暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

著者 :
  • 太田出版
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レビュー : 95
  • Amazon.co.jp ・本 (440ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784778314378

作品紹介・あらすじ

旧版『暇と退屈の倫理学』は、その主題に関わる基本的な問いを手つかずのままに残している。なぜ人は退屈するのか?-これがその問いに他ならない。増補新版では、人が退屈する事実とその現象を考究した旧稿から一歩進め、退屈そのものの発生根拠や存在理由を追究する。新版に寄せた渾身の論考「傷と運命」(13,000字)を付す。

感想・レビュー・書評

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  • 暇とは「何もすることがない、する必要がない時間」を指す、客観的条件である。
    退屈とは「何かしたいのにできない」という感情や気分、つまり主観的な状態のことである。

    暇と退屈の関係については次のように整理できる。
    ①暇があり退屈である
    ②暇があり退屈でない(=有閑階級)
    ③暇がなく退屈でない(=労働階級)
    ④暇がなく退屈である

    本書ではとりわけ④について、ハイデッガーをメインに
    何人かの思想家を引き合いに出しながら論が深めてられていく。

    なぜ「暇がないが退屈」という状態がここで深堀りされるのか。
    それは現代の多くの人々がそのような「退屈」を感じているはずだからだ。
    仕事に忙殺されているが、どこか満たされない。退屈だ。
    そう感じている人はいまや数え切れないほどいるのではないだろうか?

    消費社会においては、物の生産は消費者の都合ではなく
    生産者の都合によって行われる。
    消費者の側に欲しい物があって、それを生産者が供給するという構図ではない。

    フォーディズムの時代では、高品質の製品を低価格で提供すれば
    同じモデルでも商品が売れ続けた。
    しかし現代において、スマートフォンがモデルチェンジをしないと売れないのは、
    人々が新しいモデルではなく「モデルチェンジした」という観念を消費しているからだ。
    この消費スタイルによって、生産体制も
    「絶えざるモデルチェンジ」をせざるを得ないものになっている。

    消費によってもたらされるのは贅沢ではない。
    消費には限界がないから、それは延々と繰り返される。
    そしていつまでも満足はもたらされず、消費は過剰に、過激になっていく。
    仕事すら消費の対象となって、やりがいもなくただ労働の奴隷となっていく。
    これがおおまかな現代の「退屈」、満たされなさの構造だ。

    ここでハイデッガーの退屈論に移りたい。
    ハイデッガーは退屈を3つの形式に分けた。
    ①何かによって退屈させられること(第一形式)
    ②何かに際して退屈すること(第二形式)
    ③なんとなく退屈だ(第三形式)

    第一形式は単純で、たとえば人を待っている時間とか、
    「何かによって退屈させられている」という受動的な状態である。
    これは冒頭の「暇があり退屈している」状態に対応する。

    第二形式は第一形式から一歩進んで、何かに退屈させられているときに
    気晴らしをしたとする。その「気晴らし」に退屈することである。
    気晴らしに飲み会に行った。目の前のお酒は美味しいし、お喋りも楽しい。
    しかしふとした瞬間に空虚を感じる。
    第二形式では気晴らしと退屈が独特の形で絡み合っている。
    退屈を払いのけるためのものが退屈になってしまっているのである。
    「暇はないが退屈している」状態といえるだろう。

    この第二形式こそ、我々が普段もっともよく経験する「退屈」だ。
    仕事も高尚な趣味も、突き詰めればすべて
    人生の退屈な時間を埋めるための行為であって、
    その中にあってなお我々は退屈を感じてしまうのではないか。
    「人生は死ぬまでの暇つぶし」とはよく言ったものである。
    生きることとはほとんど、こうした退屈と気晴らしの絡み合った状態に
    際することにほかならないのではないか?

    第三形式は、ハイデッガーによれば自分の中から聴こえてくる
    「なんとなく退屈だ」という声だという。
    この内なる声から、第一形式・第二形式の退屈が発生するのである。
    第一形式において退屈を感じるのは、「時間を無駄にしたくない」という
    気持ちがあるからだ。
    時間を無駄にせず、日々の仕事(あるいは趣味)に時間を使いたい。
    なぜ仕事や趣味に時間を使いたいのか?
    それは内なる「なんとなく退屈だ」という声から逃れたいからである。
    同じように第二形式で行われた気晴らしも、この声から逃れたいから行うのである。

    ハイデッガーの退屈論の結論としては、第三形式まで深めた退屈に際して、
    そこから自由な決断によって己の人生を切り開け、ということである。
    そんな無責任な…ということで、本書はさらに退屈について考察を深めていく。

    ハイデッガーは、人間は退屈できるのだから自由であると考えていた。
    それだけでなく、人間だけが退屈するのであって、動物は退屈しないと考えていた。
    その根拠を、理論生物学者ユクスキュルの「環世界」という概念を批判し考察した。

    「環世界」とはそれぞれの生物が一個の主体として経験している、具体的な世界のことだ。
    犬には犬の、虫には虫の環世界がそれぞれある。
    ハイデッガーは人間に環世界の概念を適用することを認めなかった。
    ハイデッガーにとって人間は何よりも特別であり、
    環世界にとらわれない“自由な存在”であるからだ。
    動物はそれぞれの環世界に<とらわれて>おり、
    刺激や衝動に対する反応によってしか彼らの世界を感受することができない。

    しかし人間に環世界を認めないというのは、いくらなんでも苦しい主張だ。
    人間も、たとえば天文学者と素人では、同じ空を見ても
    まったく違う世界を見ていることだろう。
    ただしこの環世界をめぐる議論において、人間と動物を比べるとするなら、
    それは人間が相対的に環世界を移動する能力が高いという点だろう。
    素人でも、天文学の知識をつければ、以前とは違う環世界で空を見ることができる。

    ハイデッガーが見落としていたこの点について、著者はこれを
    「環世界間移動能力」と名付けている。
    人間はひとつの環世界にとどまっていられず、相当な自由度をもって
    環世界を移動できる。だからこそ退屈するのである。

    人間の環世界において大きなウエイトを占めているのが「習慣」である。
    環世界が移ると、新しい環境になじむために「考える」ことを強いられる。
    「このあたりには何があるのか?」「だれと仲良くなればいいのか?」
    そうやって考えていくなかで、習慣が創造される。
    習慣が獲得されることで、考えて対応するという繁雑な過程から解放される。
    しかし、習慣を作り出すと今度は退屈がやってくる。
    習慣を作らねば生きていけないが、そのなかでは必ず退屈してしまう。
    だからその退屈をなんとかごまかすために気晴らしを行うのだ。

    本書全体の結論として、次の3つが挙げられている。
    ①自分なりの「暇と退屈」の受け止め方を涵養する
    ②衣食住や娯楽・芸術を楽しむ訓練をすること
    ③動物のようにひとつの環世界に<とらわれ>、思考する

    本論では人間が退屈するという事実を前提としていたとして、
    増補版の付録として「人間はなぜ退屈するか?」という基本的な問いについて取り上げている。
    退屈の発生根拠や存在理由についてである。
    以下その内容についても触れたい。

    人間は新しい環境に際して、習慣を創造することで安定した生を確保するのだった。
    習慣、つまり慣れとは反復により予測を立てることである。
    ドアノブを回せばドアが開く。
    人間関係においても「この人はこう言うとこう反応する」という反復構造を見出し、
    予測することで相手との関係を築いていく。

    ここで、慣れることが到底不可能であるようなものに遭遇した場合、人はどうなるのか。
    たとえば痛み。ある研究において、慢性疼痛の患者は急性疼痛に「快」を感じるらしい。
    慢性疼痛の痛みも和らぐのだという。
    痛みの慢性化は記憶と結びついている。
    身体組織としては完治しているにもかかわらず痛むのは、
    脳の「デフォルト・モード・ネットワーク(安静時に作動する部位)」が
    痛みの記憶を参照するためであるという。

    安静時の覚醒度合いが低い状態にあると、
    脳が記憶のほうを参照してしまうため痛みを感じる。
    一方で外部から急性疼痛が与えられ覚醒度合いが高くなると、
    記憶は参照されず痛みが和らぐのだ。

    我々は何もすることがなく暇になると苦痛を感じる。
    そこに陥るくらいならば、苦境にすら身を置く。
    それはこの苦境が、記憶という傷跡の参照を止めてくれるからだ。
    退屈とは「悲しい」「嬉しい」といった一定の感情ではなく、
    なんらかの不快から逃げたいのに逃げられない、そのような心的状況を
    指していると考えられる。

    −−−
    ここまで全体の内容を概観したが、
    そもそも私がこの本を読もうと思ったのは
    ここでいう第二形式の退屈がつらかったからである。
    そしてその根本には第三形式の退屈もある。

    ショーペンハウアーは「人生は苦悩と退屈しかない」と言った。
    ハイデッガー以外にもパスカルや多くの思想家が
    「退屈」に挑んできた。
    それほどに退屈とは人間を悩ませ、縛ってきたと言える。

    本書を読み終えて自身の退屈についての悩みが解消したかといえば、
    素直に頷くことはできないように思う。
    たしかに、これまで漠然としていた退屈への不満が
    少しはっきりとした輪郭を持つようにはなった。
    だが、相手の正体が少しわかったところでそれを倒せるかと言えば、
    それはまた別の話なのだ。
    多くの思想がが挑んできた問いだ、一筋縄ではいくまい。

    私も「人生は死ぬまでの暇つぶし」だと思っている。
    その暇つぶしを最大限楽しいものにしていくしかない。
    そこには諦めと虚しさがあるのも確かだ。

  • わたしはこの本が昔から好きで、通読するのはおそらく三度目(大学生・社会人なりたて・そして今)なのだけれど、読めば読むほど面白い。ますます今の自分にぴっったりと当てはまる本になってきている。昔はハイデガーの退屈の形式分析(第一形式〜第三形式など)に「こんな風に分析を加えられる哲学っておもろい」と感じていた記憶があるのだけれど、微妙に読解力が上がったからか、今回読んだ時には人間の環世界移動能力と退屈論を結びつける手つきの鮮やかさ、そこからいかに生きるべきかの人間論へと結末が飛躍していく部分が素晴らしく、まさしく倫理学だとおもった。
    というか、この本の主眼はそこにはないが、わたしはこれがおそらく、自分の考えているオタクについての問題に転用できる可能性があるのでは、と本を読みながら考えていた。それには能力も胆力も全く足りていないので、自分がそこまでいずれ到達できるかは不明なのだけれど、すごく雑にくくるなら「〈人間であること〉を楽しむことで〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる」のがこの本のある種の結末だとすると、オタクは「〈人間であること〉を楽しむことを留保して、ひたすら〈動物になること〉を追い求めている」と言えるような気がしている、一応メモしておく。
    特に國分功一郎さんの仕事を精力的に追いかけているわけではないが、この本にはおそらく自分のなにかぼんやりと考え続けていることに関わる重要なことが書かれている。だから、何度も気になり、繰り返し読んでしまっている。

  • 人間が退屈とどう付き合っていけばいいかについて論じた本。過去の哲学者たちの退屈を批判的に検討しつつ、特にハイデガーの環世界批判と退屈の3形式を下敷きにし、著者は結論を導く。

    0. 人間は習慣を作り出すことで環世界を構成し、認知コストを下げている。しかし、それゆえに気晴らしと退屈の入り混じった生を生きる。習慣が新しい物事によって破られることで、人はそれに一時的にとらわれる(その対象についてのみ考える、動物化)が、そのうち新しい習慣=環世界を創造する。
    1. 自分で理解する過程を通じて何かが変わることが暇と退屈の倫理学の第一歩である。
    2. 贅沢を取り戻すために、消費ではなく浪費を行う。浪費=物を受け取って楽しむには、受け取る能力を拡張するには、訓練を必要とする。気晴らしを存分に享受できないと、消費と退屈の無限ループに陥る。
    3. 人間は高い環世界移動能力を持っているから、新しいものにもすぐに慣れてしまう。そこで、すぐに戻ることのない動物化の対象を受け取れるようにすると良い。そのために、決断の奴隷にならず、物を享受する生活の中で「思考を強制するもの」を受け取る余裕を持つことが前提となる。
    4. 自分が何にとりさらわれるかは、自分で探すしかない。それが発生しやすい条件がわかると待ち構えることができる。(習慣を作ることからもわかるように)思考をしたくないのが人間なので、自分に思考を強制するものを探すのも訓練が必要である。

    人間は生まれながらに興味のあるものないものが決まっている訳ではない。例えば、学問を学ぶことも、物事を楽しむ能力を拡張していくことと捉えられる。

  • 今日読み終わりました。プレゼント用で5冊買いました。

  • 「用が無いのに慌てふためきつれえのなんの 用が無いから働いて疲れたよ」という天才的なフレーズではじまるエレカシの名曲〈ひまつぶし人生〉は本書で紹介される退屈の第一形式(日常の仕事の奴隷になっている状態)に陥っている自分を客観的にあざ笑い、開き直り、途中から逆ギレみたいなことになっているが、そのじつ、この世に消費させられまいとする強固な意志がふしぶしにみなぎっており、人間らしい第二形式を通り越し〈動物になること〉の可能性すら感じさせる。楽曲としては、聴く者の心を動かす美があり、エレカシを浪費することによって、わたしの退屈は豊かになるのだ。

    なかなか難しい本だったため、備忘録がわりに自分にとって最も身近な具体例に落とし込んでみました。

  • 退屈との共存を余儀なくされた生をどう生きるか
    →贅沢を取り戻すこと
    贅沢=浪費すること=必要の限界を超えて物を受け取ること

    物を受け取ること=その物を楽しむこと
    例 衣食住や芸能芸術娯楽

    ラッセル「楽しむためには訓練が必要」
    訓練が必要なのは教養を必要とする娯楽だけでなく
    食のような身体に根差した楽しみも同じく訓練を必要とする→だからこそ、そのような日常的な楽しみにより深い享受の可能性がある

    アベンジャーズ エンドゲームを見て小ネタが理解出来ず自分には教養がないと思っていたが、このことかと膝をたたく。教養が無いのは勿論、その前に訓練が必要だったんだ。

  • 様々な哲学者の思考を辿っていく過程が面白い。これを読むと伊藤計劃のハーモニーをより実感できる。しかし原発事故の後処理や高齢化社会などの日本の問題を考えると退屈は贅沢な悩みだ。危機感を感じてない日本人はまさに資本主義の奴隷である。


  • 内容は難しいのかもしれないけれど、説明が丁寧で繰り返しまとめてくれるため、かなり読みやすくなっています。一方的に聞く、というよりも國分さんと対話してるような感覚でした。とっっっっても面白かったです。

  • なんか忙しくしてた自分がバカっぽく感じてしまった。
    忙しくて考える暇がないことを選択してたんだろうなー

  • 『中動態の世界』を読んで、筆者の他の本も気になり、雑感を適当に…

    環世界に適応しすぎる人間の運命が退屈からの逃避をひきおこす。
    人間がある環境から別の環境に適応しすぎる、その能力が過剰にあることが問題となるという視点は資本主義社会の問題点と類似している。

    資本主義社会においては生産能力の過剰がバブルと恐慌という循環をもたらし、膨大な失業者を生み出し、資本の再編によって資本の集中、そして寡占や独占という形で資本家が支配力を持つようになる。

    そうした現象の問題は生産能力が足りないことではなく、過剰だということだ。
    例えば、レオ・ヒューバーマン著『資本主義経済の歩み上下』(岩波新書)にて1929年の世界恐慌を以下のようにまとめている「西方の世界は、豊富の中の貧困という矛盾に直面した」(216頁)
    「豊富の中の貧困」というこの言葉はそれを端的にあらわしているように思える。

    本書でも経済に関してそうした指摘はあるが、それだけではない。
    現代特有の問題点を指摘している。
    それは「消費」の問題だ。
    ボードリヤールは「消費」と「浪費」は異なるとして、現代は「消費」しかできない。
    確かに現代では物がありあまっている、しかし本当に自分たちが必要な物はわずかしか生産されていない。その希少性こそが現代の特徴であり、物が足りない社会だという。
    大衆消費社会とは、観念や意味の「消費」をし続けさせる社会であり、同時に「浪費」によって人々が満足するのを妨げる社会だ。
    さらに、消費の論理は「労働≒生産」をも覆っている。
    つまり、「働くことで生きがいを得る」というような観念を労働者も消費しているという。

    ルドルフ・シュタイナーは『経済学講座』(ちくま学芸文庫)において、経済を一つの有機体として捉え、それは「生産」、「流通」、「消費」の循環という形で論じている。
    資本主義社会批判には上記の分類で言えば、
    資本の拡大再生産という「生産」に関する批判、
    生産拠点のグローバル化という「流通」に関する批判、
    そして大衆消費社会、つまり「消費」に関する批判がある。

    本書はこの「消費」から「生産」へのつながりを暇と退屈という視点から捉えなおすことで、資本主義社会の別の可能性にも触れている。

    後半の退屈の第二形式から環世界の話へとつながり、補論にてサリエンスの話へとつながっていく所は今後も気になる。
    定住革命に関するところも素晴らしい。
    技術の進歩こそが全てを解決するという単純化された人間の歴史を根底から見直すことにもなる。
    退屈の第一形式=第三形式のサーキットにおいて、一方でのテロと一方での全体主義が結びつく。
    エーリッヒ・フロム著『自由からの逃走』(東京創元社)とは異なる、自由≒退屈に耐えられない人間を描いている。

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著者プロフィール

1974年、千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学を経て、現在東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専門は哲学・現代思想。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、増補新版:太田出版)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)、『来るべき民主主義』(幻冬舎新書)、『近代政治哲学』(ちくま新書)、『民主主義を直感するために』(晶文社)、『中動態の世界』(医学書院)、『いつもそばには本があった。』(互盛央との共著、講談社選書メチエ)など。訳書に、ジャック・デリダ『マルクスと息子たち』(岩波書店)、ジル・ドゥルーズ『カントの批判哲学』(ちくま学芸文庫)などがある。『暇と退屈の倫理学』で第2回紀伊國屋じんぶん大賞、『中動態の世界』で第16回小林秀雄賞を受賞。

「2019年 『原子力時代における哲学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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