- Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
- / ISBN・EAN: 9784770041050
感想・レビュー・書評
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感想
前に進むことが良いこととは限らない。生きづらさを認める。何かが変わるわけではない。でも心が軽くなる。隙間ができた心に何を詰め込もうか。 -
風邪をひいているときとかに読む本。
やりたいことと必要とされる(認められる)ことがマッチすると幸せだなあ。
人間性はお金の使い方にあらわれる。どう稼ぐか?と同時に、どう使うか?も大切。
この世は約束だけでできている。→実存は関係性の中にある。
情報は大切だが、不要な情報は疲弊させる。
自慢話よりも失敗談。
生活スタイルを変えなければ、人は変わらない。
いじめは常にいじめる側に問題がある。
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『自殺しない』『生きることを引き受ける』という決意・覚悟が人生を楽にする。
『自分とは何か』『人生をどう生きるか』という,一見,大上段に構えて日常生活と乖離しているかのような議論を,日々の生き方に食い込ませてくる。
南和尚の他の著作と異なり,親子関係について詳しく述べられている点も特長。 -
いっぱいメモを取りながら読んだ。
また辛いときに読み返したい。 -
タイトルだけ見れば、よくありそうな本だけど、この本は左翼系の弱者擁護本でもなく、「弱い自分を受け入れて」的なメンタルセラピー本でもない。著者は禅僧であり、その内容は仏教の教え、言うなら東洋思想。
「なぜこんなに生きづらいのか」
これに対して、左翼本は他者との認知/承認の関係性が希薄になっているからで、承認欲求が満たされていないからと答える。そして、メンタルセラピー本は、生きづらさは本当の自分と理想の自分のギャップ、つまり自己否定感からきていると答える。
仏教の開祖、釈尊はこう答えた。
「自己とは課せられたものであり、生きることそれ自体が「苦」そのものである」
仏教はプラスもマイナスも無い「空」を教える。無心になるために半眼で座禅を組む。その時間は、生という苦しみの中での、わずかな無の時間なのかもしれない。全ての意味を否定し、そしてこう続く
「ある人間がそこにいるということ自体が大事件である」 -
図書館で目に留まって、図書館で読み終えた。
いつもなら見過ごしていたと思うが、ちょうど漱石の『門』やら『行人』やらを読んだ後で禅に興味があったのもあって、たまたま手にとった次第。
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。」
普段考えていたようなことが色々書いてあるのにちょっと驚いた(もちろん考えを異にする部分もあるが)。本書は常識の反転を謳っているようだが、私にとってはむしろ「あ、やっぱそうだよね。」という感じかなぁ。私に常識がなかったのか。そうか。
扱う領域を「著者の考える人間の生き方」にきっぱり限定しているのが、読んでいて比較的ストレスが少なかった理由だと思う。私は神にアレルギーがあるようだから。
自殺を放棄するのは凄く勇気のいることだ。
しかしまあ、これが仏教なのか?「禅」なのか?という疑問も。
もっと知りたい。 -
珍しく半日で読破。禅師の話は本当に腑に落ちる。
あ、文庫で出てた...。 -
松岡正剛氏を教えてくれた読書好きの友人から以前教えてもらった禅僧(「語る禅僧」ってことでちょいと有名みたいっす)さんで、どれから読もうかなと思っていた矢先に、最新刊が出るとかで、それにしようと読んだ本です。かなり読みやすいです。この方の本、読みにくい?と評判らしく、そのいきさつがブログ(※)でも書かれていますが、たしかにこの本は読みやすかったですよ。
※)『恐山あれこれ日記』より:08/10/09「抜けの良し悪し」
→http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2008/10/post_6dc9.html