ちょっと土門拳が面白いと連続で読んでみた。今度はもっと技術的なことが書いてないかと本書を手に取ってみたが、やはり9割が精神論だった(笑)
日本の、いや世界的に見ても写真という表現方法は新しい手法だ(絵画や書、音楽等との比較の意味で)。その古典となるべく己を叱咤激励して写真道(まさに”道”だな)に邁進した様子にはひたすら圧倒される。
「写真には他の形象手段たる文学や絵画や彫刻のような古典はまだないんだ、世界の誰だって写真での表現にこれまでピリオドを打ったものはないんだ、いかにすばらしい表現が可能かは今後の問題だ、自分の手によってこそ古典になり得るような価値高き表現を確立すべきではないか、とその度に自分を励ましています」(「新しい仕事」『写真文化』S17.11)
技術的なことは、絞りはとことん絞る、自然光にこだわる、スイス製のSINAR-S 4x5を愛用していた程度の話で、あとはひたすら精神論、根性論的な話が多い。いつ撮る?シャッターチャンスは?という記述は驚きと共に、とうてい凡人のたどり着ける境地ではないと思わされる。
「寒いときには寒いところにいなければ、こちらの腰が坐ってこない。寒さに震えながらカメラを構えないと、写真に血が通わないのである」
「ぼくは被写体に対峙し、ぼくの視点から相手を睨みつけ、そして時には語りかけながら被写体がぼくを睨みつける視点をさぐる。そして火花が散るというか、二つの視点がぶつかった時がシャッターチャンスである。バシャリとシャッターを切り、その視線をたぐり寄せながら前へ前へとシャッターを切って迫っていくわけである。」
下記の言葉などは、彫刻家が素材(木や石)を前にして、そこに像を彫るのではなく、その中に元からあるものを彫りだすと言うのと似ていたりする。
「心素直にして誠実な者に対して、モチーフは常にその美しさの全部を明け放しにのぞかせ、撮影に必要な一切の技術的注意すらも語ってやまないのです。僕たちはモチーフが叫ぶ声に耳をかたむけ、その指示するままにカメラを操作すればよいのです」(「実相観入」『カメラ』S25.3月例選評)
被写体をいかにほど見つめ続けばその声が聞こてくるものだろうか。
寒さに耐えながら寒い時に寒いモノを撮りに行くという体育会的なノリは嫌いじゃない。トレーニングに明け暮れた様子も紹介されている。
「カメラを保持、ファインダーをのぞき、シャッター切りという一連の操作を一組にしたトレーニングを横位置五百回、縦位置五百回、合計千回づつを毎日晩御飯後の食休みにやった。本当に撮影しているときの気分を出して、毎日千回シャッターを切ったのだった。それも二か月ほどで完全にものにできた」(『自叙伝』)
そうして、弟子入りした門下生にも、重いレンガをカメラに見立てて、上記と同じ訓練をさせたというから気合が入っている。
”カメラのメカニズムを肉体化”する目的とあり、これはある意味技術論ではあるが、梶原一騎的スポ根を垣間見る(当時の世相でもあったのだろうなと思う)。
こうして土門の思想、理論、技術(はちょっとだけ)を二十二条に章立てて紹介していく。とはいえ、上記のとおり、ほとんどが土門の著作などからの引用で、作者は殆どなにも書いてない。書いてないどころか、土門の言葉の引用の後に、もう一度同じことを反復して書いている箇所が多くて煩わしい。いっそ引用箇所だけを、その章立てにそって並べてくれただけのほうがよほど読みやすかった。先に読んだ田沼武能が編んだ土門論のほうが前後の文脈も読めて誤解がなくてよかろう。
とはいえ、本来多くの書物に当たらねば知れなかった話をかいつまんで紹介してくれているとう点では、入門書としてはありがたいのかもしれないが。
そんな拙い編集にも拘わらず、土門拳の生きざまには圧倒される。幼い次女を事故で亡くしたこととか、脳出血、脳血栓で倒れ半身不随の身となっても撮影に向かう姿、弟子たちの証言等、第三者的視線を加味したのは、もうひとつ本書の良い点だろう。
とにもかくにも、写真道を邁進し、自分流の奥義を極めた土門拳をしても、モノになる作品は3~5%。さらに傑作となると己を超越した先にしかないというのは、頂点を極めた者にしか見えない悟りの境地のようだ。
「いい写真というものは、写したのではなく、写ったのである。計算を踏みはずした時にだけ、そういう写真が出来る。」(「肖像写真について」『風貌』)
そうして写った写真を、”鬼が手伝った写真”と言い、偶然生まれた傑作がそこに写っていると
「鬼がついた!」
と、喜ぶのだそうだ。鬼が付いたのは写真にではなく、土門拳に、だと思う。