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Amazon.co.jp ・本 (304ページ) / ISBN・EAN: 9784760155330
作品紹介・あらすじ
「すみません」では済まないとき、
何をすれば謝ったことになる?
責任、償い、約束、赦し、後悔、誠意への懐疑――
謝罪の機能や不適切な謝罪の特徴を解き明かし、
学際的な知を総動員して、「謝罪の全体像」に迫る!
【本書の内容】
親はある時期から、悪さをした子どもを叱る際、そういうときは「ごめんなさい」と言うんだ、と教え始める。すると、子どもはやがて、「ごめんなさい」と言うことはできるようになる。けれども今度は、場を取り繕おうと「ごめんなさい、ごめんなさい……」と言い続けたり、「もう『ごめんなさい』と言ったよ!」と逆ギレをし始めたりする。
「違う違う! ただ『ごめんなさい』と言えばいいってもんじゃないんだよ」――そう言った後の説明が本当に難しい。「すみません」で済むときもあるが、それでは済まないときも往々にしてあるからだ。「すみません」といった言葉を発したり、頭を下げたりするだけでは駄目なのだとしたら、何をすれば謝ったことになるのだろうか。声や態度に表すだけではなく、ちゃんと申し訳ないと思い、責任を感じることだろうか。しかし、「申し訳ないと思う」とか「責任を感じる」とはどういうことなのだろうか。そして、そのような思いや感覚を相手に伝えるだけで、果たして良いのだろうか。結局のところ、「謝る」とは何をすることなのだろうか?
本書では、満員電車のなかで意図せず他人の足を踏んでしまったときの謝罪から、強盗の加害者による被害者への謝罪、さらには、差別的言動や医療過誤、戦後責任などをめぐる謝罪に至るまで、多様な事例を具体的に取り上げながら、「責任」「後悔」「償い」「赦し」「当事者」「誠実さ」といった、謝罪をとりまく重要な概念同士の関係を丹念に解き明かしていく。そして、謝罪という行為の全体像を描き取ることを通して、「謝るとは何をすることなのか」という問いに対する十全な回答を提供する。
本書のこうした道行きは、不適切な謝罪と不必要な謝罪がともに蔓延するいまの日本の社会状況に対して、これを批判的に分析するという要素も併せ持つだろう。この社会で他者とともに生きていくための手がかりをさぐる、実践的探究の書。
感想・レビュー・書評
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私たちが述べる「すみませんでした」「申し訳ありませんでした」に込められた意味を分解し論じる。思えば私たちは謝罪を聞かない日は無いのかもしれない。本論も良いのですがエピローグの実戦編が特に面白い。まずエピローグを読んで本論を読むのもありです。謝罪を深く知りたい人はぜひ。
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『それは私がしたことなのか:行為の哲学入門』では、行為と責任について書かれた、非常に面白い一冊だった。
その著作とも繋がりのある本作。
「あわい」を踏まえながら、謝罪の機能について考えていく視点がやっぱり面白い。
内容から考えたことだけど。
半沢直樹的謝罪(誠意をもって謝るというよりは、報復としての謝る)、つまりパフォーマンス的な謝罪も、本来の謝罪の機能が下地にあるから成り立つものなのだろうなということだ。
謝罪は、ある意味、儀礼であり場として成り立つほどのテーマを持つ、大きな行為である。
謝罪が、受け手からの応答を必要とするコミュニケーションとあるように、社会が秩序を保つための本能的な仕組みのように思う。
電車で足を踏んでしまい、すいません、と謝ることについて取り上げられていたが。
車内という社会的空間の秩序を担う一員として、無意識のうちに、そう振る舞っているのだなと思うと、なんだか不思議な気持ちになる。
私は人間として、知らず知らずのうちに、社会を意識している。(まあ、当たり前なんだけど)
謝るという、感情?感覚的な行為にも、こうした枠組みがあるのだなと知れて、楽しかった。 -
2024年初読了。
謝罪の多層性、曖昧性を読み解きながら、謝罪全般に通底する本質的な「当事者性」と「コミュニケーションの起源」を見出しております。
I’am sorry の残念に思う気持ちと自責の念という両義性が包含させている、日本語のすみませんなどのには責任を取るという立場が曖昧になる、これらの分析は表現に対する解像度が上がった。
謝罪というテーマ一つでも社会性、人間関係における複雑さが詰まっていて、奥深いものです。 -
軽い謝罪から重い謝罪までグラデーションがあり、様々な特徴がある。
定型的な表現に頼り切らないこと、、理由(何に謝っているのか)を明確にすること、正当性・弁解との区別を明確にすること、できる限り迅速に行うこと、拙速な改心アピールや無理な約束は避けること、自分が楽になりたかっただけと思われないようにすること、謝罪相手や順番を明確にすること。
子供にどう伝えていくのか。
誠意って何かね。詫びろ詫びろ・・ではない。
178冊目読了。
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電車で足を踏まれた時(痛がるほどでもなく、靴も汚れなかった時)、さっと頭を下げて「すみません」と言い、相手もすぐに会釈を返す。これは典型的な事例でなく、電車の中での振る舞い・マナーを示す事例であるという論になるほどと感じる。
逆に重い謝罪では定型的な謝罪だけでは完了せず、誠実さが求められるという。
このように謝罪にはグラデーションがあるというが、そのグラデーションの捉え方が被害者-加害者間でズレた際にトラブルが生じるということか。
いわゆる多文化社会が進展すると、このグラデーションにまつわるトラブルは増えそうな気はする。 -
中央
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カタい文章でやや読みにくいけれど謝罪というのは広い意味で人間関係の修復のためのものというところがそうだなーと思えたところ。
会釈程度のことから重たいことまで人間関係を壊さないように修復するためにすることだということなんだなと理解しました。 -
結局、考えて言葉を口にするべきだなと。
定型文って耳馴染みいいかもだけど、それ止まり。
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2023I150 151.2/Fu
配架書架:C1 -
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メルカリ
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謝罪について、演繹と帰納の両方から迫る。
使う場面、使われる意味、その効果等、細かく条件を設定して考察していく。
そう。
うざい。
いや、そう言うもので、以前はこう言ううざさ、好きだったんだが、寝不足だからダメなのか。新書なら良かったかも。
半分程で辞退した。
真面目に研究したい人にはおすすめ。 -
読了日 2024/05/28
図書館で読み切れなかったので買って読了。
謝るとは何をすることなのか?を考える一冊。 -
申し訳ございません
この言葉で引っかかってしまった。
この本、私、てっきり企業や著名人が不祥事を起こした時の謝罪の仕方について、
コンプライアンス的に論じる本と思っていた。
それより深かった。
様々な事例から、謝罪の言葉の持つ意味から深堀するものだった。
そういう言語学的要素を持つ本だけに、いきなり「申し訳ございません」で引っかかってしまった。
この表現、今は市民権を得ているが、正確には誤用。
申し訳ない の敬語は 申し訳ございません ではないのだ。
申し訳ないことでございます が正解なのだ。
とんでもない と同じ。
いや、もはや市民権を得ているし、言葉は変わるけど、もとはといえば、ということ。
それが、謝罪を言語学的に分析する本が使っていたので、
引っかかってしまったのだ。
・・・と、うるさいおやじのつぶやきはこの辺にしておいて、、、
それ以外葉すごい本だった。
電車が揺れて足を踏んだ時には「すみません」が妥当で土下座、弁償します!はおかしい、
から始まって、シチュエーションごとの謝り方を論じている。
招かれた先で誤って花瓶を壊したら 花瓶事例
強盗犯人が捕まって公判で謝ったら 強盗事例
さらに謝罪は時空を超える。
国家単位の話にまでなる。
祖父が犯した差別発言を遺産を相続した子孫がする謝罪
ドイツのユダヤに対する謝罪
オーストラリア政府の、アボリジニら先住民に対する謝罪
これを読むと、
安倍元首相が2015年にアメリカ議会で
「戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の子どもたちに、
謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」
が思い出される。
これは違和感を覚えた。
加害者側が言っていいことか、ということだ。被害者が赦すならわかるが、、
もっとも韓国の要望が一方的であることに基づく発言とは思うが、それにしても、だ。
私は罪のない市民の命を空襲、原爆で奪った英米は、その点において今も許せない。
彼らは謝っていない。
戦争を止めるために仕方なかった、と言ったままだ。
オバマ大統領は広島の原爆の碑に献花はしたが、謝ってはいない。
謝罪とはかくも難しいもの。
よくここまで切り込んだものだ。
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「謝罪するとは何をすることなのか」を論じたもの。
まず、「軽い謝罪」と「重い謝罪」の区別と両者間のグラデーションについて論じ、すべての謝罪に当てはまるような特徴として、「当事者性」と「コミュニケーションの起点」であることに目を向ける。
「当事者性」と「コミュニケーションの起点」という曖昧さが拭いきれない思考は危うさを感じるが、単に「すみません」で済まない状況では、何が要求されるか考えるヒントになる。
巻末に失敗しないための実践的なヒントが記載されているのは親切。行き詰まったら再読してみたいものである。
著者プロフィール
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