街場の読書論

著者 :
  • 太田出版
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本棚登録 : 1029
レビュー : 108
  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784778312886

感想・レビュー・書評

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  • ビジネス書とは、全く違う視点からの読書論。

    ビジネス書ではいかに効率よく本を読むかといったような、喉の渇きを癒すための読書のように感じる。

    しかし、いくら本を読んでもこの渇きは癒されない。水を飲んだ瞬間は癒されるが永遠に渇きは波のように押し寄せる。
    ビジネス書も読んだ瞬間は、モチベーションが上がるが、またさらなるスキルアップやバージョンアップが必要になる。

    この読書の渇きにとつきあうには、渇きとはなんなのか?渇きはどこからくるのか?と問いをたてて考えながら渇きを癒すのではなく、渇きと程よくつきあって共存していくのが良いと思わせてくれた一冊。

  • 1文芸棚
    軽快な語りである。本読書が著者との対話であるというなら、慣れてきた、文体、構成、話の進め方など。取り扱いの本は、軽い内容ではないと思うのだが、分かりやすく、扱っている技がある。
    2人文棚
    じんぶん、ちんぷん、長い文でさっぱり分からず。
    3内田棚
    自画自賛でも、おもしろい、読んでいない著作が多かった。
    4教育棚
    歌わざる英雄は何故、教育なのだろう。教えるものなのか?誰かがいわなければ分からないのだろうが、学生向けで分かる教育なのか?
    運がいい、という表現がとても気に入った。
    学ぶ力中学2年生が対象なのか。まさに好対象な時期ともいえる。これが大学に入ると込み入ってしまうのは何故だろう。
    6著作権不明
    グーグル、クラウドとネットが発達してきた以上、著作権を保護することは難しい。著者の利用可の考えは、とても好きである。また、中国の著作権に対しての指摘も最もである。擬似著作権についての話は知らなかったこと。「戦敗加算」なるものが敗戦国にいたとは驚きである。アメちゃんの考え方はフェアではない。

    ブライアン・ウィルソンの気鬱は心を打つものがあった。

  • 重度のタツラー(内田樹の読者)であるわたしは、
    ここに書いてあることの大半を一度別のところで読んでいる。
    それでもやっぱり面白い。

    ひとつ、
    この本が読書論であるところの所以は、
    読書によってリンクする様々な思考を展開してみせているところだろう。

    本書では、
    読書を「scan」と「read」の二つに分けている。
    わたしはその先に「link」があると思う。

    つまり読書は、
    「今ある自分の知識・思考」と、
    「本に書いてあること」を繋ぎ合わせる(「link」させる)ことだと考えている。

    著者は、
    スワヒリ語40単語を覚えるプログラムの話を引いて、
    「脳の機能は「出力」を基準にして、
    そのパフォーマンスが変化するのである。
    平たく言えば、
    「いくら詰め込んでも無意味」であり、
    「使ったもの勝ち」ということである」
    と書いていることから、
    知識を使うことの重要性を説いており、
    本書ではまさに「自分の知識を使って本を読み解く」
    という前述したことを体現しているのである。

    わたしが毎日シコシコと日記をしたためるのも、
    こうした修練の一貫であると言える。

  • 本のガイドというよりも、引用した上での思考哲学といったほうが正しい。しかし、いつもの論評よりはテンポが軽めなのでさくさく読める。
    ジョルジュ・サンドの『愛の妖精』やケストナーの『飛ぶ教室』ってそんなにおもしろいのか、読んでみたくなった。

    読みやすい本のコツとは、コミュケーション・プラットホームの構築。読者に対してゆっくりと理解を得ながら進む文章。目から鱗が落ちる指摘。いい本を書く人は本に対する感性が鋭い。

    著作権に関する論評も納得。質を問わずに数だけ捌こうとする出版ビジネスにうんざり。

  • ウチダ的知性を形作る「読書」と、「表現」についてのエッセンスを凝縮した一冊。
    “本はなぜ必要か?”“「文学」はなぜこんなに売れないのか?”“タフで柔軟な知性は、どのような読書経験から生まれるのか? ”
    それらの答えがぎゅっとつまったエッセイ集。著者史上、最厚の416ページでの登場。

  • この本を読んでいるとあたかも内田樹さんが目の前に座ってらっしゃって自分に語りかけているような、実際に講義を受けているかのような錯覚をしてしまう。著者との距離が近いように感じる。耳元で彼の声が聞こえてくるような、文字列には収まりきらない何かが伝わってくるような本だった。この本をよむにあたって、ある程度の(前のめりになって話を聞くような)知的好奇心やある程度の日本語の運用能力が要されていることは確かだが、それでもこの本は外に開かれた(この表現が適切なのかどうかわからないが)、どんな読者も見下すことのない親切な本だと感じた。今までにも気になった本を手にっとて実際に読んでみるものの、読み始めて直ぐ自分は筆者の想定した読者には含まれていないんだなぁ、という感がする。それがこの本には無かった(筆者自身も文中で言及している)。
    ここで幾つか自分がハッとさせられた、もしくは今まで消化できなかった疑問を消化する助けになったものを『街場の読書論』から抜粋する。もし以下の文章を読まれて本書の内容が気になった方は、ブログで該当記事(筆者は文章をブログに投稿されていて、全てタダで読める!!)ので、そちらで探されるか、また本書をお求めになる事をおすすめします。
    「私がものを書いているとき、書いているのは半分かた「別人」なのである。この「別人ウチダ」が憑依しているときに書いたものは、ふだんの私には再現できない。」(『街場の読書論』「おでかけの日々」p124より引用)
    言語を以って説明できなくても、体験的にこれを知っているかたは多いのではないでしょうか。自分だけではできなかった筈のことがなぜかできてしまった。それを内田さんは「別人ウチダ」と表現されたのかもしれない。以前通っていた中学の国語の教師はそれを「コビトさん」と呼んでいた。その先生は本書の筆者に私淑されていて、課題プリントとして筆者の文章を読むことも多かった(すごく楽しかったです)。まぁとにかく大事なのは「それ」をどう呼ぶかでなく、「それ」(僕は国語の先生に倣い「コビトさん」と読んでいる)に対して敬意を払うことである(と思う)。つまり、自分が成したことの全てを自分の手柄だと考えるのはどうなの?ってことかと。「コビトさん」(以下「コビトさん」)にも休みは必要だし。不調に陥ることもあるだろう。知性が全て自分のコントロール下にあると考え、「コビトさん」への配慮を忘れていると、次第に今までできていた「できなかったことができる」ができなくなり、自分の力量でのみできることに限定されてしまうんじゃないかな(随分とややこしい言い方になってしまいました)。そういう自分の知性に対するリスペクトってのが結局自分の為にも、そして「コビトさん」の為にもいいんじゃないのかな。自分の知性なんてままならないものなんだ、そう認識しておくほうが良いかもしれませんね。
    「幾つか抜粋」なんて言っておきながら、結局一つしか引用しませんでした。やっぱり自分が読んだ内容を自分なりに解釈して言語化する、このプロセスって頭使うものなんですね。疲れちゃいましたよ(楽しかったけど)。でもやっぱりこの「楽しい」って感覚がないとこういう風にものを自分なりに深く螺旋状に(直線的に掘れるほど易しくないので)掘り下げていくことはできないんですかね。自分は楽しいからそうしているんですけど(そうしなくては、と感じることもある)。本書『街場の読書論』は色々と得るものが多く、決して読者を「見下す」ような本ではありません(すっごく親切)。読みおえた後、「また読むことになりそうだな」という確かな予感がした(長い付き合いになりそうですね)。ここまで私の拙い文章に付き合ってくれた方に「読んでみようかな」、と思っていただけたら嬉しいです。では。
             
                              

  • 内田樹の本を読んだことがなかったので、とりあえず1冊、と思い、図書館で借りて読んでみました。

    内田樹の、ものすごい読書量と、視点の鋭さと、感覚的なものを的確に言葉にする表現力が、よくわかりました。

    が、理系的なものに対する物言いについては、若干、違和感がありました。

    とはいえ、面白い本だったので、内田樹の本は、これからも読んでいきたいと思っています。

  • 読書のモチベーションが少し下がった気がして(気のせいでしたが)、困ったときの内田頼みってことで、本作を手に取りました。これを読みながら、ネガティブ批評はいかんなと思いつつ書くのも憚られるけど、読み始めたものの遅々として進まない「仮往生伝試文」がどうしても受け付けず、何か突破口はないものかと思ったのがきっかけ。同作の個人的感想はそのときに書くとして、肯定的に読んでみようと思う契機づけにはなりました。他は、母語の考え方とか、人に伝える仕方とか、読書論というくくりで語られてはいても、あくまで筆者ならではの論旨に、相変わらず感嘆しきりでした。決して容易な内容ではないのに、リーダビリティの高さを感じさせられる理由、少し分かった気がします。

  • 街場シリーズは数あれど、「読書論」となればついにウチダさんの本業が主題ということになる。(作家は書くだけじゃなく、読むほうも仕事のうちだろうし)
    そういう意味もあってさすがの内容。テーマが幅広くて面白いです。

    ウチダさんの本は多くがそうだけど、今回は特に読書欲を掻き立てられた。
    とりあえず、ウチダさんの著作何作かと、トーマス・マンとカミュとヘミングウェイを読書リストに追加した。(※p280)



    memo:

    54
    「一気に読ませるもの」では、一行目でいきなり書き手が耳元にいる。つまり、「一行目から話が始まる」のではなく、「もう話は始まっているのだが、それはたまたま私にとって『一行目』だった」ということである。

    78
    「学習」は脳への入力である。「テスト」は脳からの出力である。つまり、脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。平たく言えば「いくら詰め込んでも無意味」であり、「使ったもの勝ち」ということである。

    102
    「マルクスを読む」

    149
    私たちに必要なのは、「ダウンサイジングの戦略」である(ギリシャもイタリアもスペインもポルトガルもオランダもイギリスも)版図を世界に拡げた帝国から小国に劇的に「ダウンサイジング」した。そして、長い低迷と退嬰のときをやり過ごして、安定し、成熟した体制を整えることに成功した。

    200
    統治者の才能や徳性は被統治者と同程度である方がデモクラシーはスムーズに機能する。

    228
    自分の人生を豊かにしてくれる可能性を潜在させている人と出会うと、生物的に「ぴん」と来る。

    242
    日本におけるマルクス主義は「大人」を作り出すための知的なイニシエーションとして活用された

    313
    「本を読む人」の全員はこの「本を購入しない読者」から、その長い読者人生を開始する。

    363
    情報についての情報とはメタ・メッセージのことである。メタ・メッセージとはメッセージの読み方についてのメッセージのこと。

    407
    人間は自分宛てのメッセージでないものを理解するために知的資源を投じることについてはきわめて吝嗇である

  • とても示唆にとんだ本だと思う。
    ひっかかる言葉がいくつもあって、これからあと数カ月のちにどの言葉がひっかかっているかそれはまだわからない…
    というわけで、とりあえず目についた箇所を箇条書きに。

    ・「おのれの女性性とうまくなじむことができずにいる少女」の魅力
    ・言語は内側に割れることによって、無限の愉悦と力を生み出す
    ・『「悪」と戦う』と『晩年』の冒頭部の相似
    ・「自分の賢さ」をショウオフするよりも、「自分の愚かさ」の成り立ちを公開することの有益性
    ・映画は「観る」ものではなく、その中を「生きる」もの。映画、音楽は浴びるように。「read」と「scan」というふたつの読み。
    ・科学的知性は突き詰めれば宗教的になる。私たちは「私たちを超えるもの」を仮定することによってしか成長することができない。
    ・脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化する。
    ・「はさみを渡す」というゲームについて。
    ・知性の切れ味と愛について
    ・引き受けてのない憎悪より「バカヤロー」のほうがマシ
    ・境界をひく人間=やせ我慢の人=隣人愛
    ・「共同体の若いメンバーたちを市民的に成熟させること」
    ・物書きは「ニッチ・ビジネス」
    ・「学びたいのです。先生、教えてください」
    ・ブライアン・ウィルソンの著作権について(泣きそうになった)
    ・「自分がその言葉を発しなければ、他に言ってくれる人がいない言葉」だけが発信するに値する言葉である
    ・「私の言葉は果たして他者に届くだろうか?」
    ・メタ・メッセージについて
    ・エリクチュールと生き方はセットになっている
    ・「私が語るこの言葉は『ぜひあなたには理解してもらいたい』という気持ちを込めて語られる
    ・真に「古典」という名に値する書物とは、「それが書かれるまで、そのようなものを読みたいと思っている読者がいなかった書物」のことである。「まだ存在しないニーズ」を創り出すこと。

    ちっとも「まとめ」にはなっていない。
    言葉について…エリクチュールやメタ・メッセージ、それから宛名の話はとてもひっかかったのだけれど、これはたぶん「街場の文体論」に引き継がれるのかな。リーダブルな文章というのは「ぜひあなたに理解してもらいたい」と伝わってくる文章というのが、あぁ、まさになあと。

    それから知性を刀にたとえたところは勢いにのって書かれた感じがして、きちんとはわからないんだけど、名文だと思うな。

    この本を読んだことで、「知識がついた!」というよりは、もっと素朴な効用があったように思います。それは何かというと…
    ・もっと謙虚を心がけようと思った
    ・無知を自覚し、「教えてください」と素直に言えるように
    ・ぐるぐると愛について考える
    ・文章を書くうえで、「孤立」をいとわないこと。そのうえで、「私の言葉は届くだろうか」という配慮を怠らないこと。

    つくづく「当り前のことを当たり前にやる」というのがいかに大事かということを教えてもらったような気がします。

著者プロフィール

うちだ・たつる 1950年東京生まれ。武道家(合気道7段)。道場兼能舞台兼私塾「凱風館」館長。神戸女学院大学名誉教授。翻訳家。専門はフランス現代思想史。東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。ブログ『内田樹の研究室』。



「2019年 『そのうちなんとかなるだろう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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