世紀末ベルリン滞在記

著者 :
  • 彩流社
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レビュー : 4
  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784779126529

作品紹介・あらすじ

1989年、ベルリンの壁崩壊から30年……

1996年からベルリンに通い出し、
97年からの11年間、
ベルリンを第二の故郷として過ごした著者が、
彼の地で、「異邦人=エトランゼ」として、
何を見て、どんな人種的差別を受けたのか……。

移民を受け入れることが当たり前になりつつある、
グローバリゼーションが推進される現代、
この日本でも、移民をどのように受け入れて、「外国人」と
つきあえばよいのか?

「移民」として「労働」し「難民」として生きた著者の経験は、
大きなヒントを与えてくれるはずである。

時に笑い、時に怒り、時に泣いた!世紀末ベルリンを活写した滞在記。

感想・レビュー・書評

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  • この本には、エリートも平和な国で生まれ育ったひとも出てこない。
    登場するのは社会の片隅に追いやられたひとばかり。
    そんな人々とことばを交わし、心をゆさぶられる経験を重ねた著者による、二十世紀末ベルリン滞在記。

    戦後、ドイツは人種差別を推し進めたナチス時代の反省もあり、積極的に移民や難民を受けいれた。
    一九六〇年代に東西ドイツが分裂すると、労働力は不足し、他国の労働力に頼りはじめた。

    六〇年代に海を渡ってやってきた契約労働者に、長期滞在は認められていなかった。それでも若い移民労働者たちの中には、家庭を持ちドイツに住み続ける選択をした者もいた。
    そして現在、ドイツでは、移民の背景をもつ人が全人口の約四分の一を占める。

    二〇一八年に外国人労働者に広く門戸を開いた日本でも、これと同じことが起こるのではないか、と著者は考える。

    外国にルーツを持つ人が人口の四四%を占める地区に住んでいた著者は、“マイノリティたる移民側からみえる風景”をいくつも見てきた。

    それは例えば、立ち話をするようになった闇タバコを売る移民二世のベトナム人だったり、「イスラエルに対する抗議集会」に著者を誘った同級生のパレスチナ人だったり、夜道で絡まれた麻薬密売人のアラブ人青年の側からみえる風景だ。

    いつしか自分の人生に不満や不安を抱える移民たちを見ると「あれはもう一人の自分だ」と考えるようになっていた。

    一方、日本では、最近よく町ですれ違うようになった労働者風の外国人を「異なる言語を話す異なる人間」と認識している人が多いのではないか。言語、肌の色、食べ物、宗教。数え上げればキリがないくらい、違いに満ちている、と。

    だが、社会的・文化的な背景が異なるだけで、根本は同じだということに気付いている人はどれくらいいるだろうか。
    彼らもわたしたちと同じように、喜び、怒り、哀しみ、楽しむということを。

    人間はありとあらゆるものに優劣をつけたがる。けれどもそれは、国や立場が変われば変わる程度の差だ。
    日本ではマジョリティの日本人も、国際線に乗って別の国の空港で降りてみれば、自分がマイノリティだと自覚せずにはいられない。 大企業の社長もシリア難民も、コンビニのレジの店員から見ればただの客だ。

    まずは著者のように、国籍の異なる友人を作り、その人の立場で物事を考えてみよう。
    外国人を見て「あれはもう一人の自分だ」と思えるようになれば、そして誰もがマイノリティの視点で世界を見られるようになれば、あらゆる差別はなくなるだろう。

    p27
    その昔、日本の仏道修行者は、石を腹に懐いて空腹(押し殺したという。そこから修行者の食事は懐石と呼ばれるようになった。

    p31
    ベトナム人契約労働者の生活はハードだった。工場では名前ではなく番号で呼ばれた。契約労働者の労働契約は四年(一九八七年以降は五年)で、契約が終了するとベトナムに帰国することが前提となっており、長期の滞在権は与えられなかった。求められた技能労働者の年齢は一八歳から三五歳。家族もちでも家族を連れてくることは許可されていなかったが、ベトナム共産党員の党員は例外で、子づれでくることもあった。

    p32
    原則的にドイツ人との懇意のつきあいは制限された。東ドイツ側にしてみると、表向き社会主義国家同士の「同志愛」はあったものの、本音ではベトナム人たちを社会的にとけ込ませるつもりは当初からなかった。不足する労働力を埋めてくれえすればよく、その事情を忖度したベトナム当局側からも、人民同士の関係をよくするための努力は意図的にしなかった。

    p33
    「人間ではなく、労働力としか扱われていない」。このセリフを、わたしはどこでも聞いた。

    p42
    傍観していた市民たちも、一部は暴徒化した。メディアのマイクを突きつけられると、男も女も若い者も老人も、「自分は人種差別主義者ではないけれど」と断りを入れたうえで、みな一様に「外国人のせいで仕事がない、困っているのだ」と答えるのだった。

    闇タバコを介した売り手と買い手の関係とはいえ、同じアジア系外国人の同世代であり、海外にいるとそれだけでお互い安心感を覚えることがある。タムと話をするようになってから、自然とベトナムの彼らに親近感を抱くようになった。と同時に、自分のアイデンティティが日本人という枠からはみ出して、アジア人というもう少し大きな枠のなかへ広がっていく気がした。気持ちがよかった。

    p112
    他国の人間が、自分の国の食べ物を「くさい、気持ち悪い、見た目が悪い 」と感じることは多々ある。カップルや夫婦ですら食べ物の好き嫌いは分かれるのだから、国をまたげば、こんなことはありふれたことだ。だが味覚は広がる。知らなかった味と出会い、うまいと感じ、あたらしい文化が体に入ってくる。そして体はその食文化を育てた風土に対して、無意識に親近感を覚えていく。

    p120
    クロイツベルクの人口約一五万人のうち三分の一にあたる五万人は移民で、その大半はトルコ系だ。ほかアラブ系、ルーマニア、ポーランド、ブルガリアなどの東欧系、ベトナム、中国、韓国などのアジア系の移民たちがいる。

    p127
    北アフリカに位置するチュニジア、アルジェリア、モロッコはアラブ語圏でかつイスラム圏でありながら、ずっとフランスの植民地だった。そのためこれらの国から多くのひとびとがフランスへ移住している。

    p146
    一年前の一九九四年には大規模小売店舗法が改正され、大型ショッピングセンターの幕開けとなった。もともとは大規模店を規制して地元の中小業者を保護する目的の法律だった。この法律が日米貿易格差を大きくし、アメリカが損をしているから廃止しろ、というアメリカ政府の強制的要求があり、それに応える形で改正がおこなわれた。その後、全国津々浦々にみられることになるシャッター通りへの道筋がこの法律により整った。
    同九五年、日経連が「新時代の『日本的経営』」を発表し、非正規雇用を多数とする労働者の階層化を提言した。ねらいは、正規雇用者を減少させて、賃金を抑制することだった。翌九六年、「労働者派遣法」が改正され、雇用の自由化が拡大する。自由の名のもとに雇用が不安定化し、賃金は減少、格差が拡大し、社会は分断され、外国人労働者を多数受け入れていくしかなくなっていく時代へゆっくりとしかし確実に傾斜していく。すべて現在につながる問題の土台が与えられたのだった。

    p147
    一九八九年にベルリンの壁が崩壊し、一九九〇年に東西ドイツの再統一が果たされたものの、旧西ドイツに編入された旧東ドイツの混乱はつづいていた。自由で豊かな西側諸国に希望をみて、壁の崩壊に歓喜した旧東ドイツ市民たちを待ち受けていたのは、資本主義の厳しい現実だった。

    p150
    自由を使いこなすにはセンスとアイデアがいる。

    p165
    否定に否定を重ねた言葉は、自分の行く道をますますせまくしていく。選択の自由がなくなり、現状がぶ厚い壁に囲まれているように思えてくる。その壁をぶち壊さないことには前に進めない。壁がじつは自分が作り上げている幻影かもしれない、という思考など、これっぽちもないのだ。みえない壁は時間とともにぶ厚くなっていく。あげく絶望する。

    p185
    アパートはノイケルン地区にあった。ベルリン南東部に位置する移民の多い地区だ。住民の二五%が外国人で、ドイツ生まれでも両親が外国人か、親のどちらかが外国人であるという背景をもった人間が四四%いる。治安の悪さ、失業率と高さ、教育環境の劣化、子どもの肥満率と虫歯率の高さなど、言葉にすれば「問題の多い地域」とされている。

    p207
    君が世界を変えようとしたように、ぼくも自分なりに理想的な世界を想像してみた。それは敵と味方のいない世界だ。憎しみのない世界をイマジンするということだ。

    p208
    ぼくは、君という存在を知って、あらゆるヘイトのはじまりは自分へのヘイトではないか、と思うようになった。自分が自分をヘイトする。自分が自分を認めることができない。その状態に耐えきれず、ひとは外にヘイトの対象をさがしだす。ヘイトをあおる者たち(権力者、宗教、教育、メディア)は、ヘイトと対象を特定してみせ、これが敵だ、憎め、とあおる。だから自分へのヘイトあら解放された多くの者は喜んで敵へ向かう。
    きっとどこでも同じことだ。しかし、そのヘイト行為は相手を殺すことでは残念ながら決着しない。最後に自分が殺されることでケリがつくのだ。

    結局、あらゆるヘイトは自傷行為なのだ。

    p209
    戦争で経済を、まわしているアメリカは、今日もどこかで戦争中だ。難民は増えつづけ、流浪する。迷える民の受け入れ先の国々はみな不機嫌をかこち、総じて自分たちの暮らしもままならないのに、ひとの尻をふいている余裕はなく、愛国を自負するひとびとがヘイトをまき散らし、サイレントマジョリティが無言でそれに賛成する。多かれ少なかれこんな状況がグローバルに展開されている。グローバル経済の展開と、グローバル難民の拡散は軌を一にしている。

    p210
    ドイツ国内には、約七三三万人の外国人が住んでいる。前提にはドイツの外国人への寛容な政策がある。それはナチス時代における排外主義や政治的迫害への反省に基づく。

    p212
    わたしに詳しい実態を調べる能力はないが、紛争地域から平和な欧州の国に難民を連れてくるブローカーがいて、難民からかなりの金額をとって命を運ぶというのはよくあることのようだ。

    p215
    わたしは、無性にくやしくなってきた。アメリカの爆撃から逃れ、難民としめドイツに流れてきた者が、庇護権申請がなかなかおりず、びくびくしながら不法滞在を余儀なくされるケースが多いのも現実なら、そんな心配もなく、爆弾を落っことした側の人間が自由気ままに生きられるのも現実だ。そして現在、わたしも落っことした側の人間だった。イラク人の肉体を切り裂き、内臓を吹っ飛ばしている何千何万もの爆弾をつくる資金の多くを日本人が税金として支払っているのだ。外国人局の待合室は世界の縮図だった。

    p223
    ドイツはオイルショックをきっかけに景気後退がはじまり、低成長・高失業の時代に入った。失業者をかかえる市民社会と移民家族の流入はなじみようがなかった。ドイツの失業者たちは、自分の職を移民たちが奪っていると感じるようになり、差別感情や排外感情が強まっていく。リアルにみればコスト面から人件費のかさむドイツ人よりも安い賃金で働く移民労働者に頼ったのはドイツの企業側、雇用主側だった。移民労働者は景気が良くなれば安い賃金でも超過労働もいとわず我慢して働いてくれるし、景気が悪くなれば簡単に切れる。ドイツ人がやりたがらないきつい、危険な労働も引き受ける。使う側にしてみれば、これほど使い勝手のいい存在はなかった。
    ラマザンたちは、工場ではよく「Kuh(牛)」と呼ばれたという。
    「ドイツ人はオレたちを人間とはみていないのさ。人間ではなくて、労働力を提供する動物でしかないんだ。そこの牛、もっと動け、もっと早く動けって、罵声がしょっちゅう飛んでくる。こんな屈辱的なことってあるか」

  • 東2法経図・6F開架:KW/2020//K

  • 加藤淳『世紀末ベルリン滞在記 移民/労働/難民』(彩流社、2020年)は統一ドイツの混乱が見られる20世紀末のベルリンで生活した経験を語るノンフィクションである。著者という異邦人を通して、様々な人々、多くは海外からドイツに来た人々との出会いを社会情勢や歴史を背景に描く。
    グローバリゼーションが進展する日本でも参考になる書籍である。帯には「どんな人種差別を受けたのか」とある。通俗的な日本人はここに過剰に着目しそうであるが、むしろ日本社会よりもベルリンに懐の深さを感じる。
    ベトナム人移民の話から始まる。東ドイツは社会主義国同士ということでベトナム人労働者を受け入れていた。しかし、その待遇はブラックであった。日本の技能実習生よりも管理は厳しく、妊娠した女性労働者を中絶させるなど非人道的な扱いであった。外国人労働者の劣悪な労働条件、非人道的な扱いは日本では資本主義、グローバリズムの弊害と見られがちである。しかし、社会主義国の東ドイツにも存在した。資本主義ではなく、官僚主義、管理主義、全体主義の弊害である。これは日本の技能実習生らの搾取の問題に対しても示唆的である。現実に入管職員による収容者への非人道的な扱いがある。
    成金のロシアマフィアの外食の描写が面白い。「寿司を味わうというより、高いものをがつがつ食いつくすという趣なのだった」(104頁)。値段と味が比例するとでも言うような高級志向のグルメに胡散臭さを感じる理由は、ここにある。
    日本人料理人の経験は素晴らしい。毎朝、玉子焼きを仕込んでいたが、日本料理への理解の浅いドイツ人同僚から「朝食を作っているのか」とからかわれる。それが毎朝続いて我慢しきれずに糾問する。ドイツ人は最初、冗談だと言い訳したが、日本人料理人は「ひとの気分を害する冗談はやめろ」「もう二度と朝食なんて言い方は許さない。二度とオレのTAMAGOYAKIにケチをつけるな」と強く言って、謝罪させた(115頁)。
    この種の対立は日本社会でも起きているが、日本では後味の悪い終わり方になるだろう。日本人は最後まで冗談のつもりで悪意はないと自己正当化に走りがちである。2019年には吉本興業社長は記者会見でパワハラ発言を冗談のつもりと言い訳した。これは醜悪である。本書のケースでも保身第一の日本人ならば、「朝食にたとえられて怒る方が狭量」「朝食も大事なご飯である」などと開き直りかねない。それは異文化理解にならない。
    著者は慶應義塾大学卒業のロスジェネ世代(就職氷河期世代)である。私も慶應義塾大学卒業のロスジェネ世代という点で共通する。ロスジェネ世代の閉塞感に共感できるが、方向性にギャップを感じた。著者の方が数年上であることによる世代の差だろうか。
    本書は規制緩和などの新自由主義的な改革が格差を拡大し、失われた二十年の原因とする見方に立つ(147頁)。ここはステレオタイプに感じる。私は日本社会の閉塞感と言えば、昭和の日本的な集団主義、精神論根性論の押し付けを原因と感じる。新自由主義的な改革に弊害が生じたことは否定しないが、昭和的な村社会や精神論根性論を破壊する改革は進歩的側面を持つ。
    むしろ、新自由主義的改革の負担を特定世代に押し付ける不合理が就職氷河期である。「日本的経営は良かった。新自由主義的改革が滅茶苦茶にした」では昭和の感覚を懐かしむ上の世代の受け売りにしかならないだろう。
    上の世代の価値観の受け売りを感じる点にはスクワッターの記述がある。統一後のベルリンでは所有者不明の建物を若者達が不法占拠して解放区のようにしていた。これを好意的に見るのは全共闘世代的な感覚で、ロスジェネ世代にはないだろう。本書はスクワッターの自由さを「酒も麻薬もアナーキズムも哲学も、なんでもあり」と表現する(150頁)。依存性薬物を自由とみる感覚はいただけない。
    本書はテクノミュージックを思考停止、快感優先、融合幻想の音のドラックとし、本物のドラッグと相性がいいと説明する(174頁)。その直後に石野卓球のイベントの話になる。これは際どい。石野卓球の出演するイベント会場でドラッグが販売されており、著者にもセールスしてきた。石野卓球はピエール瀧とテクノユニット・電気グルーヴを結成しているが、そのピエール瀧は麻薬取締法違反で有罪判決を受けた。本書はピエール瀧事件後の出版である。

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著者プロフィール

名寄市立大学 保健福祉学部 栄養学科教授(農学博士)。北海道立総合研究機構、道南農業試験場、同中央農業試験場、同十勝農業試験場、オーストラリア・クイーンズランド大学などで、野菜・豆類・穀類の品質、加工適正、機能性などについて研究。主な著書には『おいしい北海道やさい』『小豆の力」(共にキクロス出版)など多数ある。

「2020年 『野菜をまいにち食べて健康になる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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