- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784761525330
作品紹介・あらすじ
日本人は風景をどのように見てきたのか。これから風景とどのように関わりあっていけばよいのか。哲学から土木まで、多様な専門家が、風景との関わりをいかに主体的に回復していくかを論じた意欲作。
感想・レビュー・書評
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【配置場所】工大選書フェア【請求記号】291||N【資料ID】91123507
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なんで購入したか不明。最初、浮世絵での風景の描き方から始まっていたので、最初はちんぷんかんぷん。
真ん中あたりの西村さんの論文あたりから、風景というのを景観というハードにかたよったかんじをこえて、よりその人の活動やなりわいまで含んで、様々な観点から議論しようとしているんだなと分かってきた。
それでも、ちょっと気になった点。
(1)文化財調査官の井上さんの「センスのわるい行政はできるだけ都市や集落の物理的改変に手をださないほうがよい」(p148)と言う言葉。
文化財という観点が活用という観点を含んで柔軟化する発想は理解できる。しかし、そのはじばしに、その文化的価値を分かるのは文化庁、文化の専門家の私たちというプライドがにじみ出ている。
だから、文化庁は嫌われている。実際に埋蔵文化財がでてきても、人の金で調査させて、どんなに事業がおくれても責任感ぜろ。同じことを被災地でもやろうとしている。
その他の価値とのバランスをとらない、唯我独尊の姿勢が霞が関の鬼っ子になっている理由。
(2)土木工学の桑子さんの「現代の日本では複雑な法制度のもとでがんじがらめになりながら個性をつくりだそうとして失敗した景観ばかりが目につく。」
道路で景観を考える前に、その道路がない方ももっと景観にいいという発想はないのか。
北海道でそんなに道路をつくる必要がこれ以上あるのか、ということも含めて反省すべき。
みなさん、その分野のプロだが、他分野にむけて文句をいっている感じがする。まず、自分の専門の分野が景観や風景など美しい国土をこわしてきたのではないか、という発想、地域住民の生活をじゃましてきたのではないか、という反省が必要だと思う。
こういう難しいテーマを扱うには、もう少し謙虚、自分の専門は一部関わっていて、一部は迷惑をかけているぐらいの態度がちょうどいいのではないか。