汰に影響を与えて、それが宗教を含めた文化を形作るというのは、その通りだと思ってますよ。一方、宗教と神は、その役目を終え、また終わるべきだと考えているだけです。
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原題が”THE FAITH INSTINCT: How Religion Evolved and Why IT Endures”となぜか’IT’が大文字になっている。背表紙と表紙の両方でそうなので、何か意味があるのだろうかと思ってAmazon.comで原書を検索すると普通に"It"になっている。チェック漏れか。どうでもいいことだけど、批判的に見てしまっているので気になるな。
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著者は、New York Timesの科学ジャーナリストで、いくつかの著作が邦訳されている著名な人物らしい。ただ、NY Timesにおけるリチャード・ドーキンスの『神の存在証明』の書評で、進化を事実とするのはおかしいとその態度含めて批判したらしい。ダニエル・デネットからそのことに対する反対の投書が届いたりして、Wikipediaにも載っかるちょっとした論争になったらしい。なるほど創造論者だったか。そうと知っていれば読まなかったかもしれないけれど、逆の意味で勉強にはなったかな。 -
タイトルの通り、宗教を生みだす本能が人間には備わっていること、その性質は遺伝によって受け継がれてきたことを主張している本。宗教の起源、音楽・舞踊とのつながり、共同体の道徳・経済・生殖行為に与える影響などがわかりやすく説明されている。著者はニコラス・ウェイド。進化心理学に精通し、『Nature』『サイエンス』などでサイエンスライターとして活躍した。
印象に残ったのは、宗教は性習慣に介入し、出生率をコントロールする機能があるという点だ。中絶や避妊、同性愛の禁止を命じる宗教は多いが、それらはすべて出生率の増加につながる。集団の規模か大きくなることは、周辺の共同体に対する優位性に繋がる。
もうひとつ印象に残ったのはは、著者が進化論における集団選択の立場をとっている点だ。『利己的な遺伝子』のリチャード・ドーキンス、『暴力の人類史』のスティーブン・ピンカーに対立する主張がたくさん書かれていた。たしかに、生物の世界では淘汰は遺伝子のスケールで起こっているが、人間に関しては集団での淘汰も含めて考える必要性を感じた。
宗教が世界に存在し続けてきた理由がわかるようになる本。
印象に残ったところメモ。
・奇食者と戦闘、この2つの大きな脅威に対する対応策が徐々に明らかになった、宗教である。
・食事の喜びは人を食べることに向かわせるが、食べることの進化論的意味は別にある。信仰の満足は人を宗教の実践に向かわせるが、宗教の進化論的機能はまったく別のところにある。それはすなわち、人を結束させ、集団の利益を個人の利益に優先させることだ。
・宗教行動もシグナルとして機能する。厳しい儀礼を通してのみ学ぶことができ、膨大な時間を要求するからだ。
・シグナルは象徴であり、言葉よりはるかに効果的にメッセージを伝えられる。
・出生率は、とりわけ原始宗教においては存続を左右する重要な要素であり、宗教は出生率を調整する有力な手段となる。宗教的慣習は通常、出生率を上げるために設けられる。
・多数の社会に性交のタイミングを定めた宗教規定がある。
・結婚には明らかに存続上有利な点がある。ひとつには、自分や家族を守ってくれる男性を女性が得ることで、幼児を成人まで育てられる可能性が格段に高まる。また、社会という観点から極めて重要なのは、結婚生活が少なくとも原則上、男性間の争いの主な原因、すなわち女性の奪い合いという問題を解決する点にある。 -
マルチレベル群淘汰による説明を信じていなかったけど、特殊な条件では割とあるのかなと思った。ただ原始社会で集団主義が適応的だったことと、現在で社会的な役割持てるか、というのは別に思えるので、そこはちょっとひっかかったかな?あと、東アジア圏に関してはほんのわずかしか言及がなかったので、残念。ただ総じて勉強にはなった。元は適応的に生まれて、マインドウイルス化していった、というデネットとの合体がしっくり来るかも。
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ふむ
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前半は進化論からみた宗教の起源と役割。
後半はユダヤ、キリスト、イスラムの創立の歴史とアメリカをメインとした宗教の今と未来。
この本で初めて知った事実も多く、宗教学の新たな地平を垣間見た。
・集団内では利己主義が利他主義を打ち負かす。集団間では利他的集団が利己的集団を打ち負かす。
・利他主義と戦闘は共進化した
・人はある意味で子供を持つために恋をする。が、それは恋をするという主観的な体験の説明からはほど遠い。同じように神意と交信する体験は宗教にある多くの特典の一つである。
・音楽の進化論的起源。性選択と集団の結束。
・現代の宗教は儀礼や感情的つながりより、教義や知的な信仰を重視する。
・ダーウィンの考えを裏付けるように、人間の音楽の能力は様々だが、しゃべる能力に大差はない。これは言語が厳しい淘汰を経たことを示している。
・狩猟採集民の宗教の特徴。1.聖職者がいない、教会もない。2.リズミカルな身体運動。3.聖なる物語は共同体の存続に関わる道徳や実用的な教えを説く。4.神学の問題にほとんど関心を示さず、実用的な問題を重視する。
・宗教儀礼による規制の利点は、統治機関がなく、思慮のある統治者さえいない状況で、神聖な習慣に従って多くの人々を統治できる。
・聖職者の宗教と恍惚の宗教の緊張関係は歴史を通して続き、いまも宗教の変容の主要な原動力となっている。
・座席の第一の目的は、司祭の説教の間に座る場所を提供することでなく、人々を踊らせないためにヨーロッパの教会で16世紀に設けられた。
・人類の祖先の人口はある時期、天災によってわずか5000人にまで減った。
・全く新しい宗教が成功する見込みはほとんどない。新しい宗教を始めるのであれば、どこか既存の宗教のセクトとしてスタートするのが最も簡単な方法。
・聖書は人々に生来備わる宗教行動の性質をきわめて効果的に刺激した。トランスに代わって、知的に満足できる方法、すなわち神と交流する預言者を提供することによって、超自然に接触したいという人々の望みを満たしたのだ。
・布教活動は既存の社会ネットワーク内で行うと一番成果が出やすい。
・コーランはムハンマドの死から150年以上すぎた800年頃までには最終的な形にまとまらなかった。
・宗教の結束を支えに武力に訴えることもあれば、和平を追求することもある。
・暴力は宗教より社会に起因すると考えるべき。社会は宗教を用いて、暴力を正当化することもあれば、あおることもある。
・宗教は戦闘の目的と言うより手段。また、戦闘の原因になりやすい点は武器と似ている。
・どんな国にもある種の信仰、国を重んじる気持ち、市民宗教は存在する。特にアメリカは。
・現代の信仰を脅かしてきたのは、科学知識の発展と高等批評(聖典の科学的研究)。
・北欧では人々は宗教に関わる必要性を感じない。重大なストレスを受けるアメリカでは、頻繁に宗教行動が見られる。
・家畜を飼い、生乳を飲むという文化が、遺伝子の変異につながり、北ヨーロッパでは大人になっても牛乳を消化できる能力を得た。
・世俗化が進んでいるのは、宗教が聖典という枠の中にとどまり、人々の信頼を失いつつあるからだ。宗教が廃れずにいるのは、人々が何かを信じたいと思っているからで、歴史に関する宗教側の主張に合理性があるからではない。 -
読み終えるのに時間はかかったが、内容は意外と単純。宗教は社会をルールに従わせるためと、戦争のために結束させるために発達したと説明する。
ドゥ・ヴァールは道徳について、共通の価値に基づいて争いを処理する集団全体のシステムから生まれる善悪についての感覚と定義する。道徳はサルや類人猿にも見られる(対立後の和解、共感、社会ルールの学習、互恵の観念)。
人間が言語を獲得すると、他人が何を知り、何をしたいかを推測する心を発達させた。自分の行動を集団に示して評判を高めることによって、道徳的推論が進化した。心を発達させた集団は、生き残りをかけて争う中で、個人に社会の利益を重視させるようになった。
著者は宗教を、感情に働きかけて人々を結束させる信念と実践のシステムと定義し、超自然的存在の懲罰を怖れる人々は自己の利益より全体の利益を重んじる役割を果たすものであると説明する。狩猟採集社会では、通過儀礼と集団での舞踏を通して、すべての人が神のルールに従うことを誓うことにより、集団として存続するための知恵を得て、警察などの統治機関なしに社会を結束させた。超自然的な懲罰を怖れた者たちが、最強で永続力を持つ社会を築いた。現在の狩猟採集民の宗教は、日常生活の大部分を占め、精力的に歌い、踊り、強い感情を引き起こす夜通しの儀礼をおこない、信仰より儀礼を重んじる共通点がある。サミュエル・ボウルズは、ジョージ・プライスが開発した方程式を用いて、集団の協力関係を生み出す利他主義と集団間の戦闘が共進化したことを示している。著者は、舞踏、音楽、儀礼に基づく原宗教、言語、超自然的存在への共通の信仰に基づく宗教の順で発生したと推論する。
定住社会では、聖職者階級が人々と神の間に立つようになり、祭司の王が支配する古代国家が生まれた。統治機関があったとしても強制力を持たなかった時期に、宗教儀礼は人口調整や資源管理などの社会的、生態学的な規制面で重要な役割を果たしただろう。宗教が聖職者のものとなり、超自然界のメッセージを自由に解釈できるようになると、極端な解釈も横行した。
BC722年にイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた後、BC640〜BC630年の間にアッシリアが撤退すると、ユダ王国はイスラエル王国を取り戻して併合するために、イスラエル人がエジプトを脱出してカナンに王国を築いた物語を提示し、ヤハウェをエルサレムの信仰の中心にした聖書を用いて共同体の結束を図った。ヨシュアはBC610年に戦死し、エルサレムはBC597年にバビロニアに占領され、多くの住民がバビロンに連行されたが、信者を共通の目的に向けて束ねる聖典を生み出した点では成功した。
キリスト教は、ローマ帝国内の都市に住みつき、ギリシャ語を話すヘレニズム化したユダヤ人の間で普及した。公共福祉が全くなく、大災害が頻発したローマ帝国の中では、進んで助け合うキリスト教徒の姿は際立ち、女の子を殺すことや堕胎、同性愛は禁じられたため、教徒の数は増えていった。
戦争で宗教が大きな役割を果たしたものは、73の大きな戦争のうち3つしかない(7〜8世紀のアラブの大征服、11〜13世紀の十字軍、16世紀のプロテスタントの宗教改革)。宗教は戦争の目的ではなく、国民の支持を得るためにスローガンとして用いられているに過ぎない。戦争に脅かされることがなく、北欧のような充実した福祉制度のある国で育つと、宗教活動に関わる必要性を感じなくなる。
宗教の存在理由は社会へのルールの導入と結束であるとする説明は、理解はできる一方で、それだけなのかと頭が整理できないのも正直なところ。アメリカ人向けなのか、三大一神教に関する記述がメインなのも物足りない。ドーキンスの「神は妄想である」にも、宗教の起源や道徳の根源に触れているようなので、確認してみよう。 -
進化論の立場から宗教について─その誕生から歴史、そして
これからのあり方について書いた本である。「宗教を生み
だす本能」に焦点を当てているのではなく、「本能的に生み
だされた宗教」に焦点を当てている感じで、タイトルから
受ける印象とは少しずれている内容だし、論と言うよりは
読み物という本なのだが、読み応えは抜群、内容も面白い。
人によって受け入れるかどうかが、何よりもはっきりと
分かれるだろうと思われる「進化論」と「宗教」という二つ
の事柄を扱っているだけに、この本についても賛否両論が
並び立つということは予想できること。私はどちらかという
と「賛」寄りだろうか。
宗教と戦闘が共に並んで影響し合いながら進化してきたの
ではないかということと、イスラム教がキリスト教の一派
から始まったのではないかというあたりが、今までに目に
したことの無い論点で面白かった。 -
題名を直訳すれば
=信仰の本能〜宗教はどう進化し何故生き続けるのか=
宗教と信仰ではまるで意味が違うと思うのだけれども?
宗教は社会的組織をイメージさせるし
信仰は個人的な依存心による心情を思わせる
更に本能とはそのモノが持つ目的に関することなのか
目的へと向かう手段でありその道具なのだろうか
もしも本能が人生の目的を示すものであるならば
宗教がその目的へ向かう本能の範疇であり得ないだろう
何故なら宗教とは縄張りをつくる排他的な組織のことであり
相対するあなたと私を対等な関係ととらえられずに
外と内として意識した不安恐怖から逃げ込む依存先であるから
流れ続ける時空間に暮らす私達の目的へのプロセスから
脇道の迷路に外れた澱みといえるだろう
もしも本能が手段であるならばその目的がなければならない
つまり人生の目的が何かということになるけれども
宗教に依存するということは
本来の目的であろう今と向き合う冒険への不安を感じ
そこから逃れることを目的としてすり替えた擬似人生を
目指すことなのだろう
知識という部分に目の眩んだ不安恐怖を生み出す部分性を
逃れるために宗教組織を有効な結束力として
相手と対立し敵として搾取の対象とする手段に活用することになる
この本をどう読み解いてみても無理があり
全体観を見失ったものとしか見えてこない
大事なのは組織ではなく集うという手段が目指すべき目的だろう
それは個々の意識の成長であり個性という歪みを持ったお互いが
切磋琢磨して分け合う中で出合いの冒険と発見を愉しむことであり
個々としての全体であると同時に大自然の部分でもあるお互いの
全体を見据えた信頼感と調和の関係だろう
生命維持の道具でしかない遺伝子万能論は危険だ
依存心による無い物ねだりの信仰とお互いの対等性からなる
理解と信頼の違いに気付くべきだ