パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か

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  • 現代書館
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レビュー : 11
  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784768468999

作品紹介・あらすじ

ヒトの社会に充満する混乱を解きほぐすために、あらゆる学問の障壁を取り払い、「過剰」「蕩尽」「パンツ」というキーワードで、ヒトの本質を解明した名著の新版。

感想・レビュー・書評

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  • パンツをはいていることよりも、
    パンツを脱いでしまった後どうしたらよいのかが知りたい。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784768468999

  • マクロとミクロに矛盾、まぁ、いっか

  • ・興味深いことが書かれている

  • 蕩尽は快楽。蕩尽のための生産。祝祭は共同体の活力を回復する。ふだんの秩序や価値観が逆転する。デュルケムの聖俗理論。

    ・日常的な時間=生産(労働)=秩序ある世界=俗的世界=生の世界(エロス)=この世
    ・非日常的な時間=破壊(消費)=秩序が破られる世界=聖的世界=死の世界(タナトス=死の本能)=あの世

    マルクスは古代奴隷性社会という段階を考えたが、基本的な誤解をしているとしか言いようがない。古代社会においては生産能力が不足していたという、近代人の偏見。ローマやギリシャのような古代社会でも、奴隷が共同体の維持に必要な食料の生産に携わっていたという事実はない。

    貨幣は本来、交換手段などではなく、呪物そのものであったし、いまも基本ではそうなのだ。

    エネルギーとエントロピー。過剰を蕩尽することで精神にたまったエントロピー(=穢れ)を放出する。

    ヒトの性行為は、広い意味での「交換」行為であり、生殖や種の維持は、その結果として行われる。

    性はヒトにとって「死」の世界を無意識に(ときには意識的に)感じさせるための行為であり、それは供儀(神に生贄を捧げる)の行為の模写なのである。男は生贄を神に捧げる執行者。女は被執行者。女体は象徴としてのヒトの世の〈過剰〉を表している。

    性交渉の最も陶酔的な状態は墓場における性交である。バタイユ

    「共同幻想」「私的幻想」吉本隆明、岸田秀。

    外的支配の成立や権力の成立が、神経症や総合失調症の発生と時期を一にしている。

    ヒトも、ヒトが作っている社会も、根本から神経症的存在であると言えるのかもしれないのである。異質な文化が混じり合ってる近代社会に生きる私たちは、広い意味でつねに激しい神経症に苦しめられている。

    ひとつの均質な社会に外的な権力や、それに伴う共同幻想が持ち込まれると、社会に混乱が起こる。近代社会は、そうした混乱を内部に抱え持ち、それを押さえ込んでいる社会である。

    遊びは人間の社会にとって極めて根本的なものである。遊びは過剰に生産した財物やサービスを蕩尽するという、祝祭的な性格を持つとともに、神経症から人々を逃避させるものであるのだ。その意味で遊びは、結局、人間社会に活力をもたらすもので、決して無駄なものではない。遊び心を理解できないやつは、ヒトたりえないのだ!

    遊びに手の混んだ準備や高価な道具が必要なのは、それにより蕩尽の快楽を大きくするためだ。

    暗黙の了解が崩れるところに、法はできる。逆に言えば、異質の文化が重なり合わなければ、法はできない。

    文字は単に記録を残すために必要なのではない。何らかの異論の発生する余地があるから必要なのである。法と同じことなのだ。

    文字は文明の進展の物差しではない。そのような考え方は、進歩主義的幻想に依拠しすぎている。

    「権力形態は、社会全体が持っている共同体深層の無意識によって決められている」(カイヨワ)
    法とは、突き詰めて言えば、共同体成員大多数の敵意の表現である。
    戦争は共同体内部のエントロピーを処理するので英雄的であり、日常的殺人事件は共同体内部の高エントロピー生産となるので犯罪である。

    ヒトの自然の本性とは、それをそのまま、まったくフリーに発露させたら、ヒト社会全体の死や地球の死にも繋がるような恐ろしいものである。だからヒトは、法律というパンツをはいているのだ。

    アメリカが広いから、都市と都市のあいだが隔たっているのではない。なるべく他の集団と接したくないから、わざわざ隔てて都市を建設したのだ。

    ボスザルが老いて群れから離れて一人で暮らしていた。人間の弁当の残りものなどを食べて生き延びた。通常サルは老いると保守的になり、新しいものに手を出さなくなる。群れから離れたことで食の「タブー」から自由になったのだろう。
    道徳とは、このような集団性を確保するもの。

    ・感情、道徳、哲学などといったものは、広い意味での生物学のなかで語られなければならない。
    ・社会の進化は、すべて「内知」(または暗黙知、深層の知)によって行われる。
    マイケル・ポランニー

    内知とは暗黙の非言語的な生物的能力。

    現代社会の悪は、資本家階級の搾取よりも、監獄化、学校化した社会にある。近代科学がもたらした外的な知識の押し付けの最終的な結果だからである。
    そして、現代社会の矛盾に、最も強く反対したはずのマルクス主義さえもが、むしろより強い客観的知識や客観的真実の押し付けを、私たちに行っているのである。
    社会主義が善、資本主義が悪といった単純な善悪二元論では問題の解決にならない。どちらも、人間の思考の内知に人間の基本的な存在がかかっていることを理解していないことが問題なのだ。これが、コペルニクス以来の近代科学と、それがもたらした押し付け的道徳観の結果である。その結果、現代社会は本来的に人間が依拠すべき道徳を失った。そのために、もっと強く別の道徳を求める時代となってしまったのである。

    内知(暗黙知)はまず「これが正しいのではないのかな」とか「これはおかしいのではないかな」という「感じ」としてやってくる。
    自分自身の精神と身体を十分自然に対して解放しておく努力も必要である。とくに注意すべきは、われわれの身体に組み込まれてしまっている支配や制服や攻撃への欲望と快感だろう。それを意識的に抑えて「自然と共生して調和している自分」であるような努力だけは必要だ。

    真理の答えは、本当は間違いなく私自身は知っているはずだが、外知や感情、雑念によって混乱させられて明かりが見えていないだけだ、と考える。
    問題を確認しておいて、(1)体を動かして頭脳を解放する、(2)逆に昼でも横になって体を解放する。そして答えを急がない。
    学問というものは、真理をつかむために必要なのではなくて、つかんだ真理を他人に伝えるために必要なのである。

    監獄化 フーコー
    学校化 イリイチ

  • パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か
    著者:栗本 慎一郎
    現代書館 / 単行本 / 2005-04

  • 2010.10.17

  • 興味深い。

  • 新版が出てるのは知らなかった。

  • 9点

    ニューアカ・ブームの立役者の一人、栗本慎一郎氏の代表作です。僕は最近読んだのですが、80年代に現代思想が流行ったのも理解できます。内容は、貨幣の交換といった経済人類学に始まり、生と死、そしてそれらと性の関係を「パンツ」を介して進めていきます。そして、「パンツをはいたサル」の未来を窺います。しかし、もう、栗本氏のような学問界を縦横無尽に走りまわる人は出てこないのでしょうか?誰か出てくることを期待しています。

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