宇宙樹

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  • 慶應義塾大学出版会
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感想 : 7
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  • Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784766410037

作品紹介・あらすじ

宇宙樹はつねに私たちの身のまわりに現在している。春になるとあたりまえに花が咲くのも、植物という形をかりた宇宙的な知性のあらわれだ。人間と植物がともに花開くための新たな文明の尺度を提起する。

感想・レビュー・書評

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  • とてつもなくおもしろい本だったー。
    方法がどうなれど、僕がしばらくしていきたいのは、
    宇宙理法の体現存在である樹との個的な、属人的な関係性を人々の内に育んでいくこと、
    またその記憶を呼び起こすデザインをすることなのだと思う。

    改めて武村氏の植物的知性を恣意的にここで解釈し直すとすれば、
    それは「周りの環境の変化」や「周りの有機体」、「土地の循環性」との関連から、
    自己の同一性を破棄し、それらとの調整を踏まえ、
    新たな「自己」を創出し続ける知性だといえよう。
    即ちそれは「変わり続ける」存在様態への肯定である。



    花は、人間とこの世界を育むエネルギーが一瞬美として可視化されるよりしろなのであり、豊かな実りを約束する宇宙的な便りでもあった。

    小さな花の中に、眼にみえない壮大な生命循環のリズムを観る―その意味で『花』は本質的に宇宙的なメディアであり、その神をお迎えする、宇宙の霊力のおとずれに立ち会うというのが、単に景色として見るだけではない、『花見』の原風景だった

    植物療法は、単に花や薬草を使って治療することだけを意味するものではない。それは、人間界と植物界がどのように癒しと奉仕の相互的な共生関係を構築していけるか?そのバランスをコーディネートする人間の営み全体を指すものだ

    エコとか自然保護といった旧時代的なキーワードは、それが見つからないゆえに妥協的にパッチワークしているだけの途上の言語

    人類の精神史において、木は決して保護すべきものでも、薬や工芸素材として物質的に利用するだけのものでもなかった

    本書を通じて見ていくように、植物は人間とその環境世界のつながりを担保する個性的な媒介者であり、人間自身の生き方と精神的な成長をナビゲートする鏡であり、またそれとの深い絆を通じて地球生態系の新たな次元を創出してきた、かけがえのない共深化のパートナー

    森林や植物の問題が実は私たち自身の問題、人間の本質に関わる問いにほかならない

    植物のありようが太陽や月のリズム、季節や天体の動きに相関していることは、植物を扱うものにとって不可欠の知識

    化粧を意味するコスメティックという言葉が『宇宙』に由来するように、色を身にまとい、化粧や服飾によって変身していく行為は、文字通りの諸存在とコンタクトし、コミュニケートしてゆくプロセスだった

    宇宙的な秩序をわが身に引き写しながら、社会的なアイデンティティをリセットし、時には人間としての限定すらも超えて動物や植物に同一化(変身)するといったように、より大きな次元での自己をデザインする可能性を秘めた営みだった

    顔に色を塗るのは、美しく見せるためでも素顔を見せるためでもなく、むしろ隠れていた自己を超える自己、人格以前の存在そのものを解き放ち、あらわにするような起爆力をもったコスモロジカルな技術だったのだ

    医術と芸術、あるいは癒しと創造という、本来一体であったものの来るべき再統合-どちらも、その本質は生命の調律と解発という位相にあり、たとえば民族の文化的記憶を刻印した娘の衣装を母親が数年の歳月をかけて織り上げてゆくように、あるいは彫刻家がまだ見ぬ作品のかたちを模索するように、ある物語性をもった時間の経過のなかで孕まれ、生成する、目に見えない可能性を凝視してゆく営みにほかならない

    樹々は冬のあいだも明春のために生命ある色を蓄えている

    桜の色を染めるなら、単純に桜の花びらから色をいただけばよいと思いがちだ。だがほんとうの桜色は、花が咲く前の桜の樹の枝のなかに隠れている

    自然界のエネルギーがだんだん増えてゆく過程を【フユ】、それが張りきった時を【ハル】と呼ぶ、日本語の文化的感性に暗示されているように、春に花となって爆発する生命力は、冬のあいだに自己をしずかに膨張させ続けているのだ

    (いろ)を客観的にある物の色彩の認識であるよりは、ひとりの心のうつりゆきとしてとらえる、日本古来の文化的感性

    色は時間を糧としてその生を養い、一つの人生のような(物語)を醸し出す

    色をつねに「うつろい」の様相として、一つの生成過程として捉えること。時にはまだ色として存在しない潜勢態において、すでに色としての未来を内包する、その可能性を孵化していくこと。これこそが色彩の芸術の本質であり、色の生命を扱う行為

    多くの病気はその患者にとって、ある程度必然性のあるもの。その人の生きている現在の状況において、それはむしろ必要なものなのかもしれない

    医療は単に病気を治す行為ではなく、その病気を通じて患者が自らの「生」の意味を深めてゆくプロセスを支援する、いわば病のプロデュース技術

    一本の樹として個体的に見えるものも、実は枝によって、その部分や場所によって微妙に違う遺伝的変異をもつ

    一口に樹齢数千年の樹というが、それは決して単純に自己同一的存在が数千年かわることなく生き続けたという意味ではない。絶えざる自己再編を通じて多様な歴史が織りあわされた複数の「物語」として、それは読まれるべきなのだ

    内部の多様な「変異体」を生かすことを通じて自分自身を絶えず適応・変化している

    植物のからだが自然の一部であるというよりも、思い切って、植物がおのれのからだの一部として自然を保有するとすら表現できる

    動物は、大海に漕ぎ出す小舟のように自己完結的な体制で有益なものを求め、有害なものを避ける。

    植物においては、私達の目に見える実体としての樹木はその動的な循環プロセス全体としての真の「樹木」の一部にすぎず、実際には天地・宇宙まで含みこんだ「関係」の系全体が樹木なのだ

    植物はその身を宇宙の循環系路として貸し与えている

    季節がめぐって花がさくというよりも、宇宙が「満開の桜」や「紅葉」といった樹木の姿を借りて自らを表現している

    樹は宇宙が自己を成就する「場」なのだ。これが個は世界全体としてしか存在しえないという形で述べた、メタ樹木の核心

    ※「メタ樹木」の概念い不可欠な視点。それは樹木同士の世代的連鎖と多元化という縦軸に交差して、いわばヨコ軸として形成される異種(他の生物)との共生-連鎖の問題

    まるで宇宙の自己展開を、自らの繊細なからだで舞ってみせるかのような驚くべきプロセス

    人間にとってはあらゆる樹が、この世界の循環を「花」や紅葉、果実、薬という形にかえてひょうげんしてくれる宇宙的なよりしろなのだ

    工芸や人工の「工」という字は、もともと日本の横棒で表現された「天」と「地」を結びつける『人』の営みをあらわしていた

    天地の関わりをコーディネートし、そこに潜在する大きな力を引き出すという、宇宙的なひろがりをもった営み。

    人工とは本来、自然に対立する薄っぺらで二次的なものではない。「創造性」や「オリジナリティ」といった概念も、人間自身の創造力というより、自然のなかに潜在する創発的な契機をいかに発見すし、解き放ってゆくか?宇宙の力の根源にいかに触れているか?といった次元ではかられるもの

    木の加工・組立てでなく、宇宙的な文脈の解読と再編集。一本一本の柱に経文を刻み、まるで『仏像』を彫るかのように仏塔を組み上げてゆくその行為は、まさに一つの『生命系のうつしかえ』のプロセスであり、それ自体が宇宙を荘厳する祈りの行為というべきだろう

    あるデザインの良しあしを測るのは現代の私たちなのか、それとも未来の世代なのか

    日本の自然は決して天から与えられた所与の自然ではなく、人間と自然の長年にわたる共同作業の成果

    一見そこに何の人為の介在も見出せない「自然」のなかにも、見えない「工」=天地をコーディネートする人の営みを見て取る文化的感性が必要

    天界をトリップするシャーマンの超常的な意識変容技術とドラムの交信能力そのものも、実はこの特定の「木」との『パートナーシップ』に支えられている

    その木はシャーマンが選ぶのではなく、木のほうから選ばれなくてはならない。

    ドラムを作るために自らの「分身」をわけ与えてくれるその木に、シャーマン自身が呼ばれることが必要なのだ

    ドラムはそれ自体で鳴るわけではない。もちろん叩けば音は出るけれど、それは単なる楽器の音でしかない。それが宇宙と交信するヴァイブレーションになり、シャーマンのスピリットを天界へと届ける媒体となるためには、その楽器と宇宙、シャーマンの身体(小宇宙)と天界(大宇宙)を結びつけるメディアが必要。そしてそのメディアの役割を果たすのが、ほかならぬこのドラムを分身とする、もとの樹木だというのである。

    シャーマンは太鼓ではなく、その樹木を通じて宇宙とコミュニケートするのだ

    シャーマンにとっては、契りを交わした樹木を核とした関係の全体が魂の楽器なのであり、宇宙と交信する自らの身体なのだ

    木は彼の『宇宙=身体』の一部であり、彼も森林宇宙に内属した存在であるゆえに木を守るのだ

    門松やひもろぎ、天の岩戸の舞にも象徴される榊、竹など、神のよりしろとしての宇宙樹的な樹木観は身近な文化・習俗のなっかにも今も生きている

    人と樹木と宇宙が一つの身体、一つの楽器として共振しはじめる臨界点では、特定の個人と特定の樹木との『属人的な絆が、本質的な要件として介在してくる

    というのも、このドラムは誰が叩いても同じ効果が得られるわけではない。そのもとになった木と人格的な出会いをし、個人的な「契り」を結んだそのシャーマンが叩かない限り、これは決して宇宙メディアとして機能しない。

    このドラムの素材を提供し、その振動を増幅するアンテナとしての樹は、TVアンテナとは違って、誰にとっても同じように「宇宙樹」としての交信機能を果たす匿名的なメディアではないのだ。

    つまり両者は一心同体であるからこそ、一方に何かが起こると他方にもその影響が及ぼさるを得ない。

    自分に愛情を注いでくれた人間であれ、危害を加えた人間であれ、それに対する植物の記憶はかなりの永続性をもち、互いにしばらく離れていた後でも後者に対してはネガティブな、前者に対してはポジティブな反応を即座に示す

    あのシャーマンの旅は、決してドラムに木を見つける旅ではない。むしろ自分と宇宙の紐帯、森のなかでの自らの「投錨点」を、個人的な人格に託した形で創出してゆく行為だったのだ

    また、樹木がその身体の一部を人間に提供してくれるのは、単にドラムを作る素材としてではなく、それを介してその木と人間が互いにわかちがたい「分身」となるための、特権的なプラットホームを創出するためなのだ。それによってはじめてその個人は宇宙的身体の一部となることが可能になる。

    樹は、大地や天体までも自己の器官として包含する「開放系」として屹立しながら、そのパートナーとなる人間の宇宙的身体のメディアとして自らを貸し与える

    特別な回路を通じて生まれる木と自分との霊的な関係は、単に森林から漠然とエネルギーをもらうとか森林浴をするといった抽象的な関係ではなく、互いの「人格」を認め合ったうえで個人的な秘密を共有し合うほどの「兄弟関係」になるというわけだ

    ネイチャーゲームは、森林について教えるよりも、むしろ子どもたち一人一人の森林経験の質を深めてゆく

    マスとしての環境を守ることを指導するよりも、個々人が一本一本の樹木と深く出会い、それと個人的で親密な関係を持つことによって、家族を思うように樹木や森のことを考えるように、子どもたちと森林との的確な関係回路をデザインしようとする

    異形の自然に手探りで出会っていくことは、未知の自分を発見していく冒険でもある

    ある木について学ぶよりも、その木について自分がそのように感じているか、その場をどのように経験しているかを大事にし、その経験の質を個々人がより自覚的に深めてゆく

    木に抱き付いて、個人的な木の記憶を内部化していくというネイチャーゲーム特有の森林経験

    子どもたち自身が森の一部なのだ

    樹木が本質的に、「宇宙樹」であり、地域気象のみならず宇宙的な環境変化をその身に鋭敏に映し出す気の循環路であることを考えれば、樹功とは樹木とのパートナーシップを通じて人間自身が樹木の宇宙感覚を内面化してゆくプロセス

    祈りとは他者や宇宙に同調してゆく心のおもむきの形象化であり、その意味であらゆる舞踏や擬態は本質的に「祈り」の行為にほかならない

    個体や種は生命情報の大いなる潮流の一経過点にすぎず、私たちの眼に別々の人格や生物種として映るものは、言ってみれば海面に点在する多様な島々のようなもの

    生命の海で、異種をへだてる生命の喫水線を、少しだけ下げてみること

    ダンスの創作行為というものは、わたしと例えば一本の草、稲、樹木との関わりのなかでしか成り立たないもので、そうした自分でない物との具体的な関わりのなかで、何かに驚き、発見しながら自分が揺れ動いていく-そうした生理的な感情の灯をともしていくことが「表現」ということなのだと思います。

    生産対象との即物的な関わりではなく、内的な異種間コミュニケーションのパートナーとして植物と関わる営みを通じて、私たちの生命観そのものを深化してゆくこと

    農という営み字体を、一つの宇宙的な学習プロセスへと広軌転轍してゆく可能性の示唆

    シュタイナーによれば植物の成長には、天体を含めた宇宙の総体が関与しているのです

    植物、ひいては天体の運行リズムや地域気象と関わってゆく脳という営みは、決して旧きよき伝統への回帰といったナイーブなノスタルジアではなく、次代にむけて植物的知性をあらためて人類文化に統合してゆく重要なプロセスとなりうる

    人間と植物がただ生き残るだけではなく、共に花開くために、どのような条件が必要になるか

    植物は人間にとって精神的な成長・進化の「鏡」ともなってきた

    樹木のような創造性の仲介者に人間はならねばならない。植物を介して、人間はより高いレベルの「人間」のありかたを発見した

    人類文化はさまざまな次元で、「植物的知性」を媒介として、人間自身の高次元を模索してきた

    この世界における関係性をより高次に秩序化する存在様態

    思えば人間は、動物であるにもかかわらず直立し、樹木的な垂直感覚と重力体験を共有する存在である。

    近代の人類の知的拡張は、おもに動物的知性の延長に偏重していた

    動物性の知性
    …身体構造における閉鎖性と移動能力を前提とした「環境からの総体的自立」、視点の自由=移動可能性に基づく特定の時空間的コンテクストへの非依存性、そして何より自家利用能力の欠如から他の生命体の殺害/捕食を特徴とする

    植物的知性
    …光合成による自家栄養能力をもち、他者の生命に依存しない自立性をもつ反面、代謝循環系路の開放性と移動能力の欠如からくる「環境への内属性」「コンテクスト依存症」が顕著、また自ら環境を変えられないゆえに、いかなる環境にも応じられる自己の遺伝的多数性を増幅させてゆかざるをえない

    人類の多くの神話・伝説のなかで、樹木は「天-地-地下世界をつらぬく通路」としての【宇宙樹】であり、それゆえに『生命の源泉であると同時に冥界への入り口』でもあるような特別な場所だった

    宇宙樹に見立てられた樹のもとで、シャーマンになる通過儀礼を経験する若者たちは、夢のなかで精霊たちに会い、そこで自らの首をはねられ、からだを細ぎれにされる。そうした死を経て、再び精霊たちにからだが組み立てられる再生過程のなかで、彼らはシャーマンとしての超人間的な能力ートランス状態で太鼓をたたきながら、宇宙樹を通して天界と地下世界を往循するようなーを獲得するという

    実際、人類の多くの宗教は、こうした人間と樹木の関わりを【よりしろ】とした宇宙的な死と再生の物語をおくことで、ありうべき【人間の高次元】、未然形の精神文化の可能性を提示してきたのではなかったか

    ブッダの悟りは『宇宙樹のもとで自己を生贄として捧げ』つつ、樹に胎蔵されたかたちで『うつろいやすい無常な存在である己を捨て、宇宙全体とふたたび一つになる』行為だった。

    森の存在に食われ、森に個的な自我や肉体性を送還してゆくことで、『人間』の高次のあり方を体現しうるという思想

    食うものはつねに潜在的に、食われるものでもあり、そうした相互転換の過程を経験することを通じてはじめて、人間は真に人間となる。こうした思考を根底に据えている点で、仏教の『空』の思想はある意味で、『森の思想』の変奏曲であり、神話的な「野生の思考」の系譜に連なる普遍的な考え方に他ならない

    森の思想の変奏曲としての仏教が標榜する非暴力も、単に植物的な受動性でなく、動物的な食うもの/食われるものの暴力的な関係性を包含したうえで、その相互転換可能性のうちに、それを超えてゆく【人間】の高次元(愛と受苦)を展望しようよいう思想といえる

    自然の支配でも、人間の論理の自然化への拡張でもなく、「自然」というもっと大きな公共空間のなかの調停的媒介者としての可能性に、人間の高次元を展望する視点

    単なる物理的・匿名的な「植樹」でなく、人間と樹木の精神的な絆を担保するような植樹手法を創出すること

    春になるとあたりまえのように花が咲くのも、植物という形をかりた宇宙的な知性の表れにほかならない

    即物的な危機意識に矮小化された環境問題を、もっと知性的で美学的な文脈へと広軌転轍すること

  • "木は立ち上がった水である"
    美しく壮大、マクロでありミクロ。

    こういう物事の根源を考える方は、
    見えない力を大切にする節がある。

  • 図書館で借りて読んだんだけれど、手元に置いておきたいと思える本。

  • (読む前の印象)
    坂本 龍一さんの
    「いまだから読みたい本―3.11後の日本」に登場。

    引用されている本文から、木が水を吸い上げていく様がさまざまと思い起されて、あぁ、きれいだ、って思った。

  • 人間と植物の共進化にむけて。
    宇宙樹は常に私たちの回りに現在している。春になると当たり前に花がさくのも、植物という形をかりた、宇宙的な知性のあらわれだ。人間と植物がともに花開くための新たな文明の尺度を提起する。

  • 長い時間をかけて読む、長く遠いスケールを感じれる本。 よい公園の定義が「自分の存在が小さく感じられる公園=世界と自分の対話ができる公園」だとすれば、この本は、よい公園であり、よい公園に導いています。 今のところの理想の死に方が「食べられる」な自分にとって、後半に同じようなことが書いてあって、自分の理想に少し安心。

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著者プロフィール

京都造形大学教授

「2015年 『新炭素革命 地球を救うウルトラ“C”』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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