藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?

  • 学芸出版社
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レビュー : 45
  • Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784761513092

作品紹介・あらすじ

経済成長と生活の豊かさを問い直す。『デフレの正体』著者と、気鋭のコミュニティデザイナーによる珠玉の対談。

感想・レビュー・書評

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  • 集合財として、まちを捉えた場合、まちが地域の人々に与える機能は何だろうか?そのまちに住むことで、幸福をどう感じるのだろうか。

    良く使われる言葉「地域活性化」は=経済成長(経済効果)である、という既成概念は、多くの方が持っている。

    そもそも論として「地域活性化」とは何ぞや?

    その定義は曖昧で、学者も含め、自分の展開するロジックの中で、都度定義付けされ使われているのが現状である。

    という難しい話はおいといて、経済成長無しでも私たちは幸せなんだという考え方を示している本。

    根底には、まちが持っているストックがあるから、成り立っているのだが…

  • タイトルの件はまさに誰もが疑問に思うところ。
    まして建築なんかやっていたら、やれ都市間競争だ、再開発だ、とそういうものばかりに晒され、「ホントにそれ正しいの?」と思いつつ、「仕事だから仕方ないじゃん・・・。」と。まあそういう忸怩たる思いはあるわけです。

    この本を読んでいて思ったのは、結局のところ地域ごとにいろいろな目標や考え方があっていいのだということ。
    グローバルな競争に乗る(経済成長をめざす)のは、東京、大阪の2都市くらいでいいわけで、日本全体がそれをめざす必要は全くない。
    その他大勢は、金儲けではなく、多様な儲けでみんながハッピーに暮らせるようになればいい。
    多様な儲けとは、美味いものを食べ、いい温泉に浸かり、いろいろな人と触れ合う。金をたくさん稼ぐよりその方が幸せを感じる人はそうすればいいし、とにかく儲けたい奴は儲ければいい。
    人も都市も自分でライフスタイルを選択しなければならない時代が来たということだ。
    そんな中でどうするんだ、私。と廻りまわって結局は自己の問題に帰結するのである。

  •  なんとなく、わかったようなわからないような結論の本。もちろん、藻谷さんは、経済成長がなくたって幸せになるといったような感じで話している。

     自分だったらこう説明する。

     経済成長の前提のGNPというのは、技術的な微妙な差を無視すれば、国民のその年の所得合計額。

     この所得合計額というのが、日本は生産年齢人口が減少するというマイナス要因、イノベーションが起こりにくくなっていることなど、かなり深刻な理由で伸びなくなっている。これを無視してのばそうとしてもかなり難しい。

     その中で、所得を維持し、もしかしたらマクロでは微減する中で、これまで先輩、自分たちがつちかったストックを活かして、幸せを感じることはできるはず。

     ただ、その前提としても、ある程度の所得は維持されなければいけないから、個々のビジネスはきちんと税金にたよらず(税金というのは結局たこ足食いだから)、自分の付加価値をつけてもうけていくことが大事。

     わかった?

     こんな感じの説明だな。ちなみに、藻谷さんの説明の仕方は、東大、慶応、一橋(このあたりが経済学の本流)の経済学の説明の仕方とかかなり異なることに注意した方がいい。それ自体、現場経済学として十分おもしろいが。

  • 2012年7月7日に出た。
    このタイミングは、いま思うとなかなか意味深長かも。
    2011年3月11日の東日本大震災と
    2013年8月の『里山資本主義』の間にあたる。

    藻谷浩介が、『デフレの正体』(2010年)を出して
    ベストセラーとなった。
    独特の人口論で、なぜ消費が延びないかを謎解いた。
    なんのことはない、消費したくとも若い働き盛りの世代に余裕がないからで、その機会を奪い取っているのが団塊世代という仕組み。

    そして震災。
    ここから考え方が大きく変わった。
    お金で買えないものへの価値。
    普通に家に帰って、普通に家族と語らってという暮らしの尊さに気付いた。

    山崎亮が『コミュニティーデザインの時代』を出したのが2012年9月。
    つまり、この本で、藻谷と対談、というより、藻谷から経済成長でない幸福のあり方を、経済という観点から問いただした。
    どうも、藻谷はこの段階で『里山資本主義』の出版が視野に入っていたのではないかと思える。

    安保法制が成立し、若いひとたちから始まった平和を求めるうねりが生じた2015年。
    地方創生のかけ声が生じたこの年から、もう一度、
    震災で変わった価値観をどう描くかを真剣に考えた2012年という時代の2人の問いかけから掬い上げることのなんと多いことかと感じた。
    藻谷が概論的に経済学的観点からの幸福論をもう少し精細にした本が読んでみたいところ。
    とくに「限界効用の逓減」あたりについて、より詳細な論考を望みたい。

  • さらっと読めて、正直あまり印象に残ってはいない。インタラクションから色々な取り組みや概念の有機的なつながりが読み取れるのは良いし、この業界の鳥瞰はある程度できるようになる気がするが、あくまで取っ掛かりのための入門書という印象。

  • コミュニティーデザイナーの山崎亮氏と日本総研の藻谷浩介氏による対談から生まれた本書。
    経済成長というのは一つの指標であり、それに比例して幸せになるとは限らない。
    4章のタイトルにある通り、まさに「幸せは計るものではなく、実感するもの」ということだろう。
    ただ、ブータンのように国民の幸福度が高いといわれている国は、発展途上であるからこそなのかもしれない。
    つまり、高度成長期を経てモノの溢れる時代を経験する前の日本人は、今のブータンの人々と同じような感覚だったのかもしれない。
    ブータンと日本の違いは、モノの豊かな時代を経験し、物欲というものを実際に体感しているかどうかだ。
    「物欲まみれ」というステージをきちんと通り過ぎた後で、初めて次のステージに行けるのではないかという藻谷氏の意見はまさにその通りで、今私たちはその岐路に立っているのだろうと思う。
    幸福とは人それぞれ違うから、正しいも間違いもないのだけれど、経済的な面より、精神的な面で豊かになりたいなと思う。
    そして、色々な選択肢が増えればより幸福に近づけると思う。
    また、各地に素敵に生活している人がたくさんいることを知って元気が出た。
    どんな世の中でも逞しく生きていく力を身につけたい。

  • 目からウロコ、経済のこれからの考え方と可能性、地域や個人を豊かにするための考え方が書かれている。山崎亮さんの本の中で、1番素晴らしい。

  • 201405/
    行政に呼ばれて僕たちがコミュニティの話を聞きに行っても「特に問題はないから何もやらなくていい」という回答ばかりな町もあります。しかし、実際には商店街は空き店舗だらけ、小学校も統廃合が繰り返され、耕作放棄地が増えている。町に住む人が自分たちの町の課題をしっかり認識していない場合が多いですね。/
    どうせ市民活動をやるのだったら、市内各所でバラバラにやるのではなく、駅前の広場や空き店舗、あるいは駅中、駅近くの神社などを利用しましょう、と呼びかけたのです。そうすると、それぞれの活動団体のファンがさらに駅前に集まる。その人たちが活動団体のプログラムに参加して、ついでに商店街で少し買い物して帰る。そんな循環をつくり出そうというのが、今延岡で取り組んでいることです。/
    実は同じ日本でも場所によって、ストックがひじょうに豊かにある所と、ストックを摩耗させてしまって日銭がないと生きていけない地域があるのです。ストックがきちんとある所はそんなに日銭がなくても幸せに生きていける。みんなが家や農地を持っていて、海産物にも恵まれたさっきの海士町なんかがそうですよね。鹿児島もそうなんです。今は目先では儲かっていないけれども、人材のストックがちゃんとあり、償却の終わったビルもあって、ある程度の購買力のある層がいる。そういうストックがあると、所得が低い県でもそのストックで食いつないでいけます。/
    今までの話を整理すると、まずは①仮定を積み重ねてつくられた経済成長率の計算が実体とずれてしまう。次に②経済成長率の計算が仮に正確にできたとしても、それは平均値の話なので、そのなかにいる個人個人の富の増加ペースとはずれている。さらに、③経済成長率が本当に高い地域に成長を実感できている人がいたとしても、そこで測っているのはフローであって、過去にその人がどれだけストックを蓄積できているかという話ではない。その人の暮らしている地域にどれだけのストックがあるのかという話もこの数字には出てこない。これは青森の例を出すとわかりやすいでしょう。ストックが少ない県なんだけれども、さっきのグラフの時点では核燃料サイクル基地の建設がピークだったことから、たまたまフローが大きくて経済成長率が高くなったのです。おしまいに、④経済的にストックがあってかつ成長していたとしても、その人が人間的に幸せになれるとは限らない。このように数字と実感の間には、四重のずれが生じてしまうわけです。/
    もともとコミュニティデザインあるいはコミュニティプランニングと呼ばれる仕事は1960~70年代に一度アメリカから輸入されているのです。その時、アメリカで言われていたコミュニティデザインあるいはプランニングというのは、ニュータウンをつくる時に知らない人たち同士がどうやってコミュニティをつくるかを目的としたものでした。つまり、地縁型のコミュニティ、自治会をどうつくるかというものでした。/
    ただそれが30~40年経つ間に、日本ではまあまあ経済成長してニュータウンも一通りでき、人口もガンガン増えていく時代ではなくなり、むしろニュータウンの中から少しずつ空き家が目立ってきました。そして90年代から2000年にかけて、もう少し違うタイプのコミュニティデザインが必要ではないかという気運が生まれたのだと思います。その時に問題となっていたのが、孤独死だったり隣に誰が住んでいるのかわからないという状態でした。それはある種の犯罪につながったりするかもしれないし、そういう人びとのつながりのなさが問題になってきて、これはもう住棟配置をどう工夫しても解決できるものじゃないなということが見えてきたのです。ハードだけで人のつながりをつくるのが難しくなってきて、NPOの人たちと協働しながら、ソフトのアイデアで直接、人と人をつなげていかないといけない時代になってきたのだと思います。/
    いつの間にか、アダム・スミスが描いたような「いつか経済が成長してみんなが豊かになり、人類が殺し合うことはなくなる」という世界観から、「成長しろ」ということだけがイデオロギーとして取り出されてい待ったんです。/
    幸せは計るものではなく、実感するもの/
    何を持って幸せの目標とするのかがないままに、単に金勘定上損だからと言い出すと、実は日本の存在自体が金勘定上、損だったりするのです。世界の果てからわざわざ資源を運んできて、わざわざ製品をつくって元の所に売って戻すなんて、エネルギーの無駄でしょう?しかもそこが天災多発地帯で、東日本大震災がユーロショックを誘発したりするわけですから、本当はそんなところに経済力があると困るのです。日本がなくなった方がいい・・ということだってあり得るのです。/
    どこで線を引くかというと、やっぱりある程度そこそこのフローとストックがあって、ある程度みんながハッピーに暮らせている所。移住させるとかえってみんながアンハッピーになって、おそらくお金もさらにかかってしまうような所。それとは別にお金では測れないけれど住んでいる人がある程度、幸福になれる仕組みが備わっている所。そこら辺を勘案しながら、個別具体的に考えないといけません。/
    今世界に評価されている日本の伝統文化は、まったく人口が増えなかった江戸時代後半に発展したものなのです。/
    中山間離島地域では、自治会や老人会や婦人会のような地縁型コミュニティの力が強くて、「しがらみ」という言葉に代表されるように過度な結びつきが活動を抑制していることが多い。若い人が何かやりたいと言っても、自治会、婦人会、老人会の手前、勝手なことはできないよという雰囲気がある。監視の目も含めて、一般的に地縁の結びつきが強すぎる場合が多いです。そういう場合は、テーマに特化したコミュニティをつくっていくことが多いのですね。だから、中山間離島地域では地縁型の自治会や区会を前提として、さらにテーマに特化したコミュニティをどうつくり、お互いに刺激しあえるかを計画することになります。/
    ある意味、明治時代の東北に行ったことのある現代人がいたとしたら、今のブータンと同じことを感じたかもしれないと考えます。でもやはり、その後の時代にはみんな物欲にまみれた。しかし、21世紀になって震災になってみると助け合いましたよね。だから、一旦物欲まみれというステージをきちんと通り過ぎた後で、やっぱり物欲だけではしょうがないというところに至って初めて、次のステージに行けるのではないかと思います。だから私は、ちょっとブータンに危うさを感じています。日本は、むしろ物欲を通り過ぎるところまで来ているので、逆にブータンにはできないような別の幸福度を入れても良いように思います。/
    東京都青ヶ島村/
    人口214人(2005年国勢調査)、日本最少の自治体だ。東京より船で11時間の八丈島からさらに70km南の絶海の孤島。全周が断崖絶壁で、南半分には巨大な火口が開く。「八丈島の黒瀬川」(黒潮本流)を突っ切る困難から、往来は毎朝1便のヘリコプター頼みだ。海水をひんぎゃ(火山の噴気)で3週間乾燥させた「ひんぎゃの塩」は全国に通販されるが、村の歳出12億円に対し村税収入は4000万円に満たない(2005年度)。なぜそこまでして住むのか、その理由は島の歴史にある。江戸時代半ばまでは、火口の中の池のほとりで豊かな農業が営まれていた。しかし1785年の大噴火で全島が被災、救難船に乗れなかった130名が命を落とす。助かった200名は八丈島内の荒地に入植し、艱難辛苦の末39年後に全員で「還住」(帰島)。溶岩で埋まった火口内をあきらめ山頂の北側斜面に甘藷畑を開拓、11年後ついに検地を受け年貢を納めるに至り、誇りを込めて「再興」を宣言した。当時の年貢も現代の天然塩売り上げも微々たるものだろう。だが生を受けた土地に根ざして道を拓き、微力でも社会参加を志す意思の尊さは、他所の住民に勝るとも劣らない。地震が多発する火山列島・日本に住まう者として、彼ら還住者の子孫の思いを否定できようか。/

  • 地方がいいとか、都会がいいとかじゃなくって、時によって居場所の選択ができる自由を守るために、地方は存続する必用があるんだってこと。わたしも、えらぶは好きだけど、都会に住んでるからこそそこに魅力を感じるわけで。それは中途半端な関わり方なのではなく、わたしなりの関わり方の自由が、えらぶが存在していることで許されているんだなぁと思いました。

  • 山崎さんの幸福論を藻谷さんの経済論が説明するような展開。藻谷さんの的確な論理が素晴らしい。
    SY(数字が読めない)だった自分に反省しながら、示された数字を吟味。日本のストックや豊かさがわかる。
    日本は文化を認められる国にならないといけない。
    先日読んだ池上さんとダライ・ラマ14世の本と共通する点だ。

    以下メモーーー>

    富山・福井は所得は高いがまちはお洒落ではなく、人通りも少ない
    →京都・大阪、金沢、東京に買い物に行ってしまう。
    徳島→神戸大阪へ

    延岡は九州で時間距離が一番遠い(空港から)



    経済成長と幸福度(実感)が違う4つの理由
    ①過程を積み重ねてつくられた経済成長率の計算が実態とずれてしまう
    ②経済成長率の計算が仮に正確にできたとしても、それは平均の話なので、そのなかにいる個人個人の富の増加ペーストはずれている。
    ③経済成長率が本当に高い地域に成長を実感できている人がいたとしても、そこで測っているのはフローであって、過去その人がどれだけストックを蓄積出来ているかという話ではない。
    ④経済的にストックがあってかつ成長していたとしても、その人が人間的に幸せになれるとは限らない。

    マクロ経済学は平均で全てを語れるというイデオロギー

    フローの年収があるポイントを過ぎればそれ以上伸びても実感はさほど伸びない

    税収がない→貧乏ではない
    どの自治体も半分以上は国からの金
    一部は国や県が持っていく仕組み

    税収がいい→国にとられる→ストックがない

    お金で住む場所を決めたら鳥取県の人はみんな大阪に移住

    2011年も輸出は殆ど落ちていない
    燃料の輸入で1割輸入額が増え僅かに赤字
    所得黒字=外国へお金を貸したり投資をしたりの配当
    は14~16兆円/年間の黒字(16兆=3.11の被害額相当)

    日本は海外との競争で負けて追い詰められている
    →根拠不足の脅迫概念

    対中国、韓国、米国で国際収支でずっと黒字。
    貿易収支で赤字なのはスイス・フランス・イタリアなど
    高度な消費が文化を生み、文化がお金を稼ぐステージ


    ブータンの幸福論を取り入れたら?
    日本人は他人が下がると自分が上がったと思う
    →互いに相手を落とすかもしれない

    平均点の高いクラスに入っても平均点を下げるだけ

    マイナス成長という言葉
    成長しないといけないのか

    「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」
    ラミス氏は2000年に「放射能つきのユートピア」という言葉を登場させている

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