山水思想: もうひとつの日本

著者 :
  • 五月書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (452ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784772703802

感想・レビュー・書評

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  • ***以下抜き書き**

    ・私は寡聞にして、雪舟の日々を描いた小説もドラマも映画も知らない。
    そこには能や茶や花の、会所や書院や床の間の、あるいは金春禅竹や日親や一条兼良や飯尾宗祇の、それぞれの魂をしぼりとったような変成の物語があったのに、われわれはそれをいまだドラマとしてはうけとっていないのだ。澤ふじ子が『花僧』で池坊専応の生涯を、『闇の絵巻』で長谷川等伯の生涯を描いたのがめずらしい例だろうか。
    むろん研究はある。そうとうに充実もしている。それだけにもったいない。
    私は十五世紀の日本人をもっと深く知ることが、戦国武将や幕末の志士に沸く以上に必要なこととおもわれる。いまのところは、せいぜい世阿弥と日野富子と、一休と蓮如に人気があるくらいなのだ。これはもったいない。十五世紀は、今日の日本文化の原型をつくった端緒の動きだったのである。応仁の乱という京都を焼け野原にした内戦をはさんだ創発的世紀だったのである。

    ・話はちょっと変わるが、日本文化の特質を見抜くのに「囲い」に注目するとよいということがある。「囲い」という言葉は茶の湯に詳しい者なら知っているだろうが、茶室のことをいう。しかし、それはのちにそう通称されるようになったことで、もともとは幕や屏風などを立て回すことが「囲い」だった。この「囲い」の感覚が日本文化の特質を読み解くにも、日本の空間デザインを理解するうえでも鍵になる。なぜなら「囲い」はあくまで仮説的であって、にもかかわらず、その仕立てによってその内側にいっときの別世界が出現するからである。

    ・このときに、日本はヨーロッパの受け入れ方を決めたのだ。
    日本の西欧感覚というものは、長崎に出島ができたときに生まれたものでもなく、明治維新で決まったのでもなく、森有礼のローマ字導入論や福沢諭吉の脱亜入欧で決まったのでもない。信長がフロイスをおもしろがったときに決まっていた。
    そう、見るべきである。

    ・しかし、ヨーロッパが風景にメトリックを持ち出さなかったのかといえば、むろんそんなことはない。すでに古代ギリシア期に、風景のメトリックはある意味では風景画以上の成果として、すなわち幾何学として構成されていた。ピタゴラスからユークリッドにおよぶ幾何学の系譜は、風景が抽象の対象であったことを、風景がカウントできる対象であったことを如実に物語る。風景は比例構図そのものとして見えたのだ。
    そのようにとらえてみると、ルネッサンス期のデューラーのような幾何学に長けた画家がヨーロッパで最初に風景画を描いたという顛末がたいそう象徴的におもえてくる。逆にいえば、すでに科学史家ヨゼフ・ニーダムが指摘していたことでもあったが、中国文化はユークリッド幾何学をつくれなかったぶん、風景を山水画にすることができたのである。

    ・中国の書は直筆を中心にして骨格をきずいてきた。草書や狂草であっても骨格は尊重する。
    これに対して道風は傾筆や側筆をつかった。筆先を料紙にむかって斜めに傾いて入れて、動かしやすくした。また筆毫がふわりと開くのを楽しむように、料紙との接触が自由な幅をもつことを許すようにした。そうすることで、筆が紙と微妙に戯れて、そのつど発する水暈墨章がおもいがけなく動く様子をそのまま残すかのような文字の風情が生まれた。文字は時に大きく、時に小さく、時に速くあってもよく、また時に滞って滲み、時に濃く、時には擦れてもよくなったのだ。
    これは、あきらかに初の和様漢字の誕生、すなわち書における「日本流」の第一歩だったのである。水墨画でいうなら、余白の誕生でもあった。

    ・それでは、なぜわれわれは「枯れること」をこんなにも興味深くおもってきたのだろうか。いったい「枯れる」とか「涸れる」とは、そもそも日本人の美意識や生き方の何か本来的なことを告げている現象だったのか。
    そこで言わなくてはならないことが、ある。
    たとえば芭蕉が「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」と詠んだのは、芭蕉にして初めてなしえた「枯野の発見」ではなかったということだ。われわれはずうっと以前から枯野に夢を走らせてきたにちがいないということだ。
    案の定、「枯野」はすでの王朝の襲の色目の名にもなっていた。表は黄色で裏を薄青色にして、これを冬に着たときの色である。

    ・そこへもってきて、和歌の詩歌の組み合わせの最後の最後に「無常」と「白」をおいた。この選択は中国ではない。当時の日本の社会感覚であって人生感覚なのだ。だいたい中国では「無常」という概念は日本人のようにはもっていないし、その無常を「白」につづけるという感覚もない。中国の「白」はもっと清冽である。
    公任は、「無常」を「白」につなげて「常の世」を否定したわけでもなく、無化したわけでもなかったのだ。そのつながりぐあいを、「こぎゆく舟のあとの白浪」に代わってもらったのだ。

    ・近代短歌はともかくも、モダンな現代短歌などが日本的山水なんて詠んでいるはずがないと早合点しないでほしい。たしかに多くはない。都会や日常の光景や心境を歌っているもののほうが断然に多い。しかし、よく見ていると、それぞれの歌人が自分の山水をどこかで歌にしている。そこに「山水」という文字は見えなくとも、あきらかにここには日本の歌人たちの山水感覚が見えている。
    しかも、それらの歌はその歌人が他の歌ではさまざまな心境や対象を詠んでいるにもかかわらず、こと山水感覚を詠んだ歌にかぎっては、なぜか日本的なのである。今日にいたる日本人の山水感覚が詠まれているとおもえる歌が、けっこう多いのだ。
    のみならず、ひょっとするとこの短歌群はこれまで私の言いたかったことも、横山操が言いたかったことも、どこかで暗示してくれているとさえいえる。私のノートから適当に何首かの短歌を抜いてみた。

    いくばくもあらぬ松葉を掃きにけり凍りて久しわが庭の土 (島木赤彦)
    山はやく月を隠せば大空へ光を放つ琵琶のみづうみ (与謝野晶子)
    かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川 (石川啄木)
    この山はたださうさうと音すなり松に松の風椎に椎の風 (北原白秋)
    石越ゆる水のまろみを眺めつつこころかなしも秋の渓間(たにま)に (若山牧水)
    自然がずんずん体のなかを通過する――山、山、山 (前田夕暮)
    尾根に来てそらに息せんうごかざるアルカリいろの雪よかなしも (宮沢賢治)
    多摩川の清く冷たくやはらかき水のこころを誰に語らむ (岡本かの子)
    天なるや群がりめぐる高ぼしのいよいよ清山高みかも (斎藤茂吉)
    武蔵野の冬の林のあかるさよ落ち葉ふむ音はいのち生くる音 (上田三四二)
    山河はただに霞みてはるけかり手をあぐれども歌ながせども (斎藤史)
    山河あり青き葦ありここよりぞ暗き人呼ぶ蛍を放つ (山中智恵子)
    北一輝その読みさしのページ閉じ十七歳の山河をも閉ず (寺山修二)
    魂魄の雪ふるかなた雪みんとただそれだけの旅より帰る (辺見じゅん)
    どうしても会わねばならぬひとのため煙たなびく山をみておる (福島泰樹)
    ゆく河の流れを何にたとえてもたとえきれない水底の石 (俵万智)
    秋水のみなもと深きむらさきに去りしあやめの声を聞きたり (水原紫苑)

    ・その紙はタブラ・ラサではない。
    そこに書きこめば何かが主張できるというものでもない。余白そのものがすでに有韻の詩であって、有墨の画というものなのだ。板崎乙郎の父君であった板崎坦は昭和十七年の『日本画の精神』に、「この白紙をさへ描写以上の描写とする尊むべき省略法は日本画独特の技法であり、又この中にこそ本邦画論創始者の思ひ入をふくますべしといふ意味が潜んで居るのである」と感想をのべていた。
    「白紙ももやうの内なれば、心にてふさぐへし」。
    似たようなことは『本朝画法大全』の土佐光起も書いたものである。「心にてふさぐへし」とは、実は天心が「故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させる」と言った、あの言葉とまったく同じ意図である。天心はフェノロサにふりまわされることなく、文人画にも注目すべきだったのである。
    しかしこうした過誤があったにせよ、それでもなお、われわれはフェノロサや天心の壮挙の意図をもっと正確に知るべきだったのだろう。明治には明治の冒険があったのだ。
    かつて長谷川三郎が昭和二十五年の「国華」七百号記念の雪舟特集号にこんなことを書いたことがある。イサム・ノグチがこう言って譲らなかったというのだ。「もう一度、フェノロサと岡倉が出なければ、日本の芸術は亡びてしまう」。
    私は、いまさらそうは言うまいと思っている。
    その代り、「藤の実は俳諧にせん花の跡」。

    ・私は、ずっと方法に関心をもってきた。主題ではなくて、方法だ。
    事態や趣向を実際に動かしたもの、それが方法である。主題はなにも動かさない。世界平和・環境保全・飢餓絶滅・経済成長といった主題はだれも反対しないかわりに、なにも動かさない。むしろ、方法が主題を包摂し、包摂された主題が方法によってその内側に頑なに閉じていた内実をひらく。したがって、方法はいつも何かを連れてくる。方法にはいつも「連れ」がいる。

    ・しかし、方法は体験の渦中にいるときは掴めない。また、その逆に、方法は自分の外にとりすまして道具箱に収まっているものでもない。
    方法は、何かの「連れ」をともなってわれわれの周辺にたえず出入りするものなのである。それは日射しや驟雨のようなものであり、能の間拍子のようなものなのだ。そして、出入りがはじまったとたん、われわれはそれが方法であることを、「連れ立ち」の表明であることを、その創発こそがおこっていることを、ついつい忘れてしまうものでもあった。

著者プロフィール

一九四四年、京都府生まれ。編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。一九七〇年代、工作舎を設立し『遊』を創刊。一九八〇年代、人間の思想や創造性に関わる総合的な方法論として″編集工学〟を提唱し、現在まで、日本・経済・物語文化、自然・生命科学、宇宙物理、デザイン、意匠図像、文字世界等の研究を深め、その成果をプロジェクトの監修や総合演出、企画構成、メディアプロデュース等で展開。二〇〇〇年、ブックアーカイブ「千夜千冊」の執筆をスタート、古今東西の知を紹介する。同時に、編集工学をカリキュラム化した「イシス編集学校」を創設。二〇〇九~一二年、丸善店内にショップ・イン・ショップ「松丸本舗」をプロデュース、読者体験の可能性を広げる″ブックウエア構想〟を実践する。近著に『松丸本舗主義』『連塾方法日本1~3』『意身伝心』。

「2016年 『アートエリアB1 5周年記念記録集 上方遊歩46景』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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