〈迂回する経済〉の都市論 都市の主役の逆転から生まれるパブリックライフ

  • 学芸出版社 (2024年9月24日発売)
3.78
  • (2)
  • (4)
  • (2)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 109
感想 : 8
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • 本 ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784761529123

作品紹介・あらすじ

企業が利益直結型の開発を追求する一方で、私たちは余白的共用空間に日常の豊かさを求める。経済と公共のジレンマに揺れる都市に、儲けに価値をおかない空間やサービスが最終的に利益をもたらすという逆説的思考=迂回する経済を実装しよう。再開発地、盛り場、郊外住宅地、学生街のフィールドサーベイから切りひらく新境地。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 2025.05.21 なかなか読み応えがあって面白かった。都市計画がこれからどうなるのかとても気になる。都市は様々な葛藤を抱えており本当に難しい。

  • 著者の提唱する「迂回する経済」とはなにか。消費社会で問題化し、大企業により進められたジェントリフィケーション(都市の高級化)都市計画が批判されてきた(直進する経済)。そこで経済とまったく異なることを主張するのではなく、なお「つくる」を肯定する方法、すなわちそれが「迂回する経済」である。ちなみにこの理論はあくまで「都市」でのことである。

    下北沢の再開は「迂回する経済」の好例。広場を確保し地元民の「園芸部」に委託。コロナ禍時では東京のあらゆる広場が閉鎖されたのにこの広場はしなかった。それは小田急電鉄の私有地だったから出来た。
    再開発の新たなテナントも通常は倒産リスクなどで大手チェーンになる。がここは個人経営の店にこだわった。
    この成功例はまさに、自治体が街づくりする、ではなく、民間企業(小田急)が先導して複数の主体(園芸部、個人経営)と共生(権限の分散)したから生まれた「迂回する経済」だ209

    中山間地域の魅力を発信するROOTSの中山慶は、地域は「ツーリスト、サイトシーイング」ではなく「トラベラー、ライフシーキング」を相手にしている。物見遊山の観光客でなく、その場所と交わり自己の変化を楽しむ人々こそが新しい地域の担い手になる、という190

    街の価値を上げる「ウェルビーイング」の好例として立川駅の「グリーンスプリングス」が挙げられる186

    『コンヴィヴィアリティ』
    「共に生きぬくこと」機械にしてもらえることでも、それを頼まず(たのむと人間が奴隷になることもある)人と人どうしで助けたり、作ったりすること。その行為自体で「生きる」価値を獲得出来る165

    『「輸送」と呼べる旅行』
    移動中の出会いに価値を見出ださない。人の気持ちは変わらず、運ばれていく。観光客はすでに知っている観光地に訪れ、写真で見たことのある建造物などを観て帰る。「あらかじめ作り上げられた経験」。
    「出会い」というよりは「確認」の作業。世界中のものを確認して回り「自分の知っているもの」にするような旅の姿勢は、征服者のそれと同根だ150

    『コンサマトリー』
    「自己充足的」と訳される。この言葉は現代、「身勝手な若者」を言い表すネガティブワードとして使われる。未来に感心がなく、計画性を放棄する今が楽しけりゃそれで良いという生き方のこと。一方「高校で勉強するのは良い大学に合格するため」「大学で勉強するのは良い企業に就職するため」という非コンサマトリー的生き方は正しいとされる。しかしコンサマトリーは本当にネガティブなことなのか?そこにヒントがある。つまり価値は未来や目的の達成ではなく、その工程自体に内在するのではないか。「勉強が楽しいから勉強する」「旅の工程自体が楽しいから旅をする」142

    『奥の細道』
    芭蕉が松島を目指した旅だが、松島では何も句を読んでいないし、一泊してとっとと帰路についた。芭蕉の旅の意味は、目的地ではなくその道程のみずみずしい体験に言葉を与えること。つまり「奥の細道」そのものにあったのだ138

    見田宗介は近代社会批判として「時計時間の強要」が、それぞれの地域やコミュニティ独自の「時間」を破壊したと主張。それは近代から始まる「経済至上主義」から生まれた。
    富岡製糸場では「定時に出勤する」「仕事中は仲間と話をしない」という原則を女工に守らせるのに10~15年かかった。「仲間と無駄話するな!」という外国人監督の注意は、女工にとってただ「いばっている」としか理解できなかった。近代前のコミュニティにとっては、仕事中に仲間と話をしないことのほあが、よほど不自然な態度であった。
    「時間を稼ぐ」「時間を費やす」「時間を無駄にする」「時間を節約する」という言い方は、時間と貨幣を同じ価値観にしたから生まれた表現だ。これは「結果が大切」「過程は短いほうが良い」という考え方。こうした考え方は近代社会特有のある種の「病」だ137

    「時間を無駄にしない」「なにかを成し遂げる」「目標を達成する」は「直線の時間」。対して「同じことが繰り返される」「変わらないことが維持される」は「円環の時間」。「直線の時間」を担う人々はアソシエーション、「円環の時間」を担う人々はコミュニティにそれぞれなる。
    しかし現代社会は「コミュニティによる地域(経済)再生」という標語のように、コミュニティが直線の時間に連れてこられてしまった。おそらく私たちがこの一世紀行ってきた「計画」はこれだ136

    開発の経済的合理的利益と社会公共性の実現の乖離。以前はこの穴埋めを公共事業で行った。しかし問題の解決には「公共の追及と利益追及は相反しない」という考え方を多くの経営者が持つこと。さらに「公共的なことを追及するほど、むしろ利益は持続的に創出され、そうしないと短期的な利益回収にしかならない」と理解すること。129

    都心のビルの傍らにあるパブリックアートやサイトスペシフィックアートは、公開空地を「どう利用すべきかわからない」から生まれた。名前自体の浸透は90年代末から125

    公開空地(ビル建設時に設ける空地スペース)のコンセプト遍歴。80年代中ごろ「交通の補助」、90年前後「緑の空間」、90年代末「周辺への配慮」、2000年代「人々の集う空間」「イメージの演出」125

    2020年代になるとCSRをより具体的に運用する理論が構築されはじめる。スタンフォード大学チャールズ・オライリーが「両利きの経済」を提唱。確実に利益を上げる事業とともに不確実で実験的な事業に力を入れることが、変化が速く不確実の高い現代には必須だとする。
    2023年には経済同友会が「共助資本主義」を提唱。ウェルビーイングの実現を「社会益」と捉える。
    これらSRI、「両利きの経済」、「共助資本主義」は本書の「迂回する経済」と共鳴する118

    「CSR」
    企業の社会的責任。文化活動を支援するメセナと異なり本業の事業活動での取り組み。2000年代から提唱され、イギリスのティムズ担当相は「単なる広報・慈善活動ではなく、ビジネスの中核と位置付ける」と発言した。しかし日本では収益を実現した後の「余力でおこなう慈善活動」として捉えられてしまっていた。
    またこの考え方は投資の分野でも必要とされ、こちらはSRIあるいはESG投資と呼ばれる。これは2006年国連でもガイドラインが作られた。
    日本は時差があり2015年くらい「SDGs(持続可能な開発目標)」という形で普及した117

    中央区銀座4-5-6の地価は2002年坪4892万円、これが2019年坪1億8909万円になる。101

    ジェネリックシティ型開発で投資が集中して地下が高騰し、家賃の上がったテナントが次々廃業、入ってくる新規テナントも家賃と売上げが釣り合わず入っては撤退を繰り返し、結果的には大都心なのに空き室ガラガラになる。これを「虚需が脹らみ実需が落ち込む」と言う。
    銀座の例として2016年に東急プラザ銀座、2017年GINZA SIXが挙げられている100

    「ジェネリックシティ」
    都市論を展開する権威レム・コールハースが提唱した批判。
    新宿駅前や渋谷など最近の再開発で、今までの独自の空間が全て壊され、グローバル企業の無個性な消費空間でどこにでもある巨大施設を作る暴力のこと。そこには「ステレオタイプなローカルなもの(例えば「和風」)」を押しつける。これは空港のショップラウンジに似ていると言われる。
    これは「直進する経済」の典型であり、経済の最短距離を進むのにほとんど必ず邪魔になり、非効率な歴史を破壊し、代わりに観光客向けの「歴史っぽいもの」に置き換える。
    コールハースはジェネリックシティは主にアジアで発展してきた、と考えている。石造りではなく木造が多かったからか98

    「新宿駅西口地下広場」
    人々がいられる場所として板倉準三設計で創られたが、60年代末に反戦運動のフォークゲリラなどが集う場所として親しまれた。行政(警察)はこれを排除しようと「新宿駅西口地下通路」と名前を変えた。「ここは通路なのだから滞留してはいけない」として人々は排除された。このことが社会問題化して新聞では「広場論争」が起きた85

    〈第四の場所1〉
    高度経済成長で地方から上京した者たちが、田舎の期待と現実の過酷な労働の板挟みから逃れる「幻想の家郷」として見出だした場所。盛り場代表的なのは浅草
    〈2〉
    高度経済成長後に家庭にも学校にも居場所を無くした若者が集う場所。繁華街なストリートやネットの匿名空間。
    〈3〉
    パンデミック時に発見された住宅地や近隣の何気ない場所。そこは会話など無く「時間を過ごす」「ただ眺める」ささやかな場所
    64

    社会学者のレイ・オルデンバーグによって名付けられた「サードプレイス」。自宅がファーストで、職場がセカンド、それ以外で居られる場所をサードプレイスとし、そこに集う人々が水平的な関係性を作りそこから社会を変えることが起きる重要な場所。例えば教会や図書館、居酒屋、カフェ。代表的なのはアメリカ独立の原点になったパブ。
    しかし著者の見つけた、人々が集まる路上等の名もなき場所、これはサードプレイスと違うようなので「第四の場所」と考える63

    直進する経済の例
    「郊外」。高度経済成長時に大量の分譲公営アパートを同質で作った。これは効率的だった。それが現在になり同じ世代が大量に高齢化した。またベッドタウンと言われる「寝るだけの街」という構造は、定年退職後の生活を考えておらず、生活に歪みを起こした31

    迂回する経済の例
    床面積最大をテナント化するのが直進する経済。そこにあえて無料パブリックスペースを作りイメージ向上させて、場所な価値・持続性を確立するのが迂回する経済10

  • 「多様性の時代」と言われ始めて久しい昨今であるが、どうにも民間企業が主導する「街づくり」はかえって画一的で面白みにかける例が多いように思う。
    行政ではなく民間企業が都市計画や街づくりの主体となっている現代において、改めて「街づくり」に求められている本質は何かを本書は問う。それは、民間企業が追及する経済的な価値に「直進する経済」ではなく、差しあたっては目に見えた利益を生まないが、人々の居心地の良さや活躍できるフィールドを備え、人が集まるようになる場所や仕掛けを設けることで、回り回って都市や事業者の利益に繋がる「迂回する経済」の観点を持つことで実現されると本書は説く。

    都市論どころか社会学的な分野の本を読むのも初めてに近いのであるが、多くの先行研究や社会学的概念を援用しながら、著者自身のフィールドワークに根差した経験を裏打ちとして論旨が進んでいくので、主張は明快で分かりやすい。あと単純に面白い。

    第一章では都市の根源的価値を見直す。
    そこでは「パブリックライフ」が重要な観点とされる。パブリックライフとは、”人々が互いに出会い交流することで、互いを認知し、多様な人々がともに同じ社会をいきているのだという実感を得るような日々の生活のことである”とまとめるが、これはハンナ・アーレントの議論をベースに行なわれる。また、そのパブリックライフが行なわれる場所については、オルデンバーグの言う「サードプレイス」ですらなく、何かの目的すら具体的に持たない「第四の場所」であると説く。そしてこのような場は、用意されて作られるというより自然発生的に生じるものが、人々が自発的に「ここはこんな場所」と思えるようになる活動を支援するようなかたちで生まれると説く。
    第2章では、既に「公共空間の整備」「公共貢献」といった名目で、都市計画に「迂回する経済」を一定程度取り入れる方向で動いているような潮流に対して、どのような要素があれば「迂回する経済」実現に向けた都市計画になるのか、その柱となる3つの概念が示されている。「即時性」「再帰性」「共立性」の3つである。即時性とは、そこで行われるコトが何か明確な一つの目的に向けて行われるのではなく、行われるコト自体を楽しむ姿勢と言えようか。「再帰性」とは、平たく言えば、当たり前を見直し新たな自分に出会い、その自分を認め構築していくこと。と言えそうである。当たり前との齟齬に気づく場、気づいた上で自分を既存の社会に適合させるのではなく、既存の社会に変化をもたらそうと思える場とはどんな場所づくりなのかが事例も踏まえて説かれる。「共立性」とは、全てが分業・専門家してきた現代が取りこぼしてきた「プロ未満」「専門領域の周縁」にある、人々がそれぞれもった”得意な事”を町のため近所の人のために生かせる空間といえようか。資本主義的に用意されたサービスの需要者ではなく、自らが価値の提供者になる、そういった人たち同士の関係で町がつくられるイメージか。
    第3章ではこれらの議論を踏まえながら、「迂回する経済」が意識された都市開発の事例をみていく。例えば、立川の「GREEN SPRINGS」、越谷の「はかり屋」「油長内蔵」、下北沢の「下北線路街」、「早稲田大学早稲田キャンパス」等が紹介される。それぞれ、「迂回する経済」を思うと思わざるとに関わらず、その一端を実現している都市開発である。

    そして著者は最後に、読者に今後も考え続けるための問いを残して本書を閉じる。

    全体を通して主張は分かるが、著者自身にももう少し踏み込んでもらいたいと思ったのは、事例として本書に限らずよく称賛される「下北線路街」。この地区がどのように考えられどう運営され、なぜ上手くいったのかはよく議論される。だが「では何故小田急グループは他の地区で同様の取組みを行わないのか/どのようにすれば取り組みが民間企業に広まるのか」という点の考察は殆どされていない。本書でも紹介されるが、下北線路街ですら担当者の言葉として「自分が担当から外れたら後任者に全て台無しにされるのではないか」という恐れを抱いていることを紹介している。
    かように、民間企業で「迂回する経済」を担当者レベルで実現していくことはハードルが高い。そこをどう取り払うか?が大きな問題である。

    これを読者それぞれの課題として残していく姿勢は、真っ当でもあるのだが、もう少し踏み込んだ議論も欲しかったところだ。

    ただ、いずれにせよ、都市開発に携わる人に考える材料を与えてくれる一冊ではあったと思う。

  • 東2法経図・6F開架:518.8A/Y87u//K

  • 私は仕事でパブリックスペースの検討(主に公共側)に関わっているが、15章の最後に「さままざまな主体が入り乱れる時代に、当面の確実な共通言語は「経済」だけかもしれない」はとても腑に落ちた。その後に書かれているが本書はその「倫理」を問うものだったと思う。実践するには理解を得られないことも多いがゆえに腑に落ちたところではあるが、だからこそ直進から迂回へ舵をきることができれば新たな都市像が見えてくるなぁと。

  • 主張したいことと問題意識は理解できるが、人文系の理論の扱いと解釈が非常に雑。

全8件中 1 - 8件を表示

著者プロフィール

吉江俊(よしえ・しゅん)
早稲田大学建築学科講師、博士(工学)。専門は都市論・都市計画論。
日本学術振興会特別研究員、ミュンヘン大学訪問研究員を経て現職。自治体・住民と協働した地方市町村のまちづくり、民間企業と協働の都市再生や「迂回する経済」の実践研究まで幅広く行う。近年は早稲田大学キャンパスマスタープラン作成、東京都現代美術館「吉阪隆正展」企画監修など。
著書に『無形学へ かたちになる前の思考――まちづくりを俯瞰する5つの視座』(共著、水曜社、2017年)、『クリティカル・ワード 現代建築―社会を映し出す建築の100年史』(共著、フィルムアート社、2022年)、『コミュニティシップ――下北線路街プロジェクト。挑戦する地域、応援する鉄道会社』(共著、学芸出版社、2022年)、『吉阪隆正 パノラみる』(共著、ECHELLE-1、2022年)。
本書が初の単著となる。継続するテーマを扱った次作として、『迂回する経済の都市論』が近刊予定。

「2023年 『住宅をめぐる〈欲望〉の都市論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

吉江俊の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×