サンタクロースの部屋―子どもと本をめぐって

著者 : 松岡享子
  • こぐま社 (1978年11月20日発売)
4.03
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  • 本棚登録 :100
  • レビュー :19
  • Amazon.co.jp ・本 (247ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784772190015

サンタクロースの部屋―子どもと本をめぐっての感想・レビュー・書評

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  • どの章も私にとってとても勉強になったけれど、特に子どもの本をできるだけ当たり前に読むことを心掛けている、という部分が良かった。人の感想、書評を読んで自分の読みがひどく浅いものに感じたり、自分はよく理解しないで読んだのだと落ち込んだり。「読みが浅い」「理解できていない」「上っ面だけ」、そう思われるのを怖れる気持ちが心のどこかにある。
    そして最近は特にブクログやアマゾンレビューなど、他人の評価がひと目でわかるようなものがあると、自分なりの評価を、と思いつつもつい気になって見てしまうということもある。

    人の評価に左右されず、自分の感性で判断する、本を評価するように心がけたい。

  • ◆きっかけ
    こぐま社の2017年クリスマスフェアの案内の中で、
    ひぐちみちこさんが「この本は私の育児書だった。人の成長には何が必要で、それはどう養われていくのかが、子どもの本をキーワードに掘り下げて書かれていました。私が知りたかったのはこういうことだつ、何度も思いました。」と紹介していて気になって。む図なし、い図あり。2017/11/10
    ◆感想
    い図。本書が出版されたのは1978年であり、40年も前のこと。本の中で筆者は図書館の普及を願っているが、今や図書館はどの町にもある身近な存在になっている。(今回読んだのは2011年発行の版だが、p50に「※この文章が書かれたのは一九七十年代の初めで、それ以降、日本の公立図書館は大きく変わった。児童に対するサービスは定着し、ここに記した不満のほとんどは解消したと思われる。」と記されていた。)
    私の出身地も、私が小学生の時に公民館の一室だけだった図書館が、新築の大きな図書館に移転して、蔵書がぐんと増えて、ワクワクしたのを今でも覚えている。大人になって色々な県に住んだけれど、どこも図書館があり、読書には事欠かなかった。町によっては他の図書館と連携して貸し出してくれるサービスもあったり、図書以外のサービスとも連携していたりと、それぞれ工夫が凝らされている。筆者のような方々が、地道に活動してくれたからこその恩恵なのだなと、あらためて感謝。
    子どもの本への反応について、昔より希薄なものになっている、それはテレビの影響が大きいと訴えている。1970年代の時点の話。今の子どもや、私たちの世代を見て、筆者はどう感じるのだろう。おそらく読書や観劇、音楽や絵画、文化活動への親しみ等、1970年代より現在の方がかなり充実しているし、子どもたちに親しんでもらおうという企画も充実していると思う。そしてそこに来る子どもたちの反応も多様で、活き活きしているように見える。きっと筆者が訴えてきたことは世間に大いに広まって、私も含めきっと多くの人が、子どもに感受性豊かに育って欲しいと願っている。
    昨年の夏、同著者2015年出版の『子どもと本』を読んだけど、現在の子どもに対する見解、何て書いてあったっけな、思い出せない…。2018/2/1

    ◆引用
    p4…この空間、この収容能力、つまり目に見えないものを信じるという心の働きが、人間の精神生活のあらゆる面で、どんなに重要かはいうまでもない。のちに、いちばん崇高なものを宿すからしれぬ心の場所が、実は幼い日にサンタクロースを住まわせることによってつくられるのだ。別に、サンタクロースには限らない。魔法使いでも、妖精でも、鬼でも仙人でも、ものいう動物でも、空飛ぶくつでも、打出の小槌でも、岩戸をあけるおまじないでもよい。幼い心に、これらのふしぎの住める空間をたっぷりとってやりたい。
    近ごろの子どもは、こざかしく、小さいときから科学的な知識をふりかざして、容易にふしぎを信じないといわれる。しかし、子どもは、本来ふしぎを信じたがっているのだとわたしは思う。図書館で空想物語に読みふけり、図書館員の語る昔話に聞きいるときの子どもたちの真面目な顔つきを見ていると、それがわかる。
    トリック撮影のフィルムでは、空飛ぶ主人公のうしろに、見えないはずの針金をいち早く見つけて、もっと幼い弟や妹の夢を無情に破るその同じ子が、お話の時間には、月の精のつえのひと振りで、冬の森が瞬時に春へと変わるのを、息をつめて見守るのである。本当らしく見せかけることによってつくられる本当と、本当だと信じることによって生まれる本当を、子どもはそれなりに区別している。
    むしろ、見えないものを信じることを恥じ、サンタクロースの話をするのは、子どもをだますことだというふうに考えるおとなが、子どもの心のふしぎの住むべき空間をつぶし、信じる能力を奪っているのではないだろうか。

    p18…笑う能力はもともと人間に備わっているのかも知れないが、どういうことを、
    どういうふうにおかしいと感ずるかは、人間の成熟の度合や、社会的な訓練によるものだということがわかってくる。笑いの感覚は、磨かれなければ発達しないということである。
    よく日本人はユーモアのセンスに欠けるなどといわれる。実際ユーモアのセンスがあるかないかは別として、一般にそれを、それほど大事なものと考えていないのは事実である。おかあさんがたに、「あなたは、お子さんがどんな人になってほしいとお思いですか」と質問したら、「誠実な人間に」「思いやりのある人に」という答は多いだろうが、「ユーモアのセンスのある人間に」というのは、少ないのではないか。
    わたしがアメリカの図書館学校にいたとき、クラスで、子どもに本を読ませる目的や、お話をして聞かせることの意義についてディスカッションをすると、きまって「ユーモアのセンスを養うこと」がその一つとしてとりあげられるので、ちょっと驚いたものである。就職して何ヵ月か後にうける"勤務評定"でも、職業的知識や能力と別に、人物評価の欄があって、そこでも、
    指導力や協調性と並んで「ユーモアのセンス」の有無が問われた。
    こういう事実を見、また生活のいろいろの場面でーーことに、対人関係などが行きづまりを見せたとき、などーーこのセンスのあるなしが、どんなに大きくものを言うかを経験して、わたしは、次第に「ユーモアのセンス」を以前よりずっと大事なものに思うようになった。
    ユーモアのセンスをささえているのが、単なるとんちの才ではなく、ありきたりの見方にとらわれず、違った角度からものごとをとらえることのできる頭の柔軟さや、少々いためつけられてもはねかえす強靱な精神,さらにはまた自分の愚かさをも含めて、人間性を暖かく包む心なのだということもわかってきた。それは、ただ人生に彩りをそえるものというよりは、もっと人間の生き方に本質的なかかわりをもつものだといえる。
    おもしろい話に笑いくずれる子どもを見て、この笑いが、いささかでも彼らのユーモアのセンスを育てる助けになるようにと願うこのごろである。

    →社会人になり、この「ユーモアのセンス」の大切さを、どんどん感じるようになった。ユーモアのセンスが良い人は、概して仕事ができる。早い。頭がきれる。柔軟。物腰やわらか。そして周りを巻き込んで、かつ円滑に物事を進める。恐らくかなりの量の仕事を進めていて努力もかなりされているのに、必死さを周りに感じさせないゆとりの空気。自分には大いに足りていないものだとひしひしと感じた。娘らの生きる時代は、ますますそういった力が必要になるだろうし、むしろそういったところにこそAIでは補えない人間の力が活かされるだろう。ユーモアのセンス、様々な経験や読書、人間関係から、磨いていって欲しい。親であるわたしも、その必要性に気づいて10年弱、周りの人や…から学び取ろうとしているものの、いまいち頑固な部分が拭いきれないでいる。子育てしながら、わたしも成長していきたい。

    p38…が、もしそれほどまわりがうるさかったのなら、いったい、当の中学生は、そのときどうしていたのだろう。うるさくしている人たちに、自分で、「静かにしてください。」と頼めなかったのだろうか。あるいは、私たち係りのところへ、「隣りの人が騒がしくて勉強できませんから注意し
    ていただけませんか。」と、いいにこられなかったのだろうか。または、もっと消極的に、どこか別のところへ席をかえるということもしなかったのだろうか。
    中学生にもなった子どもが、これくらいの知恵も働かず、不平不満をいだいたまま家に帰り、それを母親がすぐさま図書館に電話をかけてくるということが、わたしにはなんとも奇妙なことに思われた。
    子どもも子どもだが、もし、おかあさんが、そういった子どもの訴えを聞いて、「よっしゃ、おかあちゃんが図書館ヘ電話かけて、こんどから気ィつけてくれいうて頼んだるわ。」とはいわず、「それで、あんたはどうしたん?」ときくようなおかあさんだったら、中学生になるまでに、この子は、もっと自分のことを自分でやれる、少なくともやろうとする子どもになっていたろうと思われる。
    近ごろ、親子づれで、図書館の児童室を訪れる人たちがふえてきたが、電話のおかあさんのように、子どもの世話をやきすぎる親が多いのには驚く。閲覧票に名前を書いてくださいというと、さっと子どもに代わって親が書く。貸し出しの手続きについて説明すると、親だけが聞いている。子どもは、自分のことじゃないというような顔をしてよそ見をしている。
    どんな本がいいかときかれるので、私が「今まで読んだ本の中で、とくべつ好きだった本ある?」と子どもにたずねると、子どもが考える時間も与えず、親がそばから答える.....。(中略)
    子どもにとって、何か困ったことがあって、自分の力ではどうしようもないとき、あるいは自分で問題を解決しようとして失敗したとき、必ず相談にのってくれ、知恵を授けてくれ、あるいは慰めてくれる存在として親がいることは、何という大きな安心だろう。しかし、親は、子どもに代わって子どもの問題を解決する存在であってはいけないはずである。
    (中略)子どもが自分で自分の問題を解決
    できるように、励まし、助けてやるのが親の仕事だと思う。

    p43…特効薬かなんぞのように本を利用することばかり考えていると、(中略)もっと大事なこと、たとえばそれが物語としてよく書かれているかとか、その本は全体としておもしろいかというようなことを考えなくなる。あるいは、反対に、どんなによく書かれた、おもしろい本であっても、当座の目的にかなっていなければ、かえりみないということにもなる。それが困るのだ。
    本を読ませようとするのはいいが、目先きの効果をねらった読書を強いて、子どもを本ぎらいにしてはつまらない。おとなも、子どもも、本を読むときは"上を向いて"いよう。そして、心が、より高い、よりのびやかな世界に向かって開かれているようでありたい。

    p46…それでも夫人は、ほしいだけ本が買える家庭でも、公共図書館を利用する習慣が、なるべく早くから、子どもの読書生活の一部になることが望ましいと述べている。その理由として夫人があげているこ
    とのひとつが、実はわたしの印象に残っているのだが、それはこういうことである。
    公共図書館の利用は、子どもたちに『共同でものを所有することに、自らもあずかる感じを与える……』からというのである。
    夫人は、図書館が、いろいろな公共機関の中でも、とりわけすぐれて民主的な機関だと言い、子どもたちが図書館に親しみ、自分以外にも書物を楽しむ大勢の人々がいることを知り、幅広い蔵書が、個人では得られなかった恩恵を与えてくれるのを経験すれば、それは世の中のしくみを学ぶ上で、生きた勉強になると言っている。

    p68…家庭における場合と同様、文庫や図書館を利用し、そこでお話を聞き、たくさんの本の中から自分の好きな本を自由に選べることをたのしいと感じた子どもは、「共同でものを所有すること」のよさを体得し、だから「共有物」である本を大事に扱うようにもなると思います。

    p71…わたしの文庫には、しばらく前まで、紙粘土でできた、身のたけ15cmぐらいの、お手製の、青い目の子ネコの置物があって、この、目を伏せて、ひょうひょうとした顔つきをしたネコの首からは、「おまえさん、手はきれいかね?」とかいた名刺大のカードがぶらさがっていました。そして、表でどろんこ遊びをしたまままっすぐかけこんできた子、お習字の練習のあと手も洗わずにきた子などは、すぐ、その前につれていかれました。子どもたちは、それを見ると、こちらが何もいわなくても、笑って、自分から水道のところへ走ってい
    くのでした。家庭でもそうですが、とくに文庫や保育園などでは、ガミガミにかわるユーモラスなしつけの方法を、あみだしてもらいたいと思います。

    p81…わたしは、絵本の字の部分は、原則として、おとなが読んでやるもの、と考えています。ごくふつうに考えてもわかるように、子どものことばをあやつる能力は、㈠話されたことばを聞いてわかる、㈡自分でも話せる、㈢書かれたことば、つまり文字が読める、(四)自分でも書ける、という順序で発達していきます。
    一つか、一つ半くらいで、自分ではほとんどなにもいえない子でも、おとなのいうことは、驚くほどよくわかっていますし、四、五歳で、字はぜんぜん読めない子でも、話してやると、かなりこみいった、長い話でも、ちゃんとわかってたのしめるものです。
    ですから、たとえ字を少しおぼえたといっても、四、五歳から、おそらくは十一、二歳くらいまでの子どもでは、話されたことばを聞いて理解する能力のほうが、書かれたものを読んで理解する能力よりも、ずっと先を行っていると考えてよいでしょう。
    ということは、もし、この時期に、まわりにいるおとなが、少しも本を読んでやらず、もっぱら子どもが自分で読むということになると、その本は、「書かれたものを理解する能力」つまり、その時点では、その子の能力の幅のうち、低いほうに焦点を合わせて、選ばなくてはならなくなります。(中略)ひとつ、ひとつの活字を識別し、それをことばに、文章にとつなげて、意味をつかむという苦労をした割には、心が躍動するような、たっぷりと満足のいく経験をすることができないことになります。自分で楽に読める本は、内容的に物足りないし、ほんとに自分を堪能させてくれるような本は、読みこなせないというジレンマに陥るわけです。
    読む力が、聞く力に追いつくまでのこの時期は、本というものに対する興味や信頼をつなぐ意味でも、知的にも、情緒的にも、子どもの中の、いちばん高い、いちばん発達した部分を刺激するためにも、おとなが本を読んでやることはよいことだと思います。

    p94…わたしは、根本的には、お話ーー文学ーーが、わたしたちに、何かを教えてくれるものだと考えています。しかし、それを、「うそをついてはいけません」「人には親切になさい」というように、直接、生(ナマ)の徳目として教えこむのでなく、たとえば、うそをついたことによっ
    て、こまった破目におちいった人の姿を、
    あるいはおもしろおかしく、あるいは真に迫って描き出すことにより、それを聞き、
    読む人の心を動かし、その成長を助けるという形で教えるところに、文学の力があるのだと思っています。
    (中略)お話のよさ、お話の強みは、エパミナンダスを例にとれば、主人公の姿を、いかにもこっけいに描くことによって、聞いている者を思わず笑わせてしまう点にあるのです。このように、話にひきこまれ、心を動かされた子どもたちは、いつしか、自分の中の同じ愚かさを笑うことのできる人間に育っていきます。お話が教えるのは、こういうやり方によるのです。
    ですから、お話ーー本を考えるとき、肝心なのは、それがどれだけうまく子どもの心を中にひきいれ、たのしませ、動かすかということであって、すぐ目につくところに徳目のレッテルがはってあるかどうかは、問題ではありません。それほど、教訓が気になるなら、本などというまわり道をとらず、よい教えを紙に書いて、子どもの机の前にはり、朝に夕に、それをお題目のようにとなえさせればいいでしょう。本の役割も、本の力も、本のよさも、性急な教訓主義より、ずっと奥深いところにあるのだということを知ってほしいと思います。

    p125…今の子どもは、総じてよくものを知っています。それも、いわゆる科学的知識を身につけるのが、驚くほど早いようです。テレビなどのおかげで、別にとりたてて努力をしなくても、その種の情報がふんだんに得られるということかもしれませ
    ん。しかし、小さいときから、たくさんのことを知っているというのは、それほどいいことでしょうか。
    この間、アメリカのある精神分析医ーーこの人は情緒障害児の治療に当たっている人らしいのですがーーの書いた「昔話のすすめ」とでもいうべき論文を読んでいたら、おもしろいことが書いてありました。大人は、昔話の中の魔法や、超自然的な要素を「うそ」だと見なし、科学的に正しい説明をしてやれば、子どもに物事をはっきりさせてやったと思うかもしれないが、そうした説明が意味をなすためには、子どもの側にある程度の抽象能力がなければならない。それがなければ、科学的な説明は、かえって子どもを混乱させるというのです。
    この人は、幼い子どもにとっては、地球が宇宙空間に浮かんでいるというよりは、神話にあるように、大きなカメの背にのっているとか、巨人が肩で支えているという説明のほうが、ずっと満足がいくのだといっています。なぜなら、それだと、実生活で子どもが経験している事実、すなわち、ものは何かの上にのせるか、支えるかしないと落ちるという事実に照らして納得できるからです。
    もちろん教えれば、子どもは、引力だの、地球の自転だの公転だのというようになるだろうが、それはオウムのように言われたことをくりかえすだけだ。十分に知的に成熟していないうちから、子ども自身が見聞きし、知っている事実を裏切るような説明を信じるように強いられると、子どもは、いつしか自分の経験、自分の心の働きに不信を抱くようになるとこの先生はいいます。
    わたしが思うに、幼い子に科学的知識を押しつけることのいまひとつの弊害は、だだ月から地球までは何キロメートルあるとか、月は何でできているといった事実だけの知識は、知ってしまえばそれでおしまいで、それ以上の発展も拡がりもないことではないでしょうか。
    月を擬人化した物語なら、いくつも考えられますし、物語は、ひとつしかない事実を求めるのとは違いますから、別の物語は捨てなければならぬといった制約はありません。もともとが想像力の産物である物語は,それを読んだり聞いたりする子どもにも、想像の世界の中で、心を自由に解き放つようにさそうでしょう。
    しかし、ただ知っているというだけの知識は、子どもの心を動かすことはないように思います。とくに、自分とはまるっきり関係なく、個々の事実だけをおぼえこむという形で身につける知識には、なんの喜びもないのがふつうです。もの知りなのを自慢するか、まわりの大人に感心されて味わう満足以外には。
    日常生活の中で実益があるわけでもありません。天文学の知識を応用して何をするなどという機会は、めったにないでしょうから。それでいて、E君の例のように、「お話をたのしむのをさまたげる」という実害があります。
    E君の場合は、まだお話の本も読んでもらいたがりますし、たのしみもしますけれど、わずかの科学的知識をふりかざして、空想的な物語を頭からうそと決めつける子。ふしぎなことをふしぎとも思わない子。なんでも「そんなこと知ってる」と片づける子。新しいことに出会っても驚かない子。(「ああ、○○だろ。テレビで見たよ。」)はては、新しいことを知りたいとも思わない子、等々がいたとしたら、それは大問題です。
    ものを知りたいという意欲、知ることの驚きや喜び、知らないものに対する畏れは、
    人間を成長させる力の中心なのですから、ものを知りすぎて、こうした心の働きが弱くなっている子は、成長への道が閉ざされているようなものです。
    あるロシアの昔話の中で、おそろしい魔女のいうことばに「人間、ものをたくさん知れば知るほど、早く年をとるものじゃ」というのがありますが、その通りです。
    わたしは、子どもに本を読ませることを仕事にしている者ですが、それは、子どもが知りたいと強く願ったときに本が答え、子どもがふしぎを感じるときに、本がさらにその奥行きを深くしてくれると信じるからで、何がなんでも本さえ読めばいいというのではありません。もし、本が、子どもの中に「なんでも知ってるよ」といった態度を育てるほうに加担しているとしたら、むしろ本は読まないでほしいと思っているくらいです。
    わたしが今いちばん心配しているのは、社会のさまざまな動きが作用して、子どもの心から、子どもが本来もっているはずの、いきいきした生命力を失わせようとしているのではないかということです。このような状況の中では、絵本や本との結びつきを考える上でも、そこだけを見ないで、子どもが全体として、そうしたいきいきした力を失わずに育つためには、絵本が子どもにどうかかわったらいいかということから考えていかなければならなあと思います。また、いきいきしていないと、絵本や本と、ほんとうにかかわりをもつことはできないともいえます。
    みなさんのお子さんは、いきいきしているでしょうか。驚いたり、ふしぎがったりしているでしようか。自分で動き、さわり、遊び、つくり、じっと見、じっと聞くことをしているでしょうか。心はテレビに預けっ放しの、ただのものしりになっていないでしょうか。字だの絵本だのという前に、まず確かめておきたいのです。子どもたちは絵本を読むには年をとりすぎてはいないでしょうか、と。

    p130…先日、五つになるC君が入会の手続きをしましたが、名前がまだ書けず、そのかわり、小さな丸印をひとつ記しました。(中略)でも考えてみると、最近は、名前の書けない子がへってきました。(中略)C君のような例は、だからこのごろではめずらしく、そういう子が、まっすぐにこちらの目を見て話をし、並んでいる本にも子どもらしい好奇心を示すのを見ると、わたしなぞは、むしろその子を尊敬する気持になります。そして、この情報過剰、早熟促進の風潮いちじるしい世の中で、この年まで、子どもを文字から守って(?)いらしたご両親にも尊敬の念を抱きます。
    というのは、これは理屈でもなんでもなくただ漠然としたわたしの感じですが、わたしは、人間は、文字を自分のものにするとき、それとひきかえに、何か大事な別な能力を失うのではないかと思うからです。古代の長大な叙事詩を幾世代にもわたって正確に語りついできた人々、仏教が生まれた当初、多くの経典を口ずから伝えた人々、この人々には、むしろ今のわれわれから見ると超能力としか思えないような力があったのではないかという気がします。
    もっと身近にも、田舎のお年寄りなどで、字は読めなくても、いつ、だれに、どんなことが起こったかを驚くほど克明に記憶している例は数多くあります。そして、それは単なる記憶力ということではなく、もっと別な能力、いってみれば、自分という人間に、経験を刻みつける力のような気がしてなりません。こういう人たちが、何十年も前のことを、まるで今見ているように生き生きと話すのを聞くと、過去がまるでウヤムヤにくずれて消えているような自分と違い、その人たちにとっては、時が、うんと手応えのある確かな流れとしてとらえられているのだろうという気がしてきます。人間は、文字を識ることによって、人類全体としては、飛躍的に知識をふやしたものの、ひとりひとりとしては、ある種の能力を失う結果になっているのではないでしょうか。
    文字とひきかえに失うのは、そうした特殊な能力や感覚だけではありません。何事によらず、わからないことにはおそれがついてまわるものですが、文字の読めない子は、本や絵本に対しても、あるおそれーー恐怖ではなく、不思議さ、あるいは漠とした尊敬の念ーーを抱いているのではないでしょうか。大人が本を読んでいるのも不思議でしょうし、白いページの上に黒いものが並んでいるのを、大人が「読ん」でくれると、たちまち絵の中の動物たちが会話をはじめたり、うたをうたったりしはじめるのも不思議でしょう。
    このごろたまにある文字のない絵本なども子どもは「読んで、読んで」とせがみますが、それは、その子にとって「読ん」でもらうことによって、はじめて物語が動きはじめるからではないでしょうか。この年ごろの子どもにとっては、ことばは——ましてや文字は——一種魔法のようなものなのではないかと思います。
    ところが、文字を識ってしまいますと、その不思議の感じは失われます。もちろん、人は、いずれは文字を学び、文字に対してもおそれは抱かなくなってしまうものですが、問題は、その時期でしょう。
    あまりにも早く——というのは、文字に対する好奇心やあこがれ(?)を抱くより以前に文字を教わると、そのことで知的な視野が急に開けていくような喜びはないでしょうし、学ぶ喜びがないことは、他のことを学ぶ態度にも、悪い影響を与えるのではないでしょうか。子どもにとっては、学ぶことが仕事である時期がかなり長いのですから、このことは、大きな損失だといえます。
    また、幼い子は、文字をおぼえたからといって、実質的な益を得ることもありません。その前に、ことばを使って生活する基礎——人のいうことが理解でき、自分の要求や気持をことばで表現でき、また、ことばだけである程度ものごとが考えられたり、想像できたりといったこと——ができていないと、新しく獲得した文字が、飛躍的に子どもの世界を拡げたり、豊かにしたりすることはあり得ないからです。
    しかも、早く(二つや三つで)文字を教えようとすれば、必然的に「あ」という形は、
    「ア」という音と結びついているということだけを教えることになってしまいます。大人は、これだけをさして「読める」といいますが、文字を発音することができることから,本が読めることへは、かなりの道のりがあるのです。大ざっぱに考えても、まず書かれていることがらを理解すること、その情景を心に思い描くこと、それをそれまでに起こったことと関連づけてとらえ、これからの予想へとつなげていくこと。そうしたことが全部できなければ、
    読むことができて、はじめてその人の力になるのではないでしょうか。
    わたしは教育の専門家ではありませんし、子どもに文字を教えることについて経験があるわけでもありません。しかし、読書という面から子どもを見ていて、絵本期の子どもが文字を学ぶのがそれほどいいこととは思えません。ふりがなさえふってあればどんな本でも読めると思っている子に出会ったりすると、むしろ文字を知っていることの害さえ感じます。ですから、先日ある本の中に次のような個所を見つけたときには、思わず「その通り!」と叫びたい気がしたのです。文字をいつから教えはじめればよいかについてですが……

    子どもが音の性質や意味の関連を体験できるようになるまでには、ある年数の内的成長が必要である。その成熟を待たずに文字というものを教えこむと、その読み書き能力はただのテクニックになってしまうおそれがある。その種の早教育でなされている
    「学習」というプロセスは、たんに記号と音とを反射的にくみあわせていることでしかない。子どもは、しだいに、内的な理解なしにこのくみあわせ作業を習得することになる。そういう習性は子どもの思考·情操面での成長をさまたげるから、けっして近視眼的な早教育を行なってはならない。
    文字を教えてよい前提となる成長段階、それは子どもが目の前に存在しない事物にっ
    いても記憶とイメージをもって理解することができ、自分の心の動きがとらえられ、自分の意志を状況に応じて実行にうつすことができるときであり、これがだいたい満七歳前後になる。

    これは、あるひとつの教育理念に基いて独特の学校教育を展開している、ルドルフ·シュタイナー学校の、読み書き教育に関する基本的な考え方のひとつで、ドイツを中心にヨーロッパの各地に広まりつつあるシュタイナー学校のひとつに娘さんを学ばせた、子安美知子さんの記録(『ミュンヘンの小学生—娘が学んだシュタイナー学校—〈中公新書〉子安美知子著 中央公論社』)の中に出て来たものです。

    p216…社会的にも、今までの時代に比べれば、富の絶対量が飛躍的に増大したばかりでなく、その分配が、かなりの程度公平になって、全体として、前の時代の人々より、物質的に豊かに暮らせるようになった。機械のおかげで、労働の苦痛からも、ずいぶん解放された。また無知からくる恐れや不幸からも、ずいぶんと救われるようになったということがあります。
    わたしは、とくに精神病者の扱いなどということを考えると、今の時代になって、ほんとによかった、という気がしてならないのです。この間も、ドロシア·ディックスという、精神病院の改善に、非常に大きな働きをしたアメリカの女の人のことを本で読んだのですけれども、1840年代といいますから、今からつい百三十年ほど前のことですけれども、この人が見た精神病者の収容所では、患者は、檻の中に、はだかで鎖につながれていれられて、なわや鞭でたたかれ傷だらけになっていたと記されています。無知のために、精神や身体に障害をもつ人々が、これまでどんなにひどい偏見や仕打ちに甘んじなければならなかったかを考えると、科学的な知識が増すことによって、わたしたちがこうした迷信やら、偏見から解放されるようになったということは、ほんとうにありがたいことだと思います。そして、ドロシア・ディックスのような人々のたいへんな努力によって、今、わたしたちは、少なくともその当時よりは、より人間的な、といいますか、人道的な扱いを、こうした障害をもつ人が受けることのできる社会をつくりあげたといえるのではないでしょうか。
    実際、今の時代は、いろんな点からみて、人間が今までこうありたい、こうしたいと願ってきたことが、かなりの程度実現して、これまでにないほど幸せになった時代といってもいい。念願の「脚」を手にいれたといってもいいんじゃないか、と思います。
    が、ご承知のように、わたしたちは、はや方々で脚の痛みを感じ始めています。わたしは、ケネス·ボールディングの「二十世紀の意味」という本が好きで——好きでというのはおかしいですね、この本から教えられるところが多々あって——折にふれて読みかえしているんですが、この人は、歴史を、大きく三つに分け、文明前の時代、文明の時代、文明後の時代というふうに呼んでいます。そして、二十世紀を、文明の時代から文明後の時代への転換期というふうにとらえていて、人類がこの転換を見事になし遂げて、文明後の時代に生き残れるためにはいくつかある落し穴をうまく避けなければならないということをいっています。この落し穴というのは、たとえば、核戦争の危険、人口の爆発的増加、エネルギー源の消滅などですが、それといっしょに、ポールディングは、人間の精神といいますか、人間性が堕落し、退廃する危険についても述べています。古来、人間は、非常な富や権力をもち、もうこれ以上苦労しなくてもよいという状態におかれると、必ず堕落したというのですね。だから、社会全体がよくなって、大半の人が、昔の貴族のような暮らしができるようになったら、人間の精神がたるんで、低い方へ低い方へと落ちていきかねない。虚無や退廃に陥り
    かねない。そうなれば、他のすべての落し穴をたといさけることができたとしても、やはり人類は生き残れないだろう。文明後の時代に生き残るためには、精神圏に変化を起こさなければだめだということをいっています。
    生活が豊かになったが故に、精神に起こるマイナスの変化——これは、やはり「脚」の痛みといっていいでしょう。のぞんで来たものを手にいれたがために、人間は、全体として、そのことからくる痛みを味わっているのです。目的の喪失、全般的な疎外感、刹那的なものへの傾倒、麻薬やセックスへの逃避など、こうした痛みは、今日の社会のいたるところに見られる現象です。
    ところで、今述べてきた「尾と脚」の問題を,今日の子どもにあてはめて考えてみると、どうでしょうか? わたしは、今の子どもは、最初から脚をもって生まれて来ている。そして、そのおかげで、その痛みも負わされている、という気がしてなりません。たとえば,医学の進歩のおかげで、出産時の生命の危険が非常に少なくなったこと。衛生や栄養の状態がよくなって乳幼児の死亡率がうんと下がったこと。のちに大きな障害になるような身体や精神上の症状が早く発見されて、予防の措置がとられるようになったこと。またよしんば障害がある場合でも、特別の教育がなされるよう大きな努力が払われるようになったことなどがあります。また、児童憲章や、児童福祉法などという法律もできて、社会的にも子どもは手厚く保護されるようになりました。身体が小さいから都合がいいというので、炭坑のいちばん深い、せまいところで、朝から晩まで働かされるといったことや、親の勝手で売り買いされるといったこともなくなりました。
    こう考えて来ますと、子どもたちは、今までの時代に比べたら、ほんとうに幸せになった、といえます。けれども、一方、たとえば、わたくしのところの小さな図書室にやってくる子どもたちを見ていても、今の子どもたちは、わたしたちの子どものころと違う、いや、わたしがこういう仕事を始めた十年余り前の子どもと比べても、ある違いが出て来た、という気がします。そして、それは、好ましい変化とはいえないのです。このことについては、あとで、もっとくわしくお話することになると思いますが、ともかく、子どもの暮らしがいそがしすぎて落着いていられないらしいこと、本に限らず、何にしても以前の子どもほどお
    もしろがらないことなどが見ていてわかります。
    ごく幼いときから、わたしたちがふつう子どもとは正反対の極において考えること、たとえば退屈とか、投げやり、無関心、といった態度を身につけてしまっている子もいるし、何もかもわかってるような、そして、実際、驚くほど物知りな、おとなみたいな子どももいます。学校の先生方や,保育園の保母さんたちの報告などを見ましても、こうした例はいくつも出て来ます。
    そして、子どもの場合、このようにして、
    いわば「脚」をもつ痛みを、さまざまな現象として見せながらも、子ども自身は、けっしてそれを痛みとしては感じていません。そして、実は、そのことに、もっとも深い不幸があるように、わたしには思えます。さっきあげた、いくつかの好ましくない子どもの変化は、わたしが思うに、これは多分にテレビの影響だといえるのですが、それにしても、子どもは、何もテレビが欲しい、テレビのある世の中に生まれたいと思って生まれて来たわけじゃない。尾っぽはいやだ、脚がいい、と思っていたわ
    けじゃない。生まれてみたら、テレビがあった。生まれてみたら、尾ではなく、脚がついてた、というわけです。ところが、いったん生まれてみると、もう否応なしにその影響下におかれる。そして、あまりにも早くから、そういうものの刺激にさらされてしまったために、子どもとしての活力というか、生命力というか、たとえば好奇心、探求心、ふしぎなものに対するおそれやあこがれ、といったものまで失ってしまう。そして、自分たちが、そういう、いわば不自然な育てられ方をしているということについて、子ども自身は何ら自覚していない、ということになるのです。
    ここで、もうひとつ、「人魚姫」の物語から考えられるのは、お姫さまが脚の代償として払った声の問題です。人魚のお姫さまは、脚のおかげで、脚ができたからこそ、愛する王子さまのそばにいられるようになったわけですけれども、皮肉なことに、せっかくそばにいられるようになったのに、そのときには、愛を打ちあけるべき声——ことばを失っていた。その人と心を通わすことこそが、姫にとって最大ののぞみであったのに、その機会を得るために、思いを伝えることばを犠牲にしなければならなかった。これは、実に、大きな皮肉です。
    そして、話を現代の子どもにもどせば、子どもたちは、物質的にもいちばん恵まれ、人権とか教育の機会とかいった面でも、いちばん望ましい状態に生まれてきて、さて、そこで、精神的にいちばんはつらつとして、幸せになるかというとそうでない。外部の制限からは解放されているにもかかわらず、自分の内部にある力が弱くなって、その条件を十分生かせないということ。これは、ことばを失った人魚のお姫さまの悲劇に通じる皮肉です。
    こうした皮肉は、今日のわたしたちの暮らしの中には、実に無数に見られるのではないでしょうか。社会のあり方や、生活の様式が、ここのところへ来で急激に変わりましたから、わたしたちの暮らしには、それと知らずに失ったものがたくさんあると思います。楽、とか便利とか、物質的な豊かさの代償として、あまり意識せずに支払ってしまったものがです。
    そして、何かどこかおかしい、しっくりしない、いけないというようなことが出て来て、一方まったく新しい、時代の先端をいくような学問が、実はわたしたちが思い切りよく捨ててしまったものの中に、人間にとって大事なものがあったんだというようなことをいいだす、そういうことが、いくつも今の世の中には出てきていると思います。まったく皮肉な話です。

    p238…ことに、幼児をおもちのお母さん方の集りなどでは、あまりあわてて、やれ絵本の本のといわないでほしい。それよりも、子どもが、よく遊んでいるか、いろんな経験を生でしているか、「お話して!」
    とか「本、読んで!」と、自分からねだるような状態か、ということに、もっと気をつけてほしい、問題は、本さえ読んでりゃいいということではけっしてなく、子どもが健康に豊かな精神をもつように育っていくために、本がその本来の役を果すかどうかなのだから、ということを申し上げています。
    もちろん、わたしは、子どもが本を読むことは、大事なことだということは信じています。この信念は、変わりません。石井桃子さんは、「子どもの図書館」のまえがきで,「私は,この本を書くにあたって、『これからの子どもは、いままでの子どもに
    くらべて、本を読まなくてもいいのか、または、本を読まなければいけないのか』という点では、『読まなければいけない』という立場をとりました。」といい、その理由をいろいろ説明して、こういっています。
    「子どもが、本(文字)の世界にはいって得る利益は、大きく分けて二つあると思います。一つは、そこから得た物の考え方によって、将来、複雑な社会でりっぱに生きてゆかれるようになること、それからもう一つは、育ってゆくそれぞれの段階で、心の中でたのしい世界を経験しながら大きくなってゆかれることです。」
    ついでながら申しますと、中野重治氏は、石井先生のこの文章について、「本とつきあう法」という本の中で、こんなことをいっていらっしゃいます。

    石井桃子の『子どもの図書館』というのを見ると、「私は、この本を書くにあたって、『これからの子どもは、いままでの子どもにくらべて、本を読まなくてもいいのか、または、本を読まなければいけないのか』という点では、『読まなければいけない』という立場をとりました。」と書いている。私は賛成する。事がらとして贊成するが、それとともに、あるいはそれ以上に、石井のこの書き方、そのいさぎいい書きざま、その美しさに賛成する。そこが楽しい。楽しいのでなければ、簡単にいって仕方がない。

    そして、わたしは、中野重治氏に「賛成」し、「そこが楽しい」と思います。
    ま、今のは余談ですが、本を読むことが、子どもの時代をたのしく生きるためにも、おとなになってから、その人がよりよく生きるためにも、必要なことだという、さきほどの石井先生のことばは、たいへん単純、卒直に、また何でもないふつうのことばで、書かれているために、人は、さーっと読み流してしまうかもしれませんが、このことばには、たいへんな重みがかかっている、このことばの奥には、たいへん根本的な、大事なことがある、とわたしは思います。
    社会が今進んでいる方向へどんどん進んでいくとしたら、人が本を読さなければならない必要は、今までよりもっともっと大きくなるでしょう。(中略)今、わたしたちは、かなり安易に「昔は、よかった」などということを口にします。手づくりなどということをもてはやし、村の暮らしの古いしきたりや、人情のこまやかさ、身のまわりにあった自然、などについて、なつかし
    さをこめて語ります。たしかに、人間が自然のふところに抱かれて生き、親密な、暖い人間関係を保っていられたことは、幸せでした。「昔は、よかった」のです。
    けれども、だからといって、廻れ右して、すぐもとへもどれるかというと、そうではありません。(中略)
    子どもということを考えるなら、今、子どもたちが置かれている状況の中でも、精いっぱい子どもにとって望ましい状態を回復する努力をしなければいけないでしょう。子どもが、くたびれ、退屈し、あるいはむやみにいそがしがっているという状態がよくないことは、どう見てもわかっているのですから、それでは、もっと子どもが、自分からすすんで何かに手をのばすという状態をつくるには、どうすればよいかを考えなくてはなりません。
    子どもたちに、外へ向かって働きかける力がないというのは、最初から過剰な刺激が与えられすぎているからだと考えられますから、最大限の努力をして、子どもたちを過度の刺激から守らなければいけない。これは、たとえば、具体的にいうと、半時間でも、1時間でも、テレビを見る時間を少なくするというようなこと。おもちゃなんかにしても、精巧な、すっかり出来上がってしまったものを与えるというのでなく、素材のようなものを与えて、子どもがそれに働きかけて遊ぶことを促すようにする、といったことです。
    子どもをあまりいそがしくしないということも、必要でしょう。親がかまいすぎないということも、大事でしょう。とにかく、子どものまわりを、もっと静かにして、もっとたっぷりした空間をとって、もっと放っておいて、子どもが、本来もっているはずのバイタリティを発揮して、自分から外に働きかけることができるようにしてやらなければなりません。
    こういうことは、昔なら、放っておいてもそうなったというような事柄かもしれません。ラジオやテレビがなかったころは、わたしたちの生活は、今では考えられないほど静かだったでしょうし、住宅事情も、環境も、今よりはずっとゆったりしていたし、お母さんは大勢の子どもをかかえて、掃除、洗濯、炊事と大いそがしだったから、今のように、一から十までねめまわすように子どもを見ていられなかった、というわけです。
    (中略)そして——ぐるぐる話がひとめぐりしてきたようですが、精神圏に変化を起こす、つまり人間ひとりひとりの頭の中身を変える——新しい事実を示し、それについての判断の基準になる知識を与え、なおかつ少しでも善の方向へ、人間の幸せの方向へ向かって努力しようという人生態度を支え励ます——のに、書物ほど、それに与って力のあるものがほかにあるでしょうか?

  • 2017.1月。
    子どもと本と言葉について、とてもわかりやすく書かれていて、とても勉強になる。根っこの部分にしっかり入れておきたいことばかり。
    今の何でも過剰に溢れている時代は、子どもが子どもらしくいられるように、大人がしっかり気をつけてないといけない。
    本物の言葉と経験を。
    本物のコミュニケーションを。
    豊かな物語を。
    豊かな心と人生を。

  • 海外で児童図書を学び、実際の経験から「子どもと本」をわかりやすく 教えてくれています。

    自分と重ね合わせて 納得のいく、そして心にとどめたい1冊でした。
    職場の子たちにも勧めたいです。

  • 配架場所:1F電動書架A
    請求記号:019.5||Ma 86
    資料ID:W0139096

  • 児童サービスの基本図書とのことで、図書館で借りた。

    新聞や雑誌に掲載され、講演された、子どもと本と読書と図書館に関するはなし。

    ・ユーモアのセンスを育てる
    ・本は特効薬ではない
    ・「絵本の字の部分は、原則として(傍点付)、おとなが読んでやるもの」
    ・絵本の評価はたのしみ(pleasure)、よいストーリー(「子どもたちの興味や理解能力から離れないところで、ひとつの課題が示され、それが導き手となって、ものごとが秩序だって、首尾一貫して進展していき、満足のいく形で解決するストーリー」)
    ・単純かつ素朴に読むこと
    ・①子どもたちのまわりに静けさをとりもどす、②ことばに対する飢えをとりもどす、③おとなが話しかけることばもできるだけ節約する、④できるだけ実生活の体験をさせてやる、⑤お話をしてやる

    勉強になります。
    やっぱり、よめることとわかることは違う。
    ことばはそれまでの経験と結びつく。
    響くことばは、語り手のなかにあり、子どものなかにもあることば。
    音楽と似ている。

  • 勉強用。

  • 心の中にひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中にサンタクロースを収容する空間を作り上げている。沢山の不思議の住める空間をたっぷりとってやりたい。これは子ども相手の図書館員さんに読んで欲しい本。

  • サンタクロースを信じることのできるのは子どもの頃のわずかな時期。その時にサンタさんを信じることができることが、その後のその子の目に見えない世界を信じる力『想像力』に関わっていく・・・。と著者は冒頭で述べている。なるほど!である。サンタクロースを信じる貴重なこの時期に、親としてこのタイミングをのがさず、絵本からゆくゆくは読書につながる役目を考える本として、今の時代にも十分説得力を感じる。

  • サンタクロースを信じるという経験によって、その子は目に見えないものを信じるという心を養う。

    何度でも読み返したい一冊

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