プラグマティズムの作法 ~閉塞感を打ち破る思考の習慣 (生きる技術! 叢書)

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  • 技術評論社
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784774150239

作品紹介・あらすじ

実用的哲学の必要性。TPP論議、震災復興、国土強靱化等の現場で実践・発言する著者の日本活性化論。

感想・レビュー・書評

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  • ウィトゲンシュタインやプラグマティズムの読解としては話にならない。
    哲学をファッションとして借りたり、権威付けを行わずに、ストレートに自分の頭で考えたことを文章にすればいい。面白いことを考えたり、実際に行動している人だと思うので、その点は少しがっかりした。
    別の著作をおすすめする。

  • 目的の転移(手段との取り違え)を問題視し、ウィトゲンシュタインやパース、ケインズを援用しながらプラグマティズムを推奨する本。

    中央政府や計画経済(planning)、自由な精神のアメリカの称賛(にもかかわらず、筆者の批判するグローバリズムがそのアメリカが源泉であること)など、むむむ?なところもあるけれども、うなずく所も多かった。grand mother はGrandmotherです。ま、いいんですけど。

    日本で目的の転移が蔓延し、プラグマティズムを欠いているのは、全くその通りだと思います。

  • 何事に取り組むにしてもその取り組みには一体どういう目的があるのか
    その目的がお天道様に対してはずかしくないか

    目的と手段の入れ替わりは確かによほど気をつけていても実務の中で、よく起こること。

    プラグマティズムの作法に従って自分の振る舞いをあらためてみようと思わされる一冊。

    ※愚かなクルマ工場の比喩は吹き出すほど面白かった。

  • 目的 目的 目的
    起業、ビジネス、ブログ、Webサイト
    やるからには目的を達成するのに手段が必要なんだ。
    それがいつの間にか手段と目的が逆になってる。

    読んでいてつくづく痛いところを疲れている感じがした。
    学校、部活、会社の理念や目的を覚えてた?
    自分がどんな目的で学校や会社、コミュニティーの門を叩いた?

    そうだ、そこにあったのは、みんながそうしてるから。
    そうじゃないとなんか恐ろしい。
    そんな理由だった。

    同著、「凡庸と言う悪魔」に通ずる気持ちもあった。

    私は学校や部活や会社の目的や理念に賛同して活動してたかと問われれば、理念すら憶えていない。

    それぐらいコミュニティーが掲げる理念や、理念から立てられる目的なんてお飾りだった。
    薄っぺらな目的意識の中で生きてきて今に至っていて恥ずかしい。

    自分の意思も示さなかったし、誰かと同調も出来なかったのがようやく腑に落ちました。

  • 出版社さまより献本いただく。

  • プラグマティズムとは単に実用性を求める姿勢ではなく、よりよく生きるための方法論である。大目的を常に見据え、自らの良心に従い、ただ道を突き進む姿勢。こうした心構えを持つと、大目的に無関係の事柄がノイズとして認識できるようになり、思考が研ぎ澄まされる。不安感のような感覚が同時に沸きあがるが、これは恐らく巣立ちを向かえた小鳥が羽ばたくのを躊躇するときに抱く感覚ようなものだろう。依存対象から飛び立ち、ただ状況に依存していた段階から、自ら打ち立てた大目的に従って生きていくようになる。この姿勢がまさにプラグマティックに生きるということなのだろう。非常にすっきりとした読後感であった。

    <プラグマティズムとは何か>
    社会学者のマーティンは「目的の転移」という人間の心理現象を提唱した。これは手段と目的が入れ替わってしまう現象である。当初の目的を意識していれば手段は目的のためにあると理解できるが、目的を忘れると手段として行っていたことが目的化してしまいかねない。目的を常に意識する姿勢がプラグマティックであることの条件である。

    プラグマティズムは、パース、ジェームズ、デューイという19世紀のアメリカの哲学者を中心に展開された思想のことである。パースが提唱し、ハーバード大学哲学科教授であったジェームズが発展させ、デューイが社会に広めることとなった。1898年にジェームズがカリフォルニア大の講演で、プラグマティズムを紹介したことがきっかけで新しい思想であったプラグマティズムが知られるようになる。紹介されたのは1877年に学術誌に掲載されたパースの「プラグマティズムの格率」である。

    プラグマティズムの格率は、次のようなものだ。「対象の概念を明晰に捉えるためには、その対象がどのような効果をもち、行動に関係するどのような効果を及ぼすかを観察する必要がある。そしてそれらの効果は対象についての概念と一致する」効果と対象の概念が一致するというのはどういうことか。パースは「力」という概念の説明に格率を使っている。我々は力の効果を知っているが、力が一体何なのかは知らないと考える。しかし、力の効果を説明できる時点で力が何なのかを示せているのだ。ある効果が観察されたときに力が働いたと考えることは、力という概念がその効果があってはじめて成立するということである。

    またパースは、キリスト教におけるプロテスタントとカトリックのパンとワインの神学論争を取り上げてもいる。カトリックでは、パンをキリストの肉、ワインをキリストの血と捉えるが、プロテスタントはあくまで比喩として捉えている。パースは、パンやワインをどのように儀式に用い、それらが我々にどのような効果をもたらすのかを比較し、違いがないのであれば、論争には意味がないと説明している。つまり、効果以外のことを考える必要はないという考え方がプラグマティズムの格率である。

    ソクラテスやプラトンはプラグマティックな考え方の持ち主であった。彼らは共に「善く生きるには」という目的意識を生涯持ち続け、政治や様々な哲学的対話を深めたのである。ジェームズや、特にデューイは、古代ギリシャの偉人たちのように、プラグマティズムの思想における実用主義的な面を特に重視し、大目的を社会を発展させることとし、心理学や教育学、社会思想を発展させていった。

    格率を用い、プラグマティックに生きようとしたとき、我々の大目的がどのような効果を持ち、影響を行動に及ぼすかを考えることになる。このことから我々の行動が、何らかの形で自らの暮らしや社会に影響を及ぼすことになる。「完璧な知識の階層構造」があると錯覚することで目的の転移は起きる。完璧な設計図があれば、完璧なものができあがるのだから、目的など忘れ、手段が目的化するのは必然である。しかし実際には完璧な設計図など存在せず、目的に達するための手段は多数あるのである。藤井氏は大目的を捉えることを上昇運動、他の手段に思いが至ることを下降運動とし、それらの運動によって目的と手段の階層認識が広がる転換のことを「プラグマティズム転換」と呼んでいる。

    プラグマティックであるためのツールとして、「So What?」テストがある。自他の言動に対し「それが何?」と問いかけることで、それらの意義と限界を認識することができる。言動が大目的にどのような効果をもたらすかを認識することで、意義を確認し、効果をもたらさない領域を認識することで限界をも認識できるのである。

    「Grand Mother」テストは中野剛志氏がエディンバラ大学留学時に指導教授からの「自分の研究は、自分のGrand Motherでもわかるような説明ができるように心がけよ」という言葉が元になっている。抽象的な概念を駆使する学問の世界にあっては、その学問や研究が我々の生活にどのような影響を及ぼすかということが忘れられ、机上の空論になる危険性をはらんでいる。「Grand Mother」テスト、すなわち抽象的な概念を具体的な現実に落とし込むことで、机上の空論、手段の目的化に陥っていないかを確認することができる。

    <ヴィトゲンシュタインの研究もまたプラグマティズム>

    ヴィトゲンシュタインは「論理哲学論考」において、「語り得ぬものについては、ひとは沈黙せねばならない」という命題を記した。彼はこれ以前の命題の中で、哲学をするには自然科学の命題以外を語ってはならない。故に誰かが形而上学的な話をしたならば、その命題の中にある記号になんの意味も与えられていないことを示してやることであろう、と記している。私の理解では、たとえば「実在とは何か」「神とは何か」を話そうとしたところで、まず神や実在というものがどのような効果をもたらしているかは不明である。プラグマティズムの格率でパースが示したように、ある対象の概念はある効果と一致する。効果のわからないとき、概念は定義できない。定義できていない概念を用い、話をしたところで、その概念を含む命題は構成し得ない。恐らくそういうことであろう。

    語りえないものがあるということが神秘なのである。パースは科学的な実験によってひとつのある結果に収束していくことをもって、たしかにそこに真理が実在しているとする。しかし、真理が何なのかということは我々が発見した効果以外のことはわからない。語りえないものが残るのである。ヴィトゲンシュタインも、あらゆる科学的な問いに正解を見出したところで、依然として言い表せないことは残り、それが神秘であるとしている。

    ヴィトゲンシュタインの提唱した概念である「言語ゲーム」とは、あらゆる概念はあるルールがあって成り立っているとするものである。例えば将棋の「飛車」の概念は将棋というゲームのルールがあって成り立つ。「ゲーム」があって全ての言葉、概念が成り立つということは、我々は常に何らかのゲームに従事しているということである。藤井氏はパースの格率を「ある対象の概念を明晰に理解しようとするならば、その対象がどのような言語ゲームの中でどのような役割を担っているのかを考えよ。その役割とその対象の概念は一致する」という風に言語ゲームバージョンにし、表している。ある対象がどのようなゲームに属しているのかを考えることで、それらが良質のものか悪質のものかを判別することができるのである。

    藤井氏の示すプラグマティズムの作法は2つあり、まず、何をするにおいても、その行動の目的が何かを常に意識すること。2つ目に、その目的がお天道様に対し、恥ずかしくないものかを常に意識することである。

    プラグマティズムの作法を組織の中に身を置きながら、実践する際、作法に反する物事に遭遇する場合がある。そのときに組織から離脱するか、残留するかを選ばなければならない。離脱には今まで受けていた恩恵を得られなくなるというリスクが生じ、残留には作法を遂行するための環境を整える必要が生じる。離脱する場合には残留していたとき以上の恩恵が得られると想定できていなければならない。いずれの場合でも、お天道様に恥じない選択をする必要はある。残留する場合、ひとりで作法を実践するのは難しいため、環境を整える必要がある。方法は3つあり、まず作法を実践している他者と協力することがあげられる。2つ目に、他者を啓蒙し作法のある人を増やすこと。そして3つ目に、自らが力を行使できる立場になるまで辛抱することがあげられる。自らの裁量で作法を啓蒙しやすい立場を得られるまで辛抱するということである。

    <経済学とプラグマティズム>

    経済とは「経世済民」の略で、「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」という意味である。しかし、経済学の教科書では、経済学とは「他の用途を持つ、希少性ある経済資源と目的について人間の行動を研究する科学が経済学である」と定義されることが多い。1932年にライオネル・ロビンズによって定義されたものである。つまり多くの経済学者は、資源にまつわる人間の行動を研究しているのであり、人を助けることや経済回復などが目的ではないのである。しかし、アダム・スミスは経済学を利益や資源を民に行き届かせる方法であると同時に、人々と統治者を裕福にするものであるともしている。

    経済学の過剰な専門化が国民経済の発展を阻害している。スミスの示したような民を裕福にするという目的を忘れ、専門分野の研究という手段を目的として捉えるようになった経済学者たちは、大目的にそぐわない研究に没頭し、道を踏み外していくこととなった。「新古典派経済学」が現在の経済学界に大きな影響を及ぼしており、「主流派」と呼ばれる。主流派経済学では、自由な市場に任せれば、有能な生産者のみが生き残り、結果として消費者に安く物が行き渡るとしている。この理論が成立するためにはいくつかの前提があり、例えば物の価格にはその物のあらゆる価値が反映されていることである。また、生産した物は全て買われることも前提である。あるいは、働ける人は皆働いていることもそうである。これらの前提は現実社会にはない現象である。主流派の学者らは、現実社会にそぐわないモデルを無理に現実社会に適用させようとしているのである。

    現実にそぐわないモデルを研究していた経済学者に辟易し、現実から現実への処方箋となる理論を導き出したのが、ケインズである。ケインズは古典派とは違い、需要の不足や失業者を認め、それらがデフレーションを引き起こすとし、デフレ時には需要を創出する公共事業が必要であるとした。ケインズは、自らの主張は古典派に受け入れられるものではないだろうとしながらも、学者の説得を試み、政治家に対しても働きかけを行ったのである。学者が理解しなくとも政治家に話せば効果があるかもしれないと考えたからこそ、イギリスで理解されなかった彼はアメリカへ飛び、ルーズベルトに働きかけ、ニューディール政策を成功させたのである。

    <現代ビジネスに欠けているプラグマティズム>

    マクドナルドの前社長はインタビューの中で、マクドナルドの食品は売り物であって自らは食べないこと。安い材料を使っておいしいものを作るのは難しく、おいしく感じる温度でのみサプライしていること。そしてオーダー時に、女の子ににっこりと笑わせ、ありがとうございますと言わせることで、客を数秒の催眠状態におき、その状態で追加のメニューを提案することで、客を「引っかけ」ていると語っている。マクドナルドは「利益最大化ゲーム」を行っており、そのゲーム目的に適った行動をしていると言えるかもしれないが、それらの行いはお天道様に顔向けできるようなものではないのである。

    日本の伝統的な商人である「近江商人」の間では、「三方良し」という言葉が大事にされてきた。「売り手、買い手、世間良し」の3つを表しており、現代ビジネスの多くに見られるような「売り手良し」偏重の思想とは異なる。

    「売り手良し」偏重のビジネスでは短期的な利益は得られても、長期的には問題を起こす要因となる。ひとつの会社が粗雑な商品を作り、買い手を騙して利益を得るようになると、他社も何らかの方策をもって追随しなければならなくなる。その結果、底辺への競争が起こり、現在の日本でいえばデフレが深刻化し、企業も利益を上げられなくなってしまった。

    <都市計画に不可欠なプラグマティズム>

    都市計画にはプランの策定と大きな財源が不可欠である。適切なプラン策定には「やり遂げる意志」「ひとつひとつの事柄を慎重に進める姿勢」「大局を捉える視野」が必要としている。プラグマティストであると、それらの必要条件を満たせる可能性が高い。大目的を常に意識し、様々な手段を検討できる彼らは、大局を捉えることができる。大目的を常に意識することは、行動が大目的に沿うものか慎重に検討することであり、これは物事を慎重に進める姿勢である。そしてまず何よりも、プラグマティックであるためには、その姿勢を貫徹させる意志が不可欠でもあるのである。

    プラグマティストによる都市計画には3つの方法がある。1つ目に、住民への「教育」である。ライフスタイルはその土地の社会常識と不可分のものである。ヨーロッパでは土地の社会常識が法律面にまで反映されている例として「都心に車で入るにはお金を払わなければならない制度(ロードプライシング)」「都心に車で入ってはならない制度(流入禁止制度)」などが存在する。2つ目に政治へのコミットメントである。都市計画には膨大な金がかかるのと、整合性のとれた都市を成り立たせるため、国家の関与が不可欠である。必然的に政治への働きかけが重要となる。3つ目に言論活動である。我々が間接民主制の国家に生きている以上、政治家や大衆に言論でもって働きかけることが国を動かす上で重要なのである。

    <プラグマティズムは何をもたらすか>

    プラグマティズムは自らの究極の目標を常に意識し、その目標に結びつくあらゆる方策を実施していく態度であることから「無限の高み」を目指す精神の働きを宿していると藤井氏は指摘する。そして最後に「真剣に生きよ。そして自らの内に真剣ならざるものが見いだされたのならそれを恥じ、真剣に生きる他者に敬意を表しつつ、より真剣に生きよと決意し続けよ――」という言葉を記し、このような態度がより良い世の中を形成することに繋がるのだとした。

  • 土木工学を専門としながら公共政策について発言をおこなっている著者によって書かれた本で、そのタイトルが『プラグマティズムの作法』というのですから、環境プラグマティズムについての突っ込んだ考察と、都市開発や国土計画についての実践的な提言が盛り込まれているのではないかと、期待する読者も少なくなかったのではないかと思います。

    かくいう私もその一人なのですが、残念ながらそうした期待は満たされませんでした。いちおう本書の第1部でパースとウィトゲンシュタインの哲学について語られ、第2部では日本経済や国土開発についての議論がなされているのですが、どういう読者を想定して書かれているのか、疑問に感じました。

    もちろん著者は哲学の専門家ではないので、議論の厳密さを求めるのはお門違いでしょうし、あまりに厳格な議論は「目的の転移」を排するという著者のプラグマティズムの立場に背馳することになるだろうというのも理解できます。それでも、著者が「プラグマティズムの作法」として、「その目的が、お天道様に対して恥ずかしくないものなのかどうかを、常に問い続けるようにする」と整理していることには、どうしても引っかかってしまいます。

    著者は、人びとがそれをめざして日々努力を積み重ねている目的には「崇高な目的」と「下卑た目的」があると言い、しかしその基準を論理的に示すことは不可能だとした上で、なお「崇高な目的」か「下卑た目的」かをチェックするための基準として、「お天道様に対して恥ずかしくないものなのかどうか」を掲げています。おそらくここで問題となっているのは、異なる価値観を持つ者どうしが討議的なコミュニケーションに入るための価値論的コミットメントのことだと思われます。しかし、「お天道様」を基準にするというのは、著者はアプリオリストではないかという誤解を招きかねません。あるいは、キリスト教圏の人間ならば「神に誓って正当化できるのか」という基準が立てられるのに対して、「神」についての明確な概念を持たない日本人には「お天道様に対して恥ずかしくないか」を考えてみればよい、という説明もされているのですが、ここを読んだ読者は、著者のことを相対主義者だと思ってしまうかもしれません。

    少なくとも著者の本を手に取ろうとするほどの読者を対象にしているのですから、もう少しきちんとした解説がほしかったように思います。これほど崩した説明は、かえって著者の真意を捉えがたいものにしてしまうのではないでしょうか。

  • 日本にもっとプラグマティズムの発想と実践を。という筆者の明快なメッセージ。
    前半のプラグマティズムとは何か(格率、作法、ウィトゲンシュタイン)〜経済学とプラグマティズム(自由な職人たちのクルマ工場の比喩、非現実的な自由市場理論に対するケインズの主張)まで興味深く読み入った。

  • 愚かな車クルマ工場の喩えが滑稽で面白く印象に残った。「何事に取り組むにしても,その取り組みにはいったいどういう目的があるのかをいつも見失わないように」し,「その目的が,お天道様に対して恥ずかしくないものなのかどうかを,常に問い続けるようにする」ということを,頭に置いて実行していきたいと思った。また,出光佐三さんについての本を最近読んだが,彼の生き方が「三方良し」も含めて想起され,今乱読しようと思っている所なので,いろんな本が自分の中で連想ゲームのように繋がっていく楽しみができた。

  • ■「目的の転移」(「単なる手段」を「目的」だと
     思いこんでしまうこと)に気をつける。
    ■Grand Motherテスト
     (自分のおばあさんが聞いても理解できるか)を
     推奨しているだけあって,読みやすかった。

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著者プロフィール

京都大学大学院工学研究科教授、1968年生。

京都大学卒業後、スウェーデンイエテボリ大学心理学科客員研究員、東京工業大学教授等を経て現職。

2012年から2018年まで安倍内閣・内閣官房参与としてアベノミクス、国土強靱化等の政策アドヴァイスを担当。

2018年より保守思想誌・『表現者クライテリオン』編集長。


「2024年 『「西部邁」を語る』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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