- Amazon.co.jp ・本 (271ページ)
- / ISBN・EAN: 9784778314460
感想・レビュー・書評
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著者の本は難解なものが多く、途中で放り出してしまうことも多々あった。
しかし本書は題名にもあるとおり、「なぜムスリムになったのか」が述べられており、大変読みやすかった。
著者と妻について記述が処々にある。妻の死後、妻はどこに行ったのかと著者が考えていたというエピソードは、目頭が熱くなった。
個人的には、非ムスリムではあるが、イスラームを分かりやすく説明する学者は、内藤正典先生だと思う。
内藤先生の本で勉強してから、著者の本を読むと分かりやすいかもしれない。
著者に関わった人間が著者について述べている項目もあり、興味深い。
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イスラームについてや中田考さんの人生についてのインタビューを手記のような形でまとめたもの。イスラーム研究者じゃなくてムスリムとして内側からイスラームを捉えてる人の見解で、外から見ていたという意識すらなかったおれに大きな衝撃を与えてくれた。彼が教わった学生たちの書いたものもあり、日本でムスリムとして生きるってのはどういうことか、イスラームの研究者として生きるってのはどういうことかってのが垣間見えた。中田さん奥さんを亡くしてたってことに絡む話も出てて、なんかそこはイスラームの論理では悲しいことではないんだろうけど悲しい気持ちになった。
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「みんな違ってみんなダメ」が面白かったので、
よりイスラムに突っ込んだ話が読めると思い購入。
相変わらずラディカルで面白い。
筆者の方はイスラームになったということだが、
客観的な目線を常に忘れておらず、イスラムの考え方と、
キリスト教や欧米資本主義の考え方との違いや、何が正しいのかについて、哲学的アプローチで極めて論理的に解釈をしようとしている。
自分に染み付いた西洋的な価値観や教育によってはめ込まれた思考の枠組みを、我々はどれだけいったん外して考えられるのか。
筆者は極めて挑戦的に我々に挑んでくる。
自由とは?
国家とは?
自己実現とは?
宗教による救いとは?
イスラム教を通じて、考えさせられる非常に面白い本だった。
エジプト、サウジアラビアあたりを旅行してみたくなった。 -
著者の半生史をつづった部分が面白い。入信したのに劇的なきっかけはなかったこと。留学時代のサラフィーの家庭教師、妻との出会いなど。
「アラーはわれわれよりもはるかに鮮明な人格」であり、真実を追究していくと無にいたる東洋思想では理解できないという(p175)。これは、ウィルバー「構造としての神」にあった東西のさまざまな宗教や神秘思想が通底する構造を持っているとする考え方とはまったく相容れないもので、これが本書を読んでの驚きであった。
カリフ制国家はムスリムにとってのアジール(避難所)であり、今の世界でムスリムであれば誰でも受け入れるといっているのはイスラム国しかないという。ただカリフ制が実現しても、国家の力をバックにしたグローバル経済には負け続けるだろうという。もちろんそもそも紙切れであるマネーに意味はないとするのだが。
実質的な第二著者といえる田中真知の解説と対談が面白い。宗教には、悩みの解決、自己実現が期待されているのではないかと問う田中。悩むこと自体が病だ、来世で救われればいいのだと答える中田。自己実現に価値をおくのは、人間を個性や能力で評価することで、それはエリート主義だと。イスラームは生活に精一杯の人々をも救う万人のための宗教であると。 -
今まで知らなかったイスラム教の世界。
今まで自分は、いつのまに(生まれた時から、だろう)西洋的価値観にどっぷり浸かって生きてきたんだな、と再確認。
優しく、寛容で、(いい意味で)ルーズな宗教。まさしく今の時代に求められるDEI(Diversity, Equity, Inclusion)を体現しているな、と。
本来のイスラム教世界(イスラム共同体、ウンマ)は、多様性を大事にする真のグローバリズムを成し遂げていた。それが近代以降の西洋的価値観(領域領民国家)が流入してきたことにより、そんなイスラム教世界のグローバリズム性は失われ現代のようなモザイク国家が乱立するカオスな世界に。
筆者は、そんな本来のイスラム教世界を取り戻すためにカリフ制再興を唱えている。
もしも、いつか、カリフ制が再興した本来的イスラム教世界が戻ってきたら、その時は是非ともそんな世界をムスリムとして歩き回ってみたい。 -
国とは? 西洋から来た領域国民国家システム
自由とは?
法律とは?いろんなことを疑い、根本や本質を問うきっかけになった。
イスラームの心の救いや、癒しを目的とはせず、それらは、不随してくることではあるが、本質的なことではない。根本的に重要なのは、生活のすべてを神に従って生きるということ、イスラームとは、人間側の態度を表している。
中田さん曰く、非ムスリムとムスリムでイスラームを勉強すること、イスラームについて知ることと、ムスリムに「なる」こととの間には途方もない違いがある。
アッラーにとって、この世が存在しようが、しまいが、たかが一被造物にすぎない人間がどうなろうと一向にかまわない。しかし、万物が存在しているというのは、アッラーが慈悲をかけてくれたからである、とイスラームでは考える。存在しているとは、それだけでアッラーに慈悲をかけられている。逆に言えば、存在するものは、動物にせよ、植物にせよ、存在することによって、アッラーを賛美している。これがイスラームの基本的世界観。(よく意味が分からない、、、、)
原理主義とはイスラームの根本であるクルアーンとハディースの根本的なところを忠実に大事にするという態度。
中田さん曰く、しょうゆの微量のアルコールや、形式にこだわるのは、個人の裁量でやればよいし、そんな厳密にこだわることは重要ではない。
自由について
現実的にみても、人間が生きる上で必ず制約は存在する。心臓は、自由に止められないし、関節をどの方向にも自由に動かせるわけではない。こうした物理的制約の上に、社会的、経済的、政治的、法的など、様々な制約がある。
自由とは、ドーナツの穴のようです。ドーナツ本体は法あるいは制約を表し、それがないところを自由と呼んでいる。存在するのはドーナツであって、穴が存在しているわけではない。
「この国には自由がある」「この国には自由がない」といういい方には意味がない。自由がある、ないの問題ではなく。国によってドーナツの形が違うというだけのこと。この国では、穴にあたる部分が、ほかの国ではドーナツで占められている。その国に自由がないのではなく、制約の範囲がちがうだけ。
西洋的な意味での、自由という穴の範囲が普遍的である、とする考え方をほかの価値観を持った人たちにも押し付けることによって、問題が生じている。
あるものはどんどん回せ!という考え方は気に入った。
人の内心に干渉しない。イスラームでは人の内心を知るのは神だけ。クルアーンにも詮索してはならないと書いてある。内心の自由は尊重される。
中田さん曰く、日本の神はイスラーム的にイラーハではない。どちらかというと、ジンに近い存在と考えたほうがいい。なのでイスラーム的には、否定の対象にはならない。
自分がどの枠組みから世界を見ているのかを、何かを学ぶ上で、しっかり認識する必要がある。イスラームを学ぶ上で、もし西洋的視点から見ていたら、先入観や偏見が混じって、イスラームの本質、核を見出すことができない。
総じて、イスラームだけでなく、すべての学問や情報を見、考えるときにおいて、自分がどの立場から、どの世界観、価値観、枠組みから、その物事を認識しているか、理解しているかを、顧みることが大切。顧みることで、それらの対象に対して先入観なしに、純粋な状態、本質的な状態から物事をを見れたら良いと思った。
中田さん曰く、イスラーム学はイスラームを知るため学問ではない。イスラームは自分を知る学問。テキストに接することで、どれだけ自分と違うものを見出しうるか、それを知るのがイスラーム学の意味。
だから、イスラームがつまらないとしたら、イスラームがつまらないのではなくて、それを書いているイスラーム学者の中身がつまらないんだそうw
自分と異なるものを学問において見出すことによって、自分の文化、価値観、認識の枠組みを認識、そして、また見方を変える、また異なるものを見出す、、、その繰り返しによって、新たな見方、世界観が、きっと自分の中に現れてくるんだと思う。その過程の中で、自分の物事の認識の仕方や、思考回路、癖、文化や価値観を深く知り、自分のことをよく知ることができるようになるんだと思う。
ハディースに「自分を知る者は神を知る」という一節がある。神を知ることと、自分を知ることは一つ。(意味がわからない、、、) -
生い立ち、幼少期、灘高時代、大学と、生まれ育った環境やご自身の性格などが、とてもわかりやすく伝わってきました。奥様とのなれそめや病没されことにも触れておられ、人生の悲喜交々を包み隠さず記されているところに、著者のお人柄や人間らしさがにじみ出ているように感じました。