- Amazon.co.jp ・本 (298ページ)
- / ISBN・EAN: 9784757142992
作品紹介・あらすじ
加速する大学改革、困惑する大学人。「大きな物語」が失われ、深みのないニヒリズムに蝕まれる大学。そうした時代にあってA.ブルームとR.ローティ、二人のアイロニストのかたる「大学の物語」とはどのようなものか。危機に瀕する大学で、古典に一筋の希望を見出す"政治哲学的考察"。
感想・レビュー・書評
-
佐伯啓思が紹介していた一冊。
古典を読むことの意味として、これまで「人格形成・精神の陶冶」や「批判的思考力の育成」が挙げられてきた。
けれど、個性尊重の時代にあって目指すべき人格者像は薄れ、学生の目的に適さなくなっている。
また、批判的思考力とは、つまるところ「自分の思考」ではなく「相手の思考」を不完全とするものであり、結局古典を重視することには繋がらない。
ここで、現代の学生たちに蔓延する無気力さの背景には「『偏見の全くない精神』を重視する傾向、すなわち価値中立に重きをおく傾向がある」と述べる。
これは、グローバル社会において価値中立であるべきで、個人が他国や他者の価値判断をすべきではないという「寛大な」教えによるものだ。
ただ、これを聞いてサッパリ分からないという感じはしない。
さらには他国や他者との比較をせず、自分の中だけで価値を確立することで、自分自身に足りないもの、知らないものへの希求が失われてしまう。
「無知の知」の無知であることに、そもそも気付かないというわけだ。
そうした中で、まず古典は道徳的な「寛大さ」から離れ、自分に欠如したものとの対面を果たし、偏見としての価値判断を養成するものだとする。
そして、何にも興味関心を持たない傍観者的立場から、古典に没入することによってインスピレーションと希望を得られるとも考えている。
ただし、そのためには大学が社会と乖離した「緊張の場」である必要性を説く。
ここまで、本の内容を自分なりにまとめてみた。
他者の存在、共同体の慣習が薄くなり続ける中で、私たちは個人として生きていく心細さや不安が付きまとっているように思う。
価値判断をせず無関心でいる、または与えられたものを鵜呑みにする態度は、楽なのだ。
でも、それは生きていることではないのかもしれない。難しいけれど。
さらには、誰かの誤りに気付かず、悲劇の物語を繰り返してしまうかもしれない。
そんな中で自分に出来るのは、自分自身が古典を読む姿勢を養い、それを伝えることなんだと思う。
「聖書」の存在が、誰かを救うかもしれない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ふむ
-
著者の問題意識の持ち方が参考になった。
教育社会学・教育工学から主張される大学論は、「科学の言説」ばかりだったと指摘している点は興味深いが、はたしてそうなのか。教育社会学の範囲を確認する必要がある。
教育哲学・教育思想分野における大学論の研究が不十分ということは、著者のいうとおりだと思う。このテーマを取り上げる研究者は少ないのだが、その理由を考える必要もあろう。日本には哲学的アプローチを進める上での言説が少ないことも原因となっているのではないか。
結論部で述べられている「古典」について、これを扱える大学・教員・学生は、はたしてどれくらいいるものなのだろうか。現実は厳しいはずである。
--メモ--
ハッチンズ、アドラーの古典論はリベラル・フリー:クリティカルシンキングを身につける古典の意義。 -
博士論文に加筆修正されたものらしいが,読んでいてそうなのではないかなと思っていた.というのも,読んでいて疲れさせられた.いちいち主張の根拠が薄弱で,それを土台にどんどん展開するのだから,読者への配慮が欠けた自己満足的な印象を受ける.著者はまだ若いだろうと思って略歴をみたら,案の定だった.他人の考えの解釈が長々と展開され,結局著者自身の問題に対する具体的な解決案は出されずに終わる.本書は古典論というよりも大学論として括られるのが相応しいだろう.もともと著者が教育学の出身だから当然といえば当然ではある.著者が古典にどのくらい触れてきたものか,それすら疑わしい.