- 本 ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784762832352
作品紹介・あらすじ
ナラティヴ・セラピーは,神経科学とどのように関係しているのか? 「感情」や「身体」とどのように関わっているのか? 「情動論的転回」とどのように関連しているのか? コミュニティ・ワーカー,緩和医療の専門家,ソーシャルワーク実践者,心理学者らの論考が照らし出す〈ナラティヴ情動実践〉のかたちとは。
■ 主な目次
第一部 神経科学の道を旅する
第一章 ナラティヴ実践と神経科学の出会い
第二章 感情移入する
第三章 情動論的転回との関わり
第四章 ナラティヴ・セラピーと身体
第二部 情動論的転回と触発ナラティヴ
第五章 ナラティヴ情動実践に向けて
第六章 神経科学と感情
第七章 ナラティヴ・プラクティスと情動
第八章 ナラティヴからアフェクト変様態へ
感想・レビュー・書評
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231122-1-6
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ナラティヴ・セラピーと感情や身体の関係については、以前から気になっていたのだが、その辺りにまさにフォーカスが当たった本で、なんとデンボロウがナラティヴ・セラピーと神経科学との統合を論じているのかと驚き、買ってみた。
が、読み始めるとそういう本ではない。
デンボロウは、神経科学的な方向性に対して批判的に議論を進めている。ある意味、そうだろうなという内容。社会構成主義やポスト構造主義は、自然科学的な方法論とは、今ひとつ、相性は悪そうで、科学的な「知識」が一方的に正しさを保証するような言説に疑問を投げかけ、対抗しようとしているわけなので。
私個人も、正直なところ神経科学、脳科学にはなんだか違和感を感じていて、それで持って、意味やストーリーといったものが還元主義的に説明できるはずがないと思っている。マルクス・ガブリエルの本にのっかると「私は脳ではない」のだ。
デンボロウは、外在化を行ったり、名前をつけるときに、脳のどの部分が活性化したり、ホルモンが分泌されたりということがわかったからと言って、それでナラティブの効果が確認されるわけでもない。逆にいえば、なんかホルモンが出るのが目的であるのなら、それを直接目指した治療をすればいいわけだ。
だが、デンボロウの議論は、神経科学への単なる批判では終わらない。ナラティヴ・セラピーだって、感情や身体を扱っているのだとホワイトの事例や理論的な説明を引用して論立てていく。そうか。ナラティヴは、別に感情や身体を扱わないということではないんだ。ただ扱い方が他のアプローチとは違う。感情や身体を自然科学的な本質として取り扱うのではなく、人の経験や意味ということと切りされないものとして、扱うということなんだ。
この議論は説得力あるし、今後、ナラティブ的なアプローチの中で、そうしたものが扱えるように考えるヒントがたくさん入っていると思った。
さて、ここまでは第1部で、第2部は、デンボロウのこの議論に対するフィードバックが3人の論者からなされて、エピローグでは、それらを踏まえたリフレクションとなっている。この辺りの本の構成もナラティヴ的。
とはいえ、第2部以降はやや難しい。もう少し丁寧に読む必要がありそう。
ちなみに、哲学的には、情動の議論は私の大好きなスピノザに関連してくるところだが、スピノザ的な汎神論、決定論は、社会構成主義の相対主義、非決定論とは相性が良くなさそうでどうしたものかと思っていた。
ホワイトは、晩年ドゥルーズに注目していたといわれ、この本でもその話しが何度か出てくる。これまで、ドゥルーズといっても色々な側面があるので、どのドゥルーズですか?と思っていた。ドゥルーズとフーコーはお互いに尊敬しあっており、刺激を与えあっていたわけで、どっちかというフーコーの生政治とか、管理社会への批判的な面でのドゥルーズが想定されているんだろうと思った。
が、この本を読んで、もしかするとホワイトは、スピノザ的なドゥルーズを読んで、感情や身体という側面に新たなナラティブの可能性を見出していたのかもしれないと思った。
また、ドゥルーズ/ガタリの「哲学とは何か?」が、この本の中で言及されているようなので、その辺りにも、ホワイトが見ていた可能性が隠れているのかもしれない。
また、読まなきゃな本が増えた。(この本も第2部は再読する必要がありそう)
そういえば、小森さんの文章になんか急に詩的なフレーズが出てきたぞ〜と思っていたらリチャード・ブローティガンの「西瓜糖の日々」の冒頭部分のパラフレーズであった。小森さんもブローティガン好きだったんだと親しみを感じたりした。
著者プロフィール
小森康永の作品





