通りすがりの男 (ラテンアメリカ文学選集 11)

制作 : Julio Cortazar  木村 栄一 
  • 現代企画室
3.85
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本棚登録 : 52
レビュー : 7
  • Amazon.co.jp ・本 (242ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784773892185

作品紹介・あらすじ

現実と幻想、覚醒と夢がひとつに融けあった驚異の世界へと読者を誘う、「瞬間の人生」を写し撮る短編の名手コルタサルから届けられた、ワンダーランドへの招待状。

感想・レビュー・書評

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  • 詩はアンソロジーで読め、と言ったのは誰だったか。一冊の詩集には同工異曲のものもあれば、駄作もまじる。アンソロジーなら名詩ばかりで外れがなく、ヴァラエティーに富んでいるからだろう。同じことが短篇集にもいえる。一人の作家の持つ様々な持ち味を一冊の本の中に並べてみせることができる。

    フリオ・コルタサルはベルギー、ブリュッセル生まれのアルゼンチン人。幼少時に帰国し故国で育ち、三十代半ばで留学生として渡仏。その後パリ在住。そのせいか、他のラテン・アメリカ作家の書く物とは一味ちがう。一口で言えば都会的で繊細なのだ。小説の舞台もヴェネツィアやジュネーブといった有名な都市であったり、固有名を持たない街であったり、とラテン・アメリカの地霊に縛られていない。

    丸谷才一がその書評の中で、モーパッサンの短編小説の結末のつけ方は評判が悪いと書いている。どんでん返しがあざといと嫌われるらしい。丸谷はナボコフはその裏を行ったと続けているのだが、フリオ・コルタサルの結末のつけ方も独特である。結末に至って、それまでよく分かったつもりで読んでいた物語がふと見えなくなる、というか、読み違えていたのだろうかという疑念が生じる、そんな感じ。

    超自然や驚異、珍奇な物、事件といった非日常的なものはまず登場しない。そういう意味ではチェーホフ的かもしれない。多くは市井のアパートや酒場、避暑地のホテルといった日常的な空間に一組の男女を配置し、その心理の綾を語るだけだ。ただ、その人間と人間の間にあるずれが生む葛藤を摘出して見せる手際のよさ。読者はそこに人間存在の思いもかけぬ顕現を見て畏怖すら覚えてしまう。はっきりしない終わり方という点もチェーホフに似ているといえる。

    すれちがいの恋愛譚あり、大人になりかける時期の微妙な少年心理を鮮やかに切り取ったスケッチ風のもの、アラン・ドロンという懐かしい名前も登場するフィルム・ノワール風の一幕もあり、と多彩な作品が揃っている。作家は短編小説を一枚の写真に喩えているという。たしかに、長篇小説とはちがい、人生の一瞬を切り取って掌の上に差し出してみせるという点で、短編小説は写真に似ているだろう。ただ、それは読者や見る人の知性や感受性を動かす導火線のような働きを持つものでなければならないともつけ加えている。

    個人的な好みをいえば、手紙のやりとりで知り合った男女が、あらかじめ創りあげた互いの像にしばられて現実の相手を見失う「光の加減」や、倦怠期のカップルが他人を装って避暑地でのアヴァンチュールを楽しむ「貿易風」のような作品が、洒脱な味わいを醸し出していると思う。

    異色なのは、作家がニカラグアの革命運動に連帯し、世界にその実状を訴えたルポルタージュ『かくも激しく甘きニカラグア』所収の一篇でもある「ソレンティナーメ・アポカリプス」だ。他のルポルタージュといっしょに読んだときにはずいぶん主観性を強く押し出しているな、とは思いながらも、作品中の「ぼく」を作家その人と思って読んでいた。ところが、短篇集に収められるとその中に登場する「私」(訳者が異なる)は、虚構の視点人物としか読めなくなるのだ。ニカラグアの湖に浮かぶ小島の住民描くところの絵を撮影したスライドをパリの自宅で上映していると、そこにあるはずのない虐殺現場を撮影した映像が次々と映し出されるという、一見平和な島の日常の裏に隠された混乱の続くニカラグアの現在を二重露出にして提示する手の込んだ一篇だが、こうして短篇集の中の一篇として読むと、ルポルタージュとして読んだとき以上の衝撃を受ける。これが物語の持つ力だろうか。

    翻訳は若い訳者の下訳に木村榮一が手を入れたものだろうか。話者の語り口に特徴のある作家の個性をよく生かして読みやすい。

  • 短篇集。11篇収録。

    「光の加減」
    ラジオのドラマで、いつも悪役や憎まれ役を演じている声優。ある日、彼の元に生まれて初めてのファンレターが届けられ、差出人の女性について様々な想像をめぐらせる。やがて実際に顔を合わせ一緒に暮らし始めた二人なのだが・・・・・
    自らの想像に現実を摺り寄せようとする様が終始淡々と語られるため、いっそうの狂気を感じさせて怖い。ラストの強烈なしっぺ返し。

    「貿易風」

    「二度目」
    カフカの審判を思わせる。

    「あなたはお前のかたわらに横たわった」

    「ボビーの名において」
    そして長いナイフは、今、語り手である叔母の部屋の引き出しにあるんだよね?

    「ソレンティナーメ・アポカリプス」
    コルタサル自身を思わせる人物が語り手。フランスに暮らしていたコルタサルだが、1980年代初め、サンディニスタ革命前後のニカラグアをたびたび訪れていたという。そうした折のニカラグア来訪記のように話は進んでいく。
    冒頭で“私”は、アルゼンチン人もニカラグア人も、コスタリカ人も、呼び名が違うだけで、“根は同じなのだから違いなどありはしない”と語り、また、ニカラグアの人々が直面している、“夜となく昼となく襲いかかってくる脅威”や“恒常的な不安の中での生活”“恐怖と死に囲まれた日々の暮らし”
    は、ニカラグアのみならずラテン・アメリカ全体を覆う問題であるとも語る。

    エルネスト・カルデナルが住むソレンティナーメを訪れた“私”は、エルネストの家にあった、土地の農民たちが描いたという絵の素朴な美しさに魅せられて、何枚もの写真に収める。

    やがてパリに戻った“私”は、スライドにした絵の写真をスクリーンに映して見てみようとするのだが、そこに映し出されたものは・・・・・

    それは、作家がフランスにいなければ自らの目で見ることになったかもしれないもの、そしてフランスにいればこそ語らなければならないものだったのかも。

    「舟、あるいは新たなヴェネツィア観光」

    「赤いクラブとの会合」
    見る者が、実は見られる者だった。語り手の正体を想像する怖さ。

    「メダル 一枚の裏表」

    「通りすがりの男」
    「マンテキーリャの夜」
    二作ともノワールな味わい。

  •  実は本書を読むのが少し怖かった。
     発表されたのが1977年で、あの「文学青年コルタサルが残した最後の短編集」と言われた「八面体」の発表から3年後であり、フリオが政治活動にドップリと浸かっていた時期と重なっていたからだ。
     資料を読む限り、彼の政治活動は決して褒められたものではなかったようで、そんな状況が作品に影響を及ぼしていたら、読むに堪えないだろうなと漠然と考えていたからだ。
     でも読み終わった今、そんな心配は杞憂に終わった。
     全部で11編からなる短編集。
     半分ほどは恋愛に関する内容である。
     恋愛に関する、とはいってもフリオ・コルタサルのことだから、一筋縄ではいかない。
     まるで近親憎悪を感じるような、身に覚えのある罪悪感に似た「光の加減」があったり、登場人物が入れ替わってしまう錯覚に陥る「貿易風」があったり、見つめる側と見つめられる側が最終的に反転してしまう結末が「山椒魚」を思い出させる「赤いクラブとの会合」があったりとバラエティに富んでいる。
    「二度目」や「ボビーの名において」では得体の知れない不気味な雰囲気が漂っており、「ソレンティナーノ・アポカリプス」はルポルタージュ風な作品のなかに非現実的な出来事が起こる(他の方のレビューで知ったのだが、この作品は実際のルポルタージュ作品である「かくも激しく甘きニカラグア」の中の一編なのだそうだ)。
    「あなたは、お前のかたわらに横たわった」などは実験的な人称を使用しており、読み辛さを感じるかも知れないが、一旦その手法に慣れてしまえば、あまり体験したことのない読書の楽しみを覚えると思う。
     本書の中で一番長い「舟、あるいは新たなヴェネツィア観光」はフリオの古い作品に、一人の登場人物の独白を加えることによってメタ・フィクション的な面白さを持つ作品になっている。
     この「舟、あるいは新たなヴェネツィア観光」に登場してくるバレンティーナ(独白をしていない方の女性)はフリオの長編「石蹴り遊び」の登場人物の前身であるとのことだが、残念ながらその「石蹴り遊び」を(「かくも激しく甘きニカラグア」もそうだが)読んだことがなく、購入しようにも絶版で、古本にはそれなりのプレミアがついていたりする。
     復刻を切に希望します。
      最初に書いたとおり、読む前はちょっと心配だったのだが、本当に面白く読み進めることが出来た。
     誤字脱字が散見されたことのみがちょっと興醒めだったけれど、これはフリオの責任じゃないしね。

  • あと1/3ぐらい読んでない

  • ★三つは通常「ふつう」「まあまあ」のイメージだろうけど、ここでの私の★三つはわりとレンジ広めで。ホント、★半分があればいいのに…。
    『悪魔の涎・追い求める男/他八篇 コルタサル短篇集』についで2冊目のコルタサル。
    日本での刊行時期はほぼ同時期なのだが、どちらの解説にも各篇の執筆時期は記されておらず、ググってみてもヒットしない(スペイン語によるJulio Cortázarのサイトも閉鎖)。
    なぜ執筆時期が知りたいかといえば、『悪魔の涎・追い求める男〜』と本作がずいぶんと趣を異にしていると思うからだ。
    『悪魔の涎・追い求める男〜』を、代表作を収めたベストセレクション集ととらえると、本作『通りすがりの男』はややフラットな印象を受ける。しかし、そういうこととはべつに、どちらの短篇集も彼一流の幻惑の世界は構築されているのに、本作に収められた11の物語はどれも暗く、落としどころが同じというか、ほとんどが「死」のイメージを纏っていて、ともすれば(例えば、本作を先に読んで『悪魔の涎〜』を読まずにいると)、単純明快な怪奇小説書きのレッテル張りも可能なのである。
    コルタサルはポーのファンらしいので、あながち間違ってはいないかもしれないが…。
    それにしても、これほど直接的な「死」や「死」のイメージに取り憑かれた選集になったのは、意図してのことなのかどうなのか。
    読後感という意味では、『悪魔の涎〜』よりよろしくないと思う。

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フリオ・コルタサルの作品

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