- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784760153497
作品紹介・あらすじ
誰の人生も要約させない。
あなたのも、わたしのも。
■推薦
「生きた心地」を求めていいんだ。
「ダメだ」の言葉に抗っていいんだ。
誰でも。言葉で。
――望月優大(「ニッポン複雑紀行」編集長)
強くて安全な言葉を使えば、
簡単に見落とすことができる。
だけど取り零された隙間に、
誰かが、自分が、いなかったか?
――はらだ有彩(『日本のヤバい女の子』著者)
■内容
偉い人が「責任」逃れをするために、
「敵」を作り上げて憂さを晴らすために、
誰かを「黙らせる」ために言葉が使われるようになったこの世界で、
凝り固まった価値観を解きほぐし、
肺の奥まで呼吸しやすくしてくれるような……
そんな「言葉」との出会いは、まだ可能だろうか?
本書は、マイノリティの自己表現をテーマに研究を続ける文学者が、
いま生きづらさを感じているあなたに、そして自らに向けて綴った、
18のエッセイである。
障害者運動や反差別闘争の歴史の中で培われてきた
「一言にまとまらない魅力をもった言葉たち」と
「発言者たちの人生」をひとつひとつ紹介していくことを通して、
この社会で今、何が壊されつつあるのか、
人間としての尊厳をどのように守っていけるのかを考えていく。
■装画・挿絵
榎本紗香(しょうぶ学園)
感想・レビュー・書評
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私は昔から障害や病気を持った方達にあまり出会ってなかったため、その内実を考えたこともあまり無かった。
相模原事件など凄惨な事件も、どこか他人事で見てしまっていた節があった。
偏見という偏見も、同じ街に暮らす人という意識も、どちらもまるで無かったが、この本を通して初めてと言っていいレベルで深く考えさせられた。
自分の隣の家に急に障害者が引っ越して来られたら特に気にせず受け入れられるのか。
自信を持って"YES"とは言えない状態だったなと反省した。
施設でなく健常者(とくくるのも微妙な気がするが)の隣近所で区別されずに生きる方が生きやすいという考えを持った方もおられるのは想像しやさい。
そう言った考えを持つ人がいることを認識すること、役に立つ立たないなどで人の価値を測ろうとしないことなど、とても大切だと感じた。
また、著者は昨今の言葉の力、他人に圧力をかける言葉の軽んじられ方や、SNSで何かの要約でも一端でもない言葉(著者は"妄約"と言っていた。妄信的な要約の意)が飛び交っていることを危惧しておられた。
これまた考えたことがなかった…
人に"甘えるな"と言った言葉をかければ自分も甘えたくても甘えられない状況に陥り、鬱になったり諸々苦しむこともある。
いろいろ考えすぎてまとまらないが、今後も何度か読み返し、その時々で同テーマに関して考え直したいと感じた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
文学者である荒井裕樹さんの著書ということで、言葉そのものについて書かれた本だと思っていたけど、もっと広い意味で社会の中での言葉について書かれていた。
無意識下で聞いたり使ったりしている言葉。今まで気にしていなかったけど、その中でちょっと気になっていた言い回しがいくつか取り上げられていた。
なんとなく引っかかっていたことを、代わりにきちんと説明してもらえたようでスッキリ。
例えば「自己責任」とか「生きる意味」とか。
第10章「一線を守る言葉」も妙に納得して、印象深いテーマだった。
文章がきれいで読みやすかったけど、たくさんのお題を投げかけられたような気分で、まだしっかりとは消化できていない。
時間をおいて、また読みたいと思う。 -
【感想】
粗雑な言葉が氾濫している。他人の尊厳を奪う罵倒、やったはずなのに「やっていない」という虚言、議論を経ないまま「これが正しいんだ」と言って、マイノリティを押し殺す圧政。人の心を削る言葉、あるいは他人の存在を貶めるような無機質な言葉が、SNS等を通じてそこらじゅうにあふれていると感じる。
そういう軽くて尖った言葉は、口にすると気持ちがいい。何の努力もせず、自分がエラくなったように感じる。そんな言葉を気軽に吐ける場所が簡単に手に入る昨今、自分の発言に責任を持つ人なんて誰もいなくなっている。
しかし、そうした無責任な言葉――自分とは違う立場にいる人々への思慮に欠けた言葉――は、いずれ自分に跳ね返ってくる。「馬鹿にしている人々と同じような苦しい立場に置かれたとき、誰にも助けてもらえなくなる」という前提をみんな忘れている。
本書では、職場のハラスメントが原因でうつ病になったAさんの話が出てくる。Aさんは、うつ病になったのにとにかく仕事を休むことを嫌がった。自分はそんなに弱くないと強情になり、ついに心が完全に壊れてしまった。
なぜそんな態度を取ったのかというと、Aさんの職場には以前にも、心を病んで休職したり、出社しても簡単な仕事しかできない社員がいて、Aさんは、そういった人たちを陰で非難していたからだ。Aさんは、それまで自分が非難していた人と同じ状況になってしまった。そして、いままで自分が言い放ってきた冷たい言葉が、自分にも跳ね返ってきてしまったのだ。
結局のところ、「生きづらさ」は循環する。子育て世帯を軽んじていると自分に子どもができたときに、上の世代を馬鹿にしていると自分が年をとったときに、うつ病を非難していると自分が鬱になったときに、きっと苦しむことになる。だが、分かっていてもなかなか当事者意識を持つことができない。「自分とは無関係だ」という考えが、開いた口からふと零れだして、世界をどんどん生きづらくしていく。
――でも、「生きづらさ」の重さ比べをしても決して楽にはならない。むしろ、結果的に「黙せる圧力」を高めてしまうだけだ。
こんな「圧力」を高めてはいけない。理由は「生きづらい人が可哀想だから」じゃない。「可哀想」というのは、「自分はこうした問題とは無関係」と思っている人の発想だ。こうした圧力は、「自分が死なないため」に高めてはいけないのだ。
だから、言葉を無責任に使ってはいけないのだ。自分の言葉が与える力と奪う命を天秤にかけて、自分事のように言葉を受け止めなくてはならない。
それは決して楽なことではない。話す内容についていちいち頭を使うなんて、疲れるし、面倒だし、回りくどい。そうして考えすぎてしまっては、結局自分の想いが言葉にできないまま霧散してしまう。
しかし、そうした「まとまらない言葉」は、きっと簡単な言葉よりも価値がある。そうした言葉で満たされている世界の方が、今よりずっと生きやすくなるに違いない。
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【メモ】
・日々の生活の場でも、その生活を作る政治の場でも、負の力に満ち満ちた言葉というか、人の心を削る言葉というか、とにかく「生きる」ということを楽にも楽しくもさせてくれないような言葉が増えて、言葉の役割や存在感が変わってしまったように思うのだ。
肯定的な感情と共に反芻できない言葉ばかりが、その時、その場で、パッと燃焼しては右から左に流されていく。そんなことが続いていけば、言葉に大切な思いを託したり、言葉に希望を見出したり、言葉でしか証明できないものの存在を信じたり、といったことが諦められたり軽んじられたりしていくんじゃないか。
この本は、こうした「言葉の壊れ」について考える本だ。できれば、それに抗うための本でありたい。
・「言うのは簡単」だけど、「言えば言うほど息苦しくなる言葉」が社会に溢れて、こうした「生きづらさを抱えた人」を黙らせようとする圧力が急速に高まってきているように思うのだ。
言葉には「降り積もる」という性質がある。放たれた言葉は、個人の中にも、社会の中にも降り積もる。そうした言葉の蓄積が、ぼくたちの価値観の基を作っていく。
「心ない言葉」なんて昔からあるけど、ソーシャル・メディアの影響で「言葉の蓄積」と「価値観の形成」が爆発的に加速度を増してきた。しかもその爆発を、誰もが仕掛けられるようになってきた。
それが怖い。「誰かを黙らせるための言葉」が降り積もっていけば、「生きづらさを抱えた人」に「助けて」と言わせない「黙らせる圧力」も確実に高まっていくだろう。
・最近、「ダイバーシティ社会」というフレーズをよく目にする。「多様性を尊重する社会」というほどの意味だけれど、そもそも「多様性の尊重」とは何なのだろう。ぼくなりに表現すると、「それぞれの事情を安易に侵さず、それぞれの事情を推し量ること」ということになるだろうか。
いま、行政が先頭に立って、そうした社会を目指しましょうと音頭を取っているくせに、一方で女性には「仕事と育児、どっちとるの?(母親としての自覚があるなら育児だろうけど)」といったプレッシャーがかけられる。
宛先を特定できない負の感情は、結局、個々人の中で処理せざるをえなくなる。その処理費用として、多額の自尊心が支払われていく。「社会と闘う」「社会に抗う」ことのむずかしさは、こういったところにある。
そして「社会の問題」であるべきはずのものを、自尊心を対価にして「個人の問題」に変換させられるのは、たいてい立場の弱い人たちだ。 「子育て」や「介護」といった「家庭」の領域に関することで、この社会は、どれだけ女性の自尊心を削り出しているのだろう。
・相模原事件が壊したもの
この社会は、特定の人たちの存在を拒絶する憎悪の感情を、露骨にあらわすことへの抵抗感が薄くなってしまったように思います。事件前から社会問題化しつつあった生活保護バッシングやヘイトスピーチなどもそうです。こうしたむき出しの憎悪は障害者にも向けられています。
私たちは、重度障害のある人たちと、どのように生きていこうとしているのか。どうしたら共に生きていけるのか。それを考えるべきなのは、この社会を構成する私たち一人ひとりにもかかわらず、この事件は「どこか遠くで起きたこと」として受け止められ、「福祉の専門家が考えるべき問題」と考えられている節があります。
この問題に無関係でいられる人など存在しません。なぜなら、私たちは皆「様々な事情を持った一人」だからです。大切なのは、「私」という「小さな主語」で考えること。
・重大事件の責任の所在
相模原事件のように、あまりにも凄惨な事件について議論する際、しばしば突き当たる壁のようなものがある。事件の責任の全てが実行犯一人にあるのか、それとも社会にも多少の責任の一端があるのか。
あの実行犯には、もちろん「責任」がある。人間を「生産性」で値踏みするような、現代社会の在り方にもある。自分も、そうした広い「責任」と無縁ではない。いくつもの「責任の層」を考える必要がある。
「あるひとつの「層」について考えたからと言って、他の「責任」を免罪することにはならない。許せないものは、許す必要はない。
でも、凄惨な事件について、こうした「層」を考えるには、この社会はあまりにも速く、慌ただしくなってしまったように思う。それに、もともと一人の人間が受け止め、考えられる「層」は、それほど広くはないだずだ。だから、一緒に考えてくれる人の数を増やしていく必要がある。
そのために何ができるのか。
それについて悶々と悩み続けることも、凄惨な事件も向き合う「責任」の在り方だと思う。
・自己責任
ぼくは「自己責任」という言葉に、おおむね次の三点において不気味さを覚えている。
一つ目は、「人質事件で騒がれた時から意味が拡大し過ぎている」という点だ。実際、この言葉はありとあらゆる「社会の在り方を問う場面」に飛び火しつつある。例えば、女性が性暴力の被害に遭うのも「自己責任」。不安定な雇用形態で働くことを強いられるのも「自己責任」。
二つ目は、「自己責任」が「人を黙らせるための言葉」になりつつある、という点だ。社会の歪みを痛感した人が、「ここに問題がある!」と声を上げようとした時、「それはあなたの努力や能力の問題だ」と、その声を封殺するようなかたちで「自己責任」が湧き出してくる。
三つ目は、この言葉が「他人の痛みへの想像力を削いでしまう」という点だ。「自己責任」という言葉には「自らの行ないの結果そうなったのだから、起きた事柄については自力でなんとかするべき」という意味が込められている。「自己責任論者」からすれば、この社会で何か痛ましい出来事が起きたとしても、それは他人が心を痛めたり、思い悩んだりする必要はない、ということになるのだろう。
「言葉」には「受け止める人」が必要だ。「声を上げる人」にも「耳を傾ける人」が必要だ。でも、「自己責任」というのは、声を上げる人を孤立させる言葉だ。
「他人の痛み」への想像力は、人々が社会問題に対して声を上げるための<勇気>を育む最低限の社会的基盤だ。いま、「自己責任」という言葉の氾濫によって、この社会的基盤が危機的なまでに浸食されている。
差し当たり、ぼくは「いまこの瞬間、怒っている人・憤っている人・歯がみしている人」を孤立させないことからはじめたいと思う。「自己責任」という言葉が、「人を孤立させる言葉」だとしたら、「人を孤立させない言葉」を探し、分かち合っていくことが必要だ。一人の文学者として、そうした「言葉探し」を続けていこうと思う。 -
網目の粗い言葉多い今、「個」つつむ言葉探す 「わたくし、つまりNobody賞」の荒井裕樹さん:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S15290875.html
「まとまらない言葉を生きる」荒井裕樹さんインタビュー 差別・人権…答えが見つからないものこそ言葉に|好書好日(2021.06.17)
https://book.asahi.com/article/14369064
まとまらない言葉を生きる - (一般書/単行本/日本文学、評論、随筆、その他/) 柏書房株式会社
http://www.kashiwashobo.co.jp/smp/book/b564295.html-
「まとまらない言葉を生きる」荒井裕樹さんインタビュー こぼれた表現にこそ宿る力 |好書好日
https://book.asahi.com/...「まとまらない言葉を生きる」荒井裕樹さんインタビュー こぼれた表現にこそ宿る力 |好書好日
https://book.asahi.com/article/14460589
まとまらない言葉を生きる 荒井裕樹著 柏書房 1980円 : 読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20210828-OYT8T50151/
「生」から迸る言葉たち 魂を共振させる文学的感動 藤田直哉 / 批評家(週刊読書人2021年6月18日号)
https://dokushojin.com/review.html?id=82292023/03/10
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まえがきの最初の数ページで、私が日頃感じていたモヤモヤやちょっとした言葉に対する恐れを、感じている人がここにもいたのだ。と親近感と安堵に包まれた。
他人の尊厳をいとも簡単に踏みにじる発言・行動をし、そのことに気が付かず自分の主張が、他人の尊厳を踏み躙ったうえでの主張や言葉が正しいと思っている人たちに絶望し続けていたのだ(もちろん、自分がそうしてしまわないように日々アンテナを張り巡らしたいものだ)。
一般人はもちろん、権力のある、社会をより良くするために選ばれたはずの議員などがそう言った発言をするのを聞くと、余計絶望に陥りこんな社会に生きたくないと怒りに染まってしまう。
著者はとても言葉について、マイノリティ含めた社会全体について、いつもよくよく疑問を抱いて考えている方なのだろうと思った。
私が求めていた思考だ。本書を読みながらそう思い、たくさんの新しい疑問と衝撃を与えてくれた本書のことが大好きになった。
以下、特に印象に残ったこといくつかと、最後に目次を備忘録がてら載せる。
励ますことについて、著者は東日本大震災を機会に一層考えはじめたという。
「がんばれ」「大丈夫」
そんな言葉は多大な天変地異に遭遇してすでに頑張って生きている人に対してかける言葉として適さない。
ここで、こういった状況にある人を励ます言葉が「存在しない」ことに著者は気づく。
災害など状況によらず、人を励ますというのは、安心させる言葉をかけるというのはとても難しいと、私も常々考えていた。
それでも著者は、励ますことを諦めない。
私も諦めたくないと思った。大事な人のためにも、自分のためにも。
期待するということは、完全に相手のためだけにかけるものではなく、自分が抱き押し付ける意味合いを持ってしまう、ということにもたしかになぁと改めて思った。「希待」という造語が広まればいいなと思う。
先生、ウィキにでも意味を書いて残して普及してくだせえ(他力本願)。
「「地域」で生きたいわけじゃない」という章には打ちのめされた。
私たちが生きるのは
「地域じゃない。隣近所だ。」
その言葉にハッとした(この言葉は著者が話を聞いた障害者運動をしていた方の言葉である)。
完全にその言葉の意を理解しきれたとは言えないが、私も日常生活を他人に助けてもらってなお支障ある程度に病人なので、胸にくるものがあった。
私のような生きるのにコストのかかる人間(この表現にも著者はたしか疑問を呈していたが)が、生きていくのに受け入れてもらわなければならないのは、まさに隣近所という近さの人々なのだ。
障害者に対して普段は悪いことを言わない人も、いざ障害者が「隣近所」になると思うと拒否反応を示す。
別に実際に何かサポートをしてくれと頼まれているわけでもないのに、隣近所に障害者や施設ができると反対する人が少なからず現れる。
隣近所に受け入れられない限り、障害者の住む場所はない…だからこそ、障害者について知ってもらい、障害者の権利を主張する人々には頭が下がる。
「普通」(ってなにか知らんけど)の人なら何不自由なく入り込める隣近所。
地域だなんて大きな括りにすると他人事に思えてしまうが、隣近所と聞けば真剣に考えることができるのではないか。
著者の専門が障害者運動などについてのためか、他にも様々な素晴らしい障害者の方の言葉や考えがこの章に限らず散見される。
花田春兆さんも脳性麻痺を抱えながらも聡明で強く生きている人なのだが、そんな花田春兆さんの
初鴉「生きるに遠慮が要るものか」
という俳句に心打たれ、とても好きになった。
生きるに遠慮が要るものか。
刻みつけていきたい。こんなに心強くしてくれる俳句に初めて出会った。
「お国の役」に立たなかった人の章でもあったが、戦争に貢献できないと責められる当時の障害者の方々と同等とまではとても言えないが、働けない自分に負い目を感じて長生きしたくない、してはいけないしさっさと死ぬべきだと思っている節が今でもあるから。
こんな優しい言葉に触れようとしてなおその思いは拭えない。
だからこそ生きるに遠慮が要るものか、と自分に言い聞かせていきたいのだ。
この俳句を紹介してくれた著者と花田さんとの出会いに感謝したい。
きっとこうやって、少しずつ言葉に救われていくのだ。
他にもたくさん書きたいことはあるのだが、あんまり書きすぎるのもなんなのでこの辺でおしまいにする。
ただ、どの章も発見の連続で、言葉についてもっと考えたい、と思わせてくれたし、読んでみたい本もたくさんできた。
また著者の本も読破する勢いで読んでいきたいと思った。
まえがき 「言葉の壊れ」を悔しがる
第1話 正常に「狂う」こと
第2話 励ますことを諦めない
第3話 「希待」という態度
第4話 「負の感情」の処理費用
第5話 「地域」で生きたいわけじゃない
第6話 「相模原事件」が壊したもの
第7話 「お国の役」に立たなかった人
第8話 責任には「層」がある
第9話 「ムード」に消される声
第10話 一線を守る言葉
第11話 「心の病」の「そもそも論」
第12話 「生きた心地」が削られる
第13話 「生きるに遠慮が要るものか」
第14話 「黙らせ合い」の連鎖を断つ
第15話 「評価されようと思うなよ」
第16話 「川の字に寝るって言うんだね」
第17話 言葉が「文学」になるとき
終話 言葉に救われる、ということ
あとがき まとまらないを愛おしむ -
私が「生きる意味」について、第三者から説明を求められる筋合いはありません。社会に対してそれを論証しなければならない義務も負っていません。
「言葉」には「受け止める人」が必要だ。「声を上げる人」にも「耳を傾ける人」が必要だ。
死だけが不可逆なのである。生きて肌に温もりが残るあいだは改善可能性が、希望が残り続けている。
世の中には「一端を示す」ことでしか表現できないものがある。〜伝え手側の言葉の技術ではもうどうしようもなくなって、とにかく受け手側の感受性や想像力を信じて託すしかない。そんな祈りに近い言葉でしか表現できないことがある。 -
☑︎心を病むのは抑圧に対する反逆として正常
☑︎「私」という小さな主語で考える
☑ ︎孤立しない・孤立させない
☑ 刻まれたおでんは、おでんじゃない
☑︎「正しい」「立派」「役に立つ」を疑う
たくさんの素敵な言葉に出会えました! -
・「制度よりムード」の怖さ。
ムードをつくる側なら何の不都合もないだろうが、この社会には、つくられたムードの中で生きることを強いられる人もいる。
・遠慮はある種の圧力によってさせられるもの。「遠慮するなよ」という言い方はおかしい。 -
「今の自分の気持ちや状態をぴったり表す言葉をもっていない」
そんな風に思ったことが何度もあった。
愛想笑いばかりする自分、言葉の足りない自分が、嫌で、変えたくて、10代後半から「ない言葉」を漁るように本を読み始めた。
この本を読んで、そんな昔のことを唐突に思い出した。
“たくさん「ある言葉」というのは目立つから、すぐに気がつきやすい。対して、「ない言葉」は見つけにくい。そもそも「ない」のだから、気がつきにくいのは当たり前だ。でも、そうした「ない」ものに想像力を働かせることも必要だ”。
SNS上には、人を侮辱したり、貶めたり、罵ったり、蔑んだりする言葉が溢れていて、わたしたちは日々、嫌でもそれを目にする。
自分の中に「ない言葉」を探したいなら、それはきっと、昔の文学作品の中だったり、普段出会わないような誰かの言葉の中にある。
「うまく言葉でまとめられないものの尊さ」というものにどうしようもなく惹かれ、なんとかそれを言葉で表したいと願う著者の思いがカタチになった本。
p37
「どんな場面でも人を励ませる便利な言葉なんてない」
そんな「ドラえもんの秘密道具」みたいな言葉は存在しない。
p41
「言葉を信じる」というのは、きっと、こういうことなんだろう。
自分の力ではどうにもならない事態に直面して、それでも誰かのために何かをしたくて、でもどうしたらいいかわからなくて、それでも何かしたくて......という思いが極まったとき、ふと生まれてくる言葉が「詩」になる。
p42
たくさん「ある言葉」というのは目立つから、すぐに気がつきやすい。対して、「ない言葉」は見つけにくい。そもそも「ない」のだから、気がつきにくいのは当たり前だ。
でも、そうした「ない」ものに想像力を働かせることも必要だ。
「ない言葉」は、その都度、模索して行くしかない。
p155
そもそも、「心を病む」って、その人の「心」が問題なのだろうか?
むしろ、その人を取り巻く「環境」が問題なんじゃないのか?
その人を取り巻く人間関係とか環境が病んでいて、それが立場の弱い人を通して噴出している、ということもあるんじゃないのか?
でも、それは個人の力じゃどうにもならないんじゃないのか?
それなのに「心を病んだ人」は、「弱い」とか「だらしない」とか言われなきゃいけないのか?
p202
人は自分の想像力の範囲内に収まるものしか評価しない。だから、誰かから評価されるというのは、その人の想像力の範囲内に収まることなんだよ。人の想像力を超えていきなさい。
p251
最近、この社会は「安易な要約主義」の道を突っ走っている気がしてならない。とにかく速く、短く、わかりやすく、白黒はっきりとして、敵と味方が区別しやすくって、感情の整理が付きやすい。そんな言葉ばかりが重宝され、世間に溢れている。 -
高校生のとき(もしくは中学卒業くらいだったかもしれない)たしか社会系の授業で、誰かに取材して話をまとめるレポートの課題が出た。どうしてそうなったか覚えていないが、都内のハンセン病療養施設にある図書館の館長さんに取材を申し込み、2時間ほど話を聞かせていただいたことがあった。その病気の歴史についてそれなりに調べていた僕は、いろんな意味で覚悟をして伺ったのだが、出てきたその方は穏やかな好々爺そのもの、雰囲気も口調も本当に優しくて、こちらまでほっこりしてしまうほどだった。どんな凄惨な話を聞くことになるかと思っていたのに(これも今思えば失礼な話だ)、虫採りや洗濯、料理の話とか、戦時中の1人の少年が集団生活を送る中で経験した、なんてことない思い出話を聞かせていただくことができた。所々にその場所の「特殊性」を垣間見ることはあったし、その方の手指はたしかに丸まっていたけど、子どもなりに自分が貼っていたレッテル、無意識でかけていた色眼鏡みたいなものに気付いて、ちょっとした反省を含めつつ、猫とコーヒーが好きで、子どもに優しい、親指が少しだけ不便そうなおじいさんの話を正直にまとめたことを思い出した。今になって思えば、あれが僕が文章を書く楽しさに気づいた最初の体験だったような気がする。
そんなことを思い出したのも、おそらく同じ人と思われる方が作中に登場して、意外な再会をしたからだ。かつて彼が僕に話してくれたのは、きっと10代の僕に合わせてくれた内容なのだろうと感じながらも、その感覚は間違っていなかったと思う。変に気負うのではなくて、分けようとするのではなくて、多かれ少なかれ違いは誰の間にもあるものとして、相手の目を見て話すことの大事さ。なので正直この本の内容自体はあんまり特別なものとして頭に入ってこなかったのだけど、おかげで長い時を経て、僕はまた原点に帰ったような気がする。そんな2023年の始まりの読書。