読むと書く:井筒俊彦エッセイ集

著者 :
制作 : 若松 英輔 
  • 慶應義塾大学出版会
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本棚登録 : 149
感想 : 9
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  • Amazon.co.jp ・本 (752ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784766416633

作品紹介・あらすじ

初期のイスラーム研究、世界の言語、生い立ちや豊かな交流関係について綴った1939〜1990年までの著作集未収録エッセイ70篇を収録。井筒俊彦入門に最適の一冊。

感想・レビュー・書評

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  • 著者、井筒俊彦さん、どのような方かというと、ウィキペディアには次のように書かれています。

    ---引用開始

    井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年(大正3年)5月4日 - 1993年(平成5年)1月7日)は、日本の言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。慶應義塾大学名誉教授。文学博士、エラノス会議メンバー、日本学士院会員。語学の天才と称され、大部分の著作が英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、欧米において高く評価されている。

    アラビア語、ペルシャ語、サンスクリット語、パーリ語、ロシア語、ギリシャ語等の30以上の言語を流暢に操り、日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行し、ギリシア哲学、ギリシャ神秘主義と言語学の研究に取り組み、イスラムスーフィズム、ヒンドゥー教の不二一元論、大乗仏教(特に禅)、および哲学道教の形而上学と哲学的知恵、後期には仏教思想・老荘思想・朱子学などを視野に収め、禅、密教、ヒンドゥー教、道教、儒教、ギリシア哲学、ユダヤ教、スコラ哲学などを横断する独自の東洋哲学の構築を試みた。

    ---引用終了

    と、すごい方です。
    亡くなられたのは、78歳の時です。


    で、本作の内容は、次のとおり。

    ---引用開始

    初期のイスラーム研究、世界の言語、生い立ちや豊かな交流関係について綴った1939〜1990年までの著作集未収録エッセイ70篇を収録。井筒俊彦入門に最適の一冊。

    ---引用終了

  • 600Pを超える分厚さに圧倒されたが、寸論、随筆、書簡等さまざまな文章を75編収めたもので、しかも文体が詩的で美しいので、読みやすい。

    各国人の気質や言語感覚についての論評も、30カ国語を操り、冬はモントリオール、春夏はテヘラン、秋はヨーロッパと世界各地で過ごした真のグローバリストである著者が記すと、ステロタイプに感じず説得力がある。

    回教徒・アラビア人のことを自分はあまりにも知らなかったので、勉強になった。
    師への想い、先に逝った友への想いを書いた追悼と追憶の章に涙。
    [more]<blockquote>
    P66 元来コーランは論理的な頭の働かない人が、全然論理等を知らない民衆に与えた経典であって、もし構成の人がかかる研究をするようになろうと教祖が知っていたならばもう少し何とかしたかもしれませんが、甚だしい場合になると、ある行で言ったことが次の行では全く否定されて、それとは正反対なことが説かれていることも屡あります。

    P99 信仰と、善行とは別ものである。信仰はそれのみで完全に独立したものであって、行為によって影響されはしない。

    P122 神秘者が忘我入神の絶対的境地において、むしろ知を断絶することによって直接体験するものを「マーリファ」と呼んで、通常の認識や知識を意味する「イルム」と区別した。

    P128 始祖ムハンマドに対する愛慕尊敬の念の時と共に高まりゆくにつれ、人々はそれを何とかして忘却の水底から引き上げようとした。無理にでも引き上げようとした。何も上がってこなければ、勝手に想像力で作り出したものを鉤先にくっつけてまで、自分自身を満足させようとした。

    P130 沙漠のアラビア人は夢なき人々である。【中略】アラビア文学の中で最も非アラビア的なもの、単にアラビア語をもって書かれていると言うだけでその内容のほとんどすべてがペルシャと印度の物語にすぎぬ千夜一夜のみ独りアラビア文学の代表として世界文学の一たる位置を占めるにいたったということは、真のアラビアにとって或る意味ではとりかえしのつかぬ不幸であった。
    アラビア人はもっともっとはげしい現実主義者だ。その厳しい現実凝視の態度は一点の想像をも侵入させぬほどのものである。

    P133 すぐれて感覚的であった彼らベドウィンたちは同時に恐ろしく非論理的であった。【中略】だから彼らがその比類なき感覚をもって現実から受け取る個々の映像や印象は実に強烈を極めているが、それを更に大きく統一することはできなかった。

    P136 一つ、たった一つだけ彼らは大きな望みを有っていた。【中略】それは「永生」を獲るということである。未来永劫に生きていくことである。【中略】かかる永生を彼等は「フルード」と名付けた。フルードが彼らの理想であった。

    P149 人はよくアラビア語の語彙、特に名詞のあまりの豊富さに驚嘆し、これを学習せんとする人は茫然として為すことを知らない場合が屡起るが、このアラビア語の語彙の豊富さは、彼ら砂漠のアラビア人たちの類稀なる自然観察の結果なのである。彼らは実に微に入り細を穿って自然を観察した。どんな細かいものでも、どんな小さなものでも彼らの眼を遁れはしなかった。

    P169 沙漠のベドウィンはその特異な生活環境と風土から来るいくつかの極めて著しい特徴を持っている。【中略】一番重要な特徴として、想像力の欠如ということだけを指摘しておこう。乾燥アジアの名の如くかさかさに乾き切った沙漠のクリマの中では、人間の空想力や想像力は影も形もなく蒸発してしまうのでもあろうか。【中略】こんな精神の持ち主には、物語は作れない。物語とは、要するに直接の現実を遊離して、空想の導きに身をまかせた時初めて生まれる文学だからである。

    P183 イスラームの見方からすれば、人間は確かに罪深いものではあるが、その罪悪性は原罪ではない。つまり十字架上のキリストの史によって償われなければもうどうしようもないものではなくて、人間が自分で処理できる人間性の歪みに過ぎないのである。罪をこのようなものとして考えるということは、イスラームが人間の本性を本来的に清浄なものと考えていることに基づいている。【中略】ただ「コーラン」に言われているとおり、人間は『生まれついての粗忽者』であり、その軽率さのゆえにともするとおのれの清浄な本性から逸脱してしまう。つまり己の本性の自覚がしっかりしていない。要するにそれだけのこと。【中略】こうして罪の意識の取り扱い方を考察することによって、我々はここでもまた再び、イスラームの現実主義、すなわち現生に対する積極的、建設的態度の確認に連れ戻されるのである。

    P196 ハキーカとはアラビア語で、字義どおりには実在とかリアリティという意味。つまりあらゆるものについて、それの真のリアリティはザーヒル(表面)にはなくてバーティン(内側)にある、と考えるのである。この内面性の重視、内面への道の選びにおいて、シーア派はスーフィズム(イスラーム神秘主義)と完全に一致する。

    P224 トルコ語はその構成上極めて知性的な言語である。その文法は膠着語の特徴を遺憾なく発揮して極度に論理的規則的であって、動詞の変換にいても名詞の変化にしても一の変化形式を知れば直ちにもって他のものにそれを応用することができ、助動詞以外には不規則動詞というものは存在しない。しかも所謂「母音調和」が働いて同種の母音は出来得る限り同種同士で結びつこうとするから、その音楽的美しさは無類である。

    P236 東印度会社時代イギリス人はこれをヒンドスターニーと名づけ、それ以来この名を持って世界に知られるに至ったが、印度人自身はこの名をあまり歓迎せず、回教徒は自分の言葉をウルドゥ語と呼び、印度教徒はヒンディ語と名付けて今日に至った。

    P256 表面的にはそれ自体で自立してそこにあるように思われている存在世界は、全体としても、またそれを構成する個々の事物から申しましても、すべてコトバ的性質のものである。コトバを源泉とし、言葉によって喚起され、定立されたものである。つまり、簡単に言えば「コトバである」というのであります。

    P257 「果分」は、意識の絶対超越的次元でありまして、普通この次元での事態を、言語道断とか言妄慮絶とか申します。つまり言語を超えた世界、コトバのかなた、人間のコトバでは叙述することも表現することもできないもの。そういう形而上的体験の事態を意味します。ところがこれを弘法大師は「果分可説」つまりコトバを超えた世界をコトバで語ることができる、あるいはコトバを超えた世界そのものが自らコトバを語り出すと主張されまして、この立場を真言密教の一つの標識となさいました。

    P264 ラングとぱロールを対立させる以前に、ラングのそこに潜んでいる真相意味領域と言うモノを考えなくてはならない。それでこそ初めて、そのような、いわゆる意味の太古の薄暗がりから立ち現われてくるパロールの創造性というものが、本当に理解できるようになるのではないかと私は思います。

    P279 前の根源アルファベットの段階では、身分の流動的存在エネルギーであったものが、今お話ししている段階で初めて、その流れの所々にエネルギーの集中が起こり、仮の結節が作られていく。【中略】ファズルッラーの文字神秘主義的直観によりますと、すべては文字であり、文字の結合であります。この広い世界、人はどこを観ても、ただアラビア語のアルファベット28文字あるいは32文字の様々な組み合わせを見るのみ。それ以外は何もない。つまり、存在世界を一つの巨大な神的エクリチュールの広がりと見るのであります。

    P299 無でありながら有、有でありながら無、という<仮有>のこの中間的存在性は、二つの対照的見方を可能にする。第一に<仮有>を<実有>として見る立場。これに対して<仮有>を厳密に<仮有>として見る立場もある。ナーガールジュナによれば、この第二の見方こそ、存在の唯一の正しい見方なのであって、彼はこの意味での<仮有>を<空>と呼ぶ。【中略】そしてこのように解された<空>を構造的に<縁起>と同定する。<縁起>とは現象界に生起する一切の存在者の相互依存性ということである。

    P350 実際、文化的な近代都市に生活する『教養人』にとって、豊穣で多彩な自然は時として堪えがたいほどの魅惑をもって迫ってくる巨大な力だ。

    P352 文化と自然を対立させておいて、一方を否定し他方を大きく肯定するというだけのことなら誰にでもできることだろうが、幸か不幸か露西亜的人間はそんな簡単に割り切れる人間ではない。自然性への衝動が激しければ激しいほど、意識性への要求も激しくなるような、根源的に矛盾した人間でそれはあるのだ。トルストイはこの矛盾を最も典型的な形で我々に示す。【中略】意識的に自然人になろうとする時、彼は最も不幸な人間になる。強烈な死の恐怖が彼を捉え、「自分の前には破滅以外の何物も無い」ことを悟って戦慄する。あの長い生涯を通じて、トルストイは最後の死の瞬間まで、人間意識のこの根源的矛盾を超越することができなかった。

    P378 「愛は極めて特殊な知識であって、それは一種独特の言葉を有する。自ら愛を経験したことのない人は、この言葉を理解することができないであろう。【中略】自ら愛を識らぬ者には、愛の言葉は異国の言葉であろう」

    P408 コネートル(認識)とは、コ・ネートル(共に生まれる)を意味する。【中略】完全に孤立し自立したものは世界に存在しない。いかなるものも自分だけでは「在る」に足りず、「在る」ためには、それは自分の周囲に加入しなければならない。ものが生まれる、在るということは、すなわち共に生まれる、共に在るということである。

    P424 「テクスト」を「読む」読者は、コトバを通じて自己表現する書き手の「我」をそこに探ろうとしてはならない。そんなものは初めからそこにはないのだから。また、コトバを通して、その向こう側に、言語以前の客観的世界を求めてもいけない。書かれるコトバに先行する客体などというものはいかなる意味においても実在しないのだから。
    コトバは透明なガラスではない。本来的に不透明なコトバが、自らの想像力でリアリティを書き出す、ただそれだけ。こういう形でのコトバの展開が、すなわち存在の自己形成なのである。【中略】従来、我々がヨミ・カキという名のもとにいとも軽々しく取り扱って来た平凡な事柄を、「読む」「書く」というずっしり重量感のある学問的テーマに変質させた西欧の現代的知性の営みには、確かに我々東洋人の反省を促す何かがある。

    P427 単・複を分けない日本語の意味空間には、そんな不決定性がある。そして、そこに情緒纏綿たる詩的感性の世界が生起するのだ。→P603 たとえリンゴの数など問題でないような場合でも。物を見る、そのたびに必ず単語を区別しなければ口が聞けない。そんな妙な言葉を幼い時から話してきた連中の心の働きは、よほど変わっているに相違ない。

    P488 東西の思想は互いに他を酵素として自らを醗酵させる必要があり、いずれが基体となり、いずれが契機となるにしても、将来これら異質の思想は密接な相互関係を持って発展することが期待されているのである。

    P500 「古典」とは、まさしく古さを窮めてしかも絶え間なく新しくなるテクスト群なのだ。新しくするもの、それは常に「読み」の操作である。

    P521 存在の現実の次元では、かけがえのない一人の友を私は亡くした。だが、彼は今、「花をかざした幻影の人」の姿となって訪れてきては、私を慰め、励まし、楽しませてくれる。

    P591 はたして弥三郎は、かつてのイケダ哲学なぞどこへやら、手放しで折口国文学の流れの中に身を投じていった。【中略】その中にいる弥三郎は、もう私の朋ではなかった。友だった。
    私自身の師事した西脇先生は根っからの孤独者だった。【中略】学統も学派もそこにはなかった。朋構造もなかった。からっとした知的雰囲気の中にとっぷり身を浸して、飄々たる先生の講義を聞いているうちに、広い、無限な学問の広がりの地平が、孤独者としての私の前にひらけてきた。
    </blockquote>

  • 日本史上最高峰の天才はやはり違うなあ。メモ→ https://twitter.com/lumciningnbdurw/status/1345486455708110848?s=21

  • 文学

  • 時折、見えてくるナマの井筒先生の姿。

    「意識と本質」のサブ・サブテキストくらいに丁度良い。

  • いやぁ、面白かった。

    初めて井筒俊彦の本を読んだのは、中学校卒業したばかりの頃、『意識と本質』で、さっぱりでしたね。以来、全く読んでいなかったんですけど、中世哲学をやるようになって、アラビア哲学を学ぶ必要から、井筒俊彦全集読みました。読解力って、伸びるもんだなぁ、って思いましたね。あんなにわかんなかったのに、どんどん読めるようになってる、って自分で驚いた事をよく覚えております。

    しかし、語学、凄いですね。一体何ヶ国語出来るんだか。

  • 「みすず」読書アンケート(1980 - 1981)
    https://yasu-san.hatenadiary.org/entry/20110107/1295735469

  • 井筒俊彦ってエッセイもあったのか~くらいの軽い気持ちで買ったけど、中身はほとんど学術的な話、特に付録の言語学部分は門外漢にはとてもついていけないような高度な話に終始しているのでかなりカロリーの高い本だった(しかも付録含めて700ページ以上ある)。中身は論文や講演、手紙、推薦文やちょっとした寄稿の寄せ集め。
    エッセイと言えなくもない部分も最近の学会や研究報告といった感じで、エッセイ的な生活感はあまりない。というか、俗世間のことは興味ないんだろうな、という感じがありありで好感度が高い。戦争体験のことすらほぼ触れないのはこの年代の方の書き物にしてはかなり珍しいのではないか(ほかの著書で書いているのかもしれないけど)。たまにアジアを導く日本の責任みたいなことが書いてあって時代を感じるくらい。それすら、イスラムや東洋思想研究の意義として持ち出してくるだけの話なのだから。
    高野山の講演の書き起こしらしい「言語哲学としての真言」が特に面白かった。ソシュール、荘子やイスラームの文字神秘主義など自在に渡り歩きながら、そこに通底する言葉の存在論を浮かび上がらせる鮮やかさには本当に脱帽する。このマクロからミクロへズームも自由自在、それでいて独自の焦点を失わない思考と見識の深さは到底常人のものではありえない。まさに天才だ。学生時代は井筒氏訳のクルアーンや著作を読んでいたから、なんだか懐かしく、そして改めてそのすさまじさを感じる読書になった。

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著者プロフィール

1914年、東京都生まれ。1949年、慶應義塾大学文学部で講義「言語学概論」を開始、他にもギリシャ語、ギリシャ哲学、ロシア文学などの授業を担当した。『アラビア思想史』『神秘哲学』や『コーラン』の翻訳、英文処女著作Language and Magic などを発表。
 1959年から海外に拠点を移しマギル大学やイラン王立哲学アカデミーで研究に従事、エラノス会議などで精力的に講演活動も行った。この時期は英文で研究書の執筆に専念し、God and Man in the Koran, The Concept of Belief in Islamic Theology, Sufism and Taoism などを刊行。
 1979年、日本に帰国してからは、日本語による著作や論文の執筆に勤しみ、『イスラーム文化』『意識と本質』などの代表作を発表した。93年、死去。『井筒俊彦全集』(全12巻、別巻1、2013年-2016年)。

「2019年 『スーフィズムと老荘思想 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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