暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

著者 :
  • 太田出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (440ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784778314378

作品紹介・あらすじ

旧版『暇と退屈の倫理学』は、その主題に関わる基本的な問いを手つかずのままに残している。なぜ人は退屈するのか?-これがその問いに他ならない。増補新版では、人が退屈する事実とその現象を考究した旧稿から一歩進め、退屈そのものの発生根拠や存在理由を追究する。新版に寄せた渾身の論考「傷と運命」(13,000字)を付す。

感想・レビュー・書評

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  • 暇とは「何もすることがない、する必要がない時間」を指す、客観的条件である。
    退屈とは「何かしたいのにできない」という感情や気分、つまり主観的な状態のことである。

    暇と退屈の関係については次のように整理できる。
    ①暇があり退屈である
    ②暇があり退屈でない(=有閑階級)
    ③暇がなく退屈でない(=労働階級)
    ④暇がなく退屈である

    本書ではとりわけ④について、ハイデッガーをメインに
    何人かの思想家を引き合いに出しながら論が深めてられていく。

    なぜ「暇がないが退屈」という状態がここで深堀りされるのか。
    それは現代の多くの人々がそのような「退屈」を感じているはずだからだ。
    仕事に忙殺されているが、どこか満たされない。退屈だ。
    そう感じている人はいまや数え切れないほどいるのではないだろうか?

    消費社会においては、物の生産は消費者の都合ではなく
    生産者の都合によって行われる。
    消費者の側に欲しい物があって、それを生産者が供給するという構図ではない。

    フォーディズムの時代では、高品質の製品を低価格で提供すれば
    同じモデルでも商品が売れ続けた。
    しかし現代において、スマートフォンがモデルチェンジをしないと売れないのは、
    人々が新しいモデルではなく「モデルチェンジした」という観念を消費しているからだ。
    この消費スタイルによって、生産体制も
    「絶えざるモデルチェンジ」をせざるを得ないものになっている。

    消費によってもたらされるのは贅沢ではない。
    消費には限界がないから、それは延々と繰り返される。
    そしていつまでも満足はもたらされず、消費は過剰に、過激になっていく。
    仕事すら消費の対象となって、やりがいもなくただ労働の奴隷となっていく。
    これがおおまかな現代の「退屈」、満たされなさの構造だ。

    ここでハイデッガーの退屈論に移りたい。
    ハイデッガーは退屈を3つの形式に分けた。
    ①何かによって退屈させられること(第一形式)
    ②何かに際して退屈すること(第二形式)
    ③なんとなく退屈だ(第三形式)

    第一形式は単純で、たとえば人を待っている時間とか、
    「何かによって退屈させられている」という受動的な状態である。
    これは冒頭の「暇があり退屈している」状態に対応する。

    第二形式は第一形式から一歩進んで、何かに退屈させられているときに
    気晴らしをしたとする。その「気晴らし」に退屈することである。
    気晴らしに飲み会に行った。目の前のお酒は美味しいし、お喋りも楽しい。
    しかしふとした瞬間に空虚を感じる。
    第二形式では気晴らしと退屈が独特の形で絡み合っている。
    退屈を払いのけるためのものが退屈になってしまっているのである。
    「暇はないが退屈している」状態といえるだろう。

    この第二形式こそ、我々が普段もっともよく経験する「退屈」だ。
    仕事も高尚な趣味も、突き詰めればすべて
    人生の退屈な時間を埋めるための行為であって、
    その中にあってなお我々は退屈を感じてしまうのではないか。
    「人生は死ぬまでの暇つぶし」とはよく言ったものである。
    生きることとはほとんど、こうした退屈と気晴らしの絡み合った状態に
    際することにほかならないのではないか?

    第三形式は、ハイデッガーによれば自分の中から聴こえてくる
    「なんとなく退屈だ」という声だという。
    この内なる声から、第一形式・第二形式の退屈が発生するのである。
    第一形式において退屈を感じるのは、「時間を無駄にしたくない」という
    気持ちがあるからだ。
    時間を無駄にせず、日々の仕事(あるいは趣味)に時間を使いたい。
    なぜ仕事や趣味に時間を使いたいのか?
    それは内なる「なんとなく退屈だ」という声から逃れたいからである。
    同じように第二形式で行われた気晴らしも、この声から逃れたいから行うのである。

    ハイデッガーの退屈論の結論としては、第三形式まで深めた退屈に際して、
    そこから自由な決断によって己の人生を切り開け、ということである。
    そんな無責任な…ということで、本書はさらに退屈について考察を深めていく。

    ハイデッガーは、人間は退屈できるのだから自由であると考えていた。
    それだけでなく、人間だけが退屈するのであって、動物は退屈しないと考えていた。
    その根拠を、理論生物学者ユクスキュルの「環世界」という概念を批判し考察した。

    「環世界」とはそれぞれの生物が一個の主体として経験している、具体的な世界のことだ。
    犬には犬の、虫には虫の環世界がそれぞれある。
    ハイデッガーは人間に環世界の概念を適用することを認めなかった。
    ハイデッガーにとって人間は何よりも特別であり、
    環世界にとらわれない“自由な存在”であるからだ。
    動物はそれぞれの環世界に<とらわれて>おり、
    刺激や衝動に対する反応によってしか彼らの世界を感受することができない。

    しかし人間に環世界を認めないというのは、いくらなんでも苦しい主張だ。
    人間も、たとえば天文学者と素人では、同じ空を見ても
    まったく違う世界を見ていることだろう。
    ただしこの環世界をめぐる議論において、人間と動物を比べるとするなら、
    それは人間が相対的に環世界を移動する能力が高いという点だろう。
    素人でも、天文学の知識をつければ、以前とは違う環世界で空を見ることができる。

    ハイデッガーが見落としていたこの点について、著者はこれを
    「環世界間移動能力」と名付けている。
    人間はひとつの環世界にとどまっていられず、相当な自由度をもって
    環世界を移動できる。だからこそ退屈するのである。

    人間の環世界において大きなウエイトを占めているのが「習慣」である。
    環世界が移ると、新しい環境になじむために「考える」ことを強いられる。
    「このあたりには何があるのか?」「だれと仲良くなればいいのか?」
    そうやって考えていくなかで、習慣が創造される。
    習慣が獲得されることで、考えて対応するという繁雑な過程から解放される。
    しかし、習慣を作り出すと今度は退屈がやってくる。
    習慣を作らねば生きていけないが、そのなかでは必ず退屈してしまう。
    だからその退屈をなんとかごまかすために気晴らしを行うのだ。

    本書全体の結論として、次の3つが挙げられている。
    ①自分なりの「暇と退屈」の受け止め方を涵養する
    ②衣食住や娯楽・芸術を楽しむ訓練をすること
    ③動物のようにひとつの環世界に<とらわれ>、思考する

    本論では人間が退屈するという事実を前提としていたとして、
    増補版の付録として「人間はなぜ退屈するか?」という基本的な問いについて取り上げている。
    退屈の発生根拠や存在理由についてである。
    以下その内容についても触れたい。

    人間は新しい環境に際して、習慣を創造することで安定した生を確保するのだった。
    習慣、つまり慣れとは反復により予測を立てることである。
    ドアノブを回せばドアが開く。
    人間関係においても「この人はこう言うとこう反応する」という反復構造を見出し、
    予測することで相手との関係を築いていく。

    ここで、慣れることが到底不可能であるようなものに遭遇した場合、人はどうなるのか。
    たとえば痛み。ある研究において、慢性疼痛の患者は急性疼痛に「快」を感じるらしい。
    慢性疼痛の痛みも和らぐのだという。
    痛みの慢性化は記憶と結びついている。
    身体組織としては完治しているにもかかわらず痛むのは、
    脳の「デフォルト・モード・ネットワーク(安静時に作動する部位)」が
    痛みの記憶を参照するためであるという。

    安静時の覚醒度合いが低い状態にあると、
    脳が記憶のほうを参照してしまうため痛みを感じる。
    一方で外部から急性疼痛が与えられ覚醒度合いが高くなると、
    記憶は参照されず痛みが和らぐのだ。

    我々は何もすることがなく暇になると苦痛を感じる。
    そこに陥るくらいならば、苦境にすら身を置く。
    それはこの苦境が、記憶という傷跡の参照を止めてくれるからだ。
    退屈とは「悲しい」「嬉しい」といった一定の感情ではなく、
    なんらかの不快から逃げたいのに逃げられない、そのような心的状況を
    指していると考えられる。

    −−−
    ここまで全体の内容を概観したが、
    そもそも私がこの本を読もうと思ったのは
    ここでいう第二形式の退屈がつらかったからである。
    そしてその根本には第三形式の退屈もある。

    ショーペンハウアーは「人生は苦悩と退屈しかない」と言った。
    ハイデッガー以外にもパスカルや多くの思想家が
    「退屈」に挑んできた。
    それほどに退屈とは人間を悩ませ、縛ってきたと言える。

    本書を読み終えて自身の退屈についての悩みが解消したかといえば、
    素直に頷くことはできないように思う。
    たしかに、これまで漠然としていた退屈への不満が
    少しはっきりとした輪郭を持つようにはなった。
    だが、相手の正体が少しわかったところでそれを倒せるかと言えば、
    それはまた別の話なのだ。
    多くの思想がが挑んできた問いだ、一筋縄ではいくまい。

    私も「人生は死ぬまでの暇つぶし」だと思っている。
    その暇つぶしを最大限楽しいものにしていくしかない。
    そこには諦めと虚しさがあるのも確かだ。

    • dattsuさん
      素晴らしいレビューありがとうございます。そもそも、暇と退屈という違うレイヤーのものが列挙されている意味がピンとこなかったので、冒頭の文で理解...
      素晴らしいレビューありがとうございます。そもそも、暇と退屈という違うレイヤーのものが列挙されている意味がピンとこなかったので、冒頭の文で理解ができました。

      本書のインプリケーションや、どういう問題に焦点を当てているのかが、平易で簡潔な文でよく理解できました。
      2022/03/01
  • 「退屈」について思うところあり、約5年ぶりの再読。いつか再読したいとずっと思い続けてきた本だったので、また読む機会を持てて嬉しい。

    本書は「退屈を消滅させるためのマニュアル」ではない。
    そうではなく、「退屈とは一体なんなのか?」「どういう状況で発生し、どのような構造になっているのか?」といった事柄を、過去の哲学者たちの思考を参照しつつ解明した上で、「じゃあどうすればいいのか?」と読者と一緒に考えていく本である。
    そして最後には結論らしいものが出されるのだが、「これさえあれば永遠に退屈を終わらせることができます!」という類のハウツーが開陳されるわけでもない。

    じゃあ「役に立たない」のかと言えば、いや、役に立つ。
    ただし、書かれている内容を自分の目で読み、よく噛んで飲み込み、腹に落とすことができれば。そのプロセスを経ることで、自分なりの「退屈と付き合うヒント」が見つかるのではないか、と思う。(たとえば『センス・オブ・ワンダー』や『我と汝』などは、限りなく答えに近いものを提示していると僕は思う)

    この社会では、退屈でいることはそれだけで危険だ。
    「退屈を紛らわしたい」と漠然と思っていると、その心理につけ込まれ、時間・金銭・注意力が奪い取られていく。世のビジネスの多くは、「退屈」と「承認欲求」のどちらか、あるいは両方を狙い撃ちしているのではないか。
    そうした危険から身を守るためにも、退屈との付き合い方を自分なりにつかんでおくことは大切だ。本書は、そのための手引きになると思う。

    以下は抜粋。


    ・消費者が受け取っているのは、食事という物ではない。その店に付与された観念や意味である。この消費行動において、店は完全に記号になっている。だから消費は終わらない。(p.153)


    ・退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。(中略)これは人間が辛抱強くないとかそういうことではない。能力の余りがあるのだから、どうしようもない。どうしても「なんとなく退屈だ」という声を耳にしてしまう。(p.254)


    ・味わうに値する食事は大量の情報を含んでいるため、それを身体で処理するのに大変な時間がかかる。つまり、味わうに値する食事は結果としてゆっくり食べられることになる。(p.412)


    追記:意味を求めるのは、退屈だからだ。そして、意味を求めてしまうから、無意味さに絶望もする。だからこれは、ニヒリズムを乗り越える道でもある、はず。

  • めちゃめちゃおもしろかった。読みやすく書いてくれてるのでオススメです。

    無意識に消費社会の奴隷になることなく、"自分らしく生きる"を考えたい人に道筋を示してくれる本だと思います

  • 保護者が子どもに教えられるのは、人生が過ぎる間の暇つぶしの方法くらいではないか、という考えを聞いたことがあって、ずっと胸に残っている。
    たかが暇つぶし、されど暇つぶし。
    本書にも書かれているのだけど、娯楽(芸術や食なども含めた広範囲で私は今この言葉を使っています)楽しむためには下地が要るものも多い。
    その下地は、もちろん本人がその気になれば後から身につけることもできるけれど、保護者がこんなもももある、と色々紹介しておくだけでも違うんだろうなと思う(そこにはまた経済格差などの問題も見えてくるのだけど、ひとまず今は暇と退屈に戻る)。
    こんなにも、おそらくは人類史上最も暇つぶしが溢れていそうなこの世の中で、でも多くの人が退屈しているんだろうなと思う。
    それが現代の問題の一つの根っこでもあるんだろう、と読みながら感じた。
    暇と退屈を中心にしっかり据えつつ、哲学の流れもわかりやすく書かれていてとても面白い本だった。
    再読したい。

    • 1600099番目の読書家さん
      自分たちが仕事を辞めて、老後の有り余る時間をどう過ごすのか、考えると恐ろしいですね。
      自分たちが仕事を辞めて、老後の有り余る時間をどう過ごすのか、考えると恐ろしいですね。
      2021/09/03
  • 図書館で福袋を配っていた。司書の人が選んだ本が3冊入っているという。何が入っているかはお楽しみというので借りてきた、この本はその中の1冊。大人の男性向けの福袋だという(女性向けはもうなかったので男性向けをもらってきた)。

    暇でも退屈でもないんだがな、しかも分厚いし…と思いながら読み始めた。哲学なんてものは所詮頭の体操みたいなもので読む間ぐるっと一巡りして結局読み終わったらなにも残らないし、と思ったし、ある意味それは当たっていたけれど、でも面白かった。

    読み終えても世の中は何も変わりなく平常運転だ。私の頭の中が少し変わったのかどうか…。

    様々な哲学者や考え方を縦横無尽に駆使した論考は面白く勉強になった。

  • 人は退屈につきまとわれる。この退屈の苦しみを克服するにはどうしたらいいのか。
    このテーマを、パスカル、ルソー、ラッセル、ハイデッカー、ユクスキュル、マルクス、ジル・ドュルーズら過去の哲学者たちの論考を援用しながら考察した哲学書。

    パスカルが信仰、ラッセルが熱意、ハイデッカーが自由に気づきそれに飛び込むこと、とした答えを批判的に読み解きながら、本書の答えは浪費すること=贅沢をすること、楽しむこと(「浪費」「贅沢」の意味は一般に使われている用法と異なるので、本書の定義を理解することが必要)、であるというのは、先人たちの結論と同様、やや肩透かしな感じがある。
    特に、楽しむことが、物ではなく記号を消費している現代の消費社会、そのために商品が頻繁過ぎるモデルチェンジを余儀なくされ雇用の不安定に繋がっている問題をどう解決に向かわせるのかについては、もっと考察と記述が欲しかった。

    それでも、人間の課題に誠実に向き合い、思考を重ねた著作であることがよく伝わってきて、とても読み応えがあった。残された課題も読者と今後に開かれているのだと思う。
    追加された付録も説得力があり興味深かった。今後の著作も読んでいきたい。

  • 哲学科を卒業して数十年後に、哲学はおもしろいなと思わせてくれる本を読んだ。なるほどと思うところもあり、自分はそういう整理はしないなと思うところもありで、多くの思想家の考えを素材にしながら、暇と退屈について自分事として考えられる面白い本。

    ヒトは定住する前は遊動していたから、今まで発揮していた能力の使い先がなくて退屈してしまうんだとか、消費はモノではなくて概念を手に入れることだから決して満足できないとかは、あーそうかもね!と思った。その一方で、個人はそんなに簡単に環世界を行き来するだろうか、ひとつの環世界のなかでギアが変わるんじゃないだろうか? 「贅沢を取り戻そう」って、取り戻すもなにも贅沢なんて知らないよって人もいるんじゃないか、それは届く言葉なのか?と思ってみたり。

    おもしろいなと思って読んでいたのだが、自分はふだんほぼ暇とも退屈とも感じていなくて、常にタスクをどうやって終わらせるかばかり考えているのだった。精神的に、わりと遊動生活時代の原始人かもしれない。

  • やる事があるのに、忙しいのに、なぜかふと考える「退屈だな…」という感情。古今東西の哲学者もいろいろ考えていたようで、その思考を噛み砕いて提示してくれる本。ハイデッカーのおかしみに気づき、同時にゾッとするような深淵にいることに気づく。退屈を感じると人はどういう行動に出るのか?それはどういう結論に至るのか?退屈から抜け出すためには?「疎外」を考えるときに自動的に出てくる「何からの疎外なのか=本来性」を考えない、という議論が新鮮だった。増補新版の傷と痛みについての章もかなりサリエント。動物になれる一冊です。

  • 一部少しついて行けない部分があったので★4としたが、大部分の理解出来る部分では、目から鱗とは、こう言うことを言うのだろう、大変興味深い論理展開で、★5に相応しい。これが哲学の面白いところなのかな。

    「暇」と「退屈」という二つの語は、しばしば混同して使われる。「暇だな」とだれかが口にしたとき、その言葉は「退屈だな」と言い換えられる場合が多い。そして、「あなた暇人ね」とか「退屈な人」なんて言われると、超落ち込んでしまうくらい、ネガティブな言い回しに使われる。

    しかし読み進めると、暇と退屈は同じものではないらしい。
    暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇のなかにいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。つまり暇は客観的な条件に関わっている。
    それに対し退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は主観的な状態のこと。

    しかし、暇があるとは余裕があるということだ。余裕があるとは裕福であるということだ。すなわち、あくせく働いたりしなくても生きていける、そのような経済的条件を手に入れているということだ。
    逆に、暇のない人たちとは自由にできる時間がない人、つまり、自らの時間の大半を労働に費やさねば生きていけない人のこと。暇のない人とは、経済的な余裕がなく、社会的には下層階級に属する。いわゆる「貧乏暇なし」のこと。
    ここで膝を打つことになる。

    かのハイデッガーも、この退屈に関して、かなり深く追及しており、3つの形式があると言う。
    何かしら深淵な様相を呈することになるが、退屈を紛らすために気晴らしを行う中にも、何やらぼんやりとした退屈さが現れる。これこそが、人間の生ではないかと言う。

    暇や退屈について考えたことも無かったが、古くから哲学者が、定義付けを考えるほど深いテーマだと言うことが分かった。
    退屈を大切にしなければ。

  • 「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」

    【感想】
    ・帯の一文にしびれた。「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」今の時代に人として生を受けた時点で、皆、ただ生きてさえいればいい、というもんじゃない。疫病も戦争も飢餓の心配の無くなった人々には、日々を彩る、精神的な豊かさは必要だな、と常々思っていた。(ハラリのホモデウスにも似たようなことが書いてあった気がする。)その考えが、帯の洒落た文で言い表されており、感動した。このフレーズに会えただけで、本書を買った価値はある気がする。
    ・きちんと頭を使って読まないと理解できない本。論が多くて全て理解していこうとするとそこそこ難しい。著名な哲学者や思想家のコンセプトを引用し、「これはおかしい」といって批判する。その過程で、「暇」「退屈」に対する理解を深めていく、という本。そのため、各所の引用が、何を言っていて、どう筆者は批判しているかの論理構成を抑えないと、本書から知見を得るのは難しい。著名な思想家や哲学者のコンセプト理解の素養が無いと、まともに批判するのも理解するのも難しい
    ・audiobook.jpで読了。哲学書としては異例のベストセラーとなった本らしい。だから、audiobook.jpにもあったのだろうけれど。「暇と退屈」という現代人の悩みに刺さるコンセプトがテーマになっていたからだろうか。この手のアカデミックな単行本は、やはりオーディオブックと相性がよろしくない
    ・インプリケーションを求めて読むより、哲学や思想家への知識素養がある人が、著者の反駁プロセスを面白がって読む方が良さそう

    【本書の構成】
    序章 「好きなこととは何か」
    第一章 暇と退屈の原理論ーウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
    ■物ではなく行為による気晴らしを求めている
    パスカルの気晴らしの条件→熱中できること
    第二章 暇と退屈の系譜学ー人間はいつから退屈しているのか
    ■定住生活を始め、農業を始め、資産を有するようになった。
    時間が余り、退屈を感じるようになった
    第三章 暇と退屈の経済紙ーなぜ”ひまじん”が尊敬されてきたのか?
    ■ウェブレンの引用 
     有閑階級の理論。必要ないコトまでできてることを顕示できていることこそ、豊かさの証であった。
         →現代人には、暇があっても、それを楽しむ素養が無い
     
    第四章 暇と退屈の疎外論ー贅沢とは何か?
    ■ボードリヤールの引用
         広告によって、永遠と消費喚起される時代。飽くことを知らず、新製品、新商品を求めさせられ続ける。常に、今に退屈し、新しいものへの欲望を喚起させられる消費社会の到来
         ・消費は、無限であり、終わりがなく、満足しない
         ・浪費は、有限であり、終わりがあり、満足する

    第五章 暇と退屈の哲学ーそもそも退屈とは何か?
    ■ハイデッガーの暇の第三形式
        第一 何かによって退屈させられる
           →校長のつまらない話を聞かされる。思わぬ待ち時間が発生する
        第二 何かに際して退屈する
           →気晴らしをしようと誰かに会ったり、パーティに行っても、退屈する
        第三 何となく退屈だ
           →いつ何時でも、人は退屈を感じ得る

    第六章 暇と退屈の人間学ートカゲの世界を覗くことは可能か?
    ■ユクスキュルの引用ー環世界の議論
         トカゲにはトカゲの、ダニにはダニの見えている、感じている世界があり、それは人間と異なる世界である。それぞれの動物が固有に感じ、認識している世界のことを環世界と呼ぶ
         人は、高度な環世界移動能力を有する。
         Q.何故、高度な環世界移動能力を有していると、退屈を感じやすいのか?
      →より良いこと、より面白いことを想像し、認知し、今の現状に失望、退屈してしまう。今の世界に、没頭しきれない。今の世界を、面白がりきれない


    第七章 暇と退屈の倫理学ー決断することは人間の証か?
    ■ハイデッガーの引用を批判
         退屈から逃れるために、決断をするのでは、人が決断の奴隷になるだけだ。それでは、労働上の奴隷になるのと変わらない。
        そうではなく、退屈の第二形式「何かに際して退屈する」ことを面白がっていくようにしよう

    結論
    1.「暇と退屈」に関して自分なりの受け取り方、テーマを磨け
    2.消費をやめて、浪費せよ。自分のアタマを使って考え、面白がれ
    3.何かの世界の動物になれ。一つの世界に没頭せよ

    →大前研一の「知の衰退からいかに脱するか」カラオケ資本主義批判を思い出すな。誰かが作ったパッケージの上で一喜一憂するのではなく、自分の手と思考によって、面白さを創り出せ、という。
     
    付録 傷と運命
    ???

    哲学、思想家への理解が深い人が、読むと、以下のような感想を抱けるのだな。
    ■ハイデガーと決断――『暇と退屈の倫理学』をめぐる國分功一郎さんとの質疑応答1(平岡公彦氏)
    https://kimihikohiraoka.hatenablog.com/entry/20120224/p1

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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