ショッピングモールの社会史 (フィギュール彩 83)

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  • 彩流社
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  • Amazon.co.jp ・本 (231ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784779170867

作品紹介・あらすじ

人や物の集まる「場」であり、
今や巨大化・エンターテインメント化する
ショッピングモール/センター。

その歴史と建築様式の変遷を、
成り立ちから現在までひもとく、初の通史。

現代の高度消費社会において最も効率的に
人々の消費欲望を喚起させ、充足させる装置、
それが「ショッピングモール/センター」。
アメリカで飛躍的に発展し、
建築様式、立地、業態、コンセプトと
さまざまな変化・進化を遂げたモールの
これまでと今を、
モータリゼーションなどの時代背景との関わりや、
革新をもたらした商業施設デザイナー・
ジョン・ジャーディや「モールの神様」
ビクター・グルーエンら立役者の存在にも
スポットを当てて通覧。
図版多数収録。

感想・レビュー・書評

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  • あとがきに「一部の若手の社会学者やマニアを中心に」、「郊外の公団住宅、団地、ショッピングセンター、工業地帯の工場群など」「が再び注目されている」とありますが、ショッピングセンターが社会学者に注目されたのは、『ショッピングモールから考える』が2016年刊行なので、その頃でしょうか。
    (団地や工場に注目していたのは大山顕さんのことを指しているのかと)

    当時は近くにショッピングモールがなかったので他人事のように読んでましたが、角田光代『空中庭園』には「典型的郊外型ショッピング・モール」が次のように描かれています。

    「ディスカバリー・センターの出現は、ダンチに住むおびただしい家族と、この町に住む多くの人間を救ったと、あたしは信じている。便利になったことはもちろんだが、もっと精神的な意味合いにおいて、だ。」
    「ディスカバリー・センターは、この町のトウキョウであり、この町のディズニーランドであり、この町の飛行場であり外国であり、更生施設であり職業安定所である。」

    前に『空中庭園』のこの部分を読んだときはびっくりしたんですが、今では地方におけるショッピングモールの存在の重要性、経済的、商業的な意味だけでなく、社会的な重要性をひしひしと感じるので、本書を読んでみました。

    ショッピングモールはご存知のとおりアメリカで生まれた商業施設で、自動車の普及とそれにともなう住宅の郊外化によって発展します。

    「フェスティバル・マーケット・プレイス」型のショッピングセンターとして有名なのが、1985年にサンディエゴのダウンタウンに開業したホートン・プラザ。

    このホートン・プラザには1990年頃に行ったことがあります。カラフルな通路とあちこちにかけられたエスカレーターや階段で高低差のある各階がつながれており、今、自分が何階を歩いているのか、目的のお店になかなかたどりつけない迷路のような構成で、でもウロウロすることさえ楽しくて、特に買物をするわけでなくても毎日のように通っていました。

    六本木ヒルズができたとき、アメリカのショッピングセンターのようだと思ったのですが、同じジョン・ジャーディによる建築デザインだったいうことを今回知りました。彼はほかにもキャナルシティ博多、なんばパークを手がけています。

    ホートン・プラザは、まさにディズニーランド的楽しさのあるショッピングセンターだったのですが、2005年頃に再訪したときには空き店舗も多く、全体的になんだか暗い印象でした。2020年には改築のため閉鎖となっています。

    日本では鉄道網を中心にステーションビル、地下街、駅前のファッションビルが登場。道路網の整備と自動車の普及により、アメリカより3、40年ほど遅れて郊外型ショッピングセンターが登場します。

    アメリカにおけるショッピングセンターの歴史については詳しく書かれており非常におもしろいのですが、いちばん知りたかった2010年代以降の日本のショッピングセンターの現状についてはあまり触れられておらず。

    ホートン・プラザが寂れたように、アメリカでもショッピングセンターという商業形態は変化を求められているのですが、その未来がよく見えないという感じでした。

    ただ、ショッピングセンターはやはりたんなる商業施設としてのみならず、文化的価値やコミュニティを実現する場所をめざしてつくられてきたんだなと思いました。

    (あと誤字が多いのが気になりました。参考文献のタイトルが間違っていたり、速水健朗さんの「ショッピングモーライゼーション」が突如として出てくるのですが、元となる本『都市と消費とディズニーの夢』についてまったく言及がないのもどうなのか。)


    ざっと歴史のまとめ。

    1910年代、アメリカに鉄道網が整備され、沿線の高級住宅地に初期のショッピングセンターが登場。

    1920〜40年代、交通網が鉄道から自動車へとシフト、住宅地が郊外へと拡大。スーパーマーケットや百貨店を核店舗とし、駐車場を整備したショッピングセンターが郊外に建設される。

    1950年代、ビクター・グルーエンによるエンクローズト(室内)型のノースランド・ショッピングセンター、サウスデール・ショッピングセンターがオープン。この頃のショッピングセンターは外観はシンプルだが、内部空間はモダンで未来志向的なデザイン。

    1970年頃、郊外化が進展した結果、都市中心部が寂れる現象が起こり、再開発によって観光商業型ショッピングセンターが生まれる。

    一方、日本。
    昭和初期、三越、白木屋、大丸、松坂屋、松屋、そごうなど老舗呉服店が百貨店へと脱皮。
    電鉄会社が百貨店へ参入。
    戦後、地下街の開発がはじまる。
    駅ビル(ステーション・ビル)の前身、民衆駅が登場。
    1960年代、スーパーマーケットが急成長。ダイエーがショッピングセンター事業を開始。
    1970年代、郊外型ショッピングセンター事業にジャスコが参入。
    1980年代、ロードサイド専門店が急成長。
    1990年代、三井不動産、三菱地所がアウトレットモールを展開。


    以下、引用。

    14
    ここにあるものといえば、本屋と詩、政治、散文、流行品を売る雑貨屋、そしてもっぱら夜だけあらわれる売笑婦たちだけである。そこには、ゴシップと書物、新旧の名声、政治上の陰謀と出版界の虚偽などが花と咲いていた。またそこでは最新流行のものが売られ、大衆はそれをどうしてもここでしか買おうとしなかった。
    (バルザック『幻滅』)

    22
    市街電車が郊外を繋ぐ前、都市の中心地区は最も裕福な人々が住まう場所であった。ニューヨークの五番街、シカゴのゴールド・コースト、サンフランシスコのノブ・ヒルなどがそのような地区であった。しかし、都市部の拡大に伴って、これら地区に住まう富裕層がいち早く郊外に着目し、理想的な住まいを求めて居住の地を移動した。ニューヨーク州ロング・アイランド、サラトガ・スプリングス、フロリダ州パーム・ビーチ、ロードアイランド州ニューポートなどのリゾート地は富裕層によって見出され開発された地区である。

    スコット・フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビー』は、一九ニニ年のニューヨーク(マンハッタン)とロング・アイランドが舞台である。ニックとギャツビーが住んでいるのはロング・アイランドの架空の土地、超富裕層の住宅エリア、ウェスト・エッグである。

    ごく普通の銀行マンであったニックはこの地からロング・アイランド鉄道に乗車し、マンハッタンのプロビティー信託銀行に通勤する。

    当時のマンハッタン中心部には、大富豪J.P.モルガンの邸宅などの高級住宅地が一部残っていたが、ギャツビーのような新興成金は郊外のリゾート地に住まうことが、当時の流行スタイルとなっていたのである。

    31
    自動車、住宅、商業、この三つの要素がすべて郊外において整うことによって、はじめて本格的な郊外型ショッピングセンターの時代が登場してくることになるのである。

    35
    『わが心のボルティモア』

    38
    眼下に表現されている世界は、デモクラシティと呼ばれるニ〇三九年の未来都市であった。この都市は一五〇万人以上が居住する放射状のコミュニティである。秩序立ち、整然と高層建築がそびえ立つ中心業務地区と、その周囲に七〇もの衛星都市が拡がり、人口一万人の住宅専用コミュニティや人口二万五〇〇〇人の軽工業・住宅混合のコミュニティが広がっていた。中心部と衛星都市の間には広大な緑地が敷かれていた。

    69
    通路の両側にテナントを配置する「モール・レイアウト」を初めて採用したのは、ノースゲート・センターの設計者ジョン・グラハム・ジュニアであった。これがショッピングセンターの革新のひとつであったとすれば、もうひとつの革新、天候を気にすることなく、快適な空調や環境の下で買い物を行うことができる「エンクローズト型モール」というイノベーションを近代型ショッピングセンターで初めて採用したのが一九五六年にオープンしたサウスデール・ショッピングセンターである。このコンセプトの発明者がビクター・グルーエンバウム(後にグルーエンに改名)であった。

    70
    彼はショッピングセンターに商業的利潤のみを求めたのではなかった。米国の郊外生活者にとって理想的な商業ユートピアとはいかなる形であるか、商業施設の果たすべき社会的・文化的役割を執拗なまでに追求した、その結果がサウスデール・モールであった。

    79
    彼らは、ショッピングセンターを「ストア(店舗)」と「コミュナル(共同体的な)」機能に分け、それぞれニ三の店舗と一三の公共的な施設を配置した。二つの市場、八つの洋服店、二つのドラッグストア、カフェテリア、バー、百貨店、映画館、そしてサービス・ステーションがあれば、買い物客を基本的に満足させることが出来る。一方でコミュニナルな機能としては、保育園、郵便局、図書館、ポニーの厩舎、ゲームルーム、劇場、クラブハウス、公会堂、展示ホール、インフォメーション・ブース、トイレ、告知板が必要であると考えた。

    85
    グルーエンが、ノースランド・ショッピングセンターで実現しようとしたものは、まさに彼が生まれ育った欧州の街並みをモデルとした街づくりであり、それらの街に人々が集うことで育まれていた文化的な価値やコミュニティ性の実現であった。グルーエンはアメリカの都市が、中心部において成し得なかった理想的な環境を、郊外の場において新しく発明していこうとしたのである。

    90
    ノースゲート、サウスデールの成功に続けとばかりに後を追って次々と建築されたエンクローズト型モールの内部空間に現出したのは、ある種の未来志向的なイメージを備えた商業空間であった。
    時代が五〇年代ということもあって、内装のデザインは極めてモダンで未来的な志向に満ち溢れている。同時に、一部エキゾチックなテイストも加えられている。吹き抜け空間には、植栽と噴水を効果的に配置した空間演出がなされている。このような空間演出技法を生み出すことによって、ショッピングセンターは、都市中心部の商業施設とも、屋外ロードサイドの単独商業施設とも全く異なる独自の建築様式とショッピング環境を獲得することが出来たのである。

    97
    〝都市のリノベーション〟の要請によって新たに生まれた観光商業型のショッピングセンターがフェスティバル・マーケット・プレイスである。米国内では一九七〇年前後頃から、荒廃した都市の再生、いわゆる中心市街地の再生が大きな社会的課題となった。極端な郊外化が進展した結果、都市中心部やその周辺地区が寂れる現象が数多く起こったのである。
    地区の再生を目指して、大規模な再開発が行なわれる中、賑わいと集客の目玉としてどうなやされたのがフェスティバル・マーケット・プレイスであった。

    107
    ここでラウスが証明したのは、ショッピングセンターは単に人々の物的欲求を満たすだけでなく、都市を再生する可能性を秘めているということであった。

    109
    (ジョン・)ジャーディの名前を世界に知らしめたのは、この翌年一九八五年に開業したサンディエゴ(カリフォルニア州)のホートン・プラザによってであった。

    111
    1996 キャナルシティ博多
    2002 六本木ヒルズ
    2009 なんばパーク

    122
    日本で百貨店というビジネスモデル開発の先頭を担ったのは江戸の呉服商たちであった。三越、伊勢丹、そごう、松坂屋など、開業から既に数百年の歴史を持った呉服商が、当時最も革新的であった百貨店という業態の基礎を築いた。

    さらに昭和に入ると、この成功したビジネスモデルに追随しようとする動きが起こった。電鉄事業者による百貨店事業への参入である。まず、その口火を切ったのが、一九ニ九年(昭和四)四月五日阪急電鉄の創始者、小林一三による梅田駅での阪急百貨店の開業であった。

    129
    池袋東口や新宿西口は、駅前駐車場の整備の一環として開発されたケースである。
    一九五七年(昭和三ニ)一ニ月に開業した池袋東口地下街(現在ISP〔池袋ショッピングセンター〕)は池袋地下道駐車場株式会社の運営によるものである。
    新宿では、一九六〇年(昭和三五)六月に小田急電鉄株式会社により西口広場下にエースタウン地下街が開設され、その後一九六三年(昭和三八)一〇月には京王モール地下街、一九六四年(昭和三九)五月に新宿ステーション・ビルディング地下街、一九六八年(昭和四三)ニ月にサブナード地下街が開発された。この内、エースタウン地下街、京王モール地下街とサブナード地下街は地下駐車場整備と一体開発された事業であった。

    ニ〇一三年にその営業を殆ど終了した銀座三原橋の地下街は、一九五ニ年(昭和ニ七)一ニ月にオープンした戦後地下街の第一号であったが、これはこの地で営業していた露天商を地下街に移転させたものであった。
    一九五七年(昭和三ニ)一ニ月につくられた渋谷地下街は、道玄坂の物販販売業と駅前付近の露天商を地下移転させたものであった。

    137
    これら一連の民衆駅の中で、最も成功を収めたケースは新宿民衆駅であろう。新宿駅に民衆駅を作ろうとする動きは、戦後間もない頃から起こり、最初に申請が国鉄に提出されたのは一九五三年(昭和ニ八)であった。新宿東口民衆駅の最初の出願者は高島屋百貨店が中心であったが、伊勢丹を中心とする新宿地区の既存百貨店、新宿東口乗り入れを考えていた西武鉄道、地元商店街からの強い反対などで揉め、最終的には高島屋、伊勢丹、西武鉄道の三者を中心に起業する形が固まった。

    138
    新宿民衆駅は、最初の申請から約一〇年の歳月を経て、一九六四年(昭和三九)五月一八日に新宿ステーションビルとして完成を迎えた。

    新宿ステーションビルは、一九七八年(昭和五三)一一月には「マイ・シティ」の愛称に改められた後、ニ〇〇六年(平成一八)には、「ルミネ・イスト」の名称変更の元、民営化後のJR東日本によるファッションビル経営子会社、株式会社ルミネの元で経営が行われている。

    153
    この一見不毛の地に新しい立地の可能性を見るという、古くからの商業一等地や駅前に出店しがちな百貨店では、なかなか得られぬ経験が出来たこと、それが成功体験であった事が、二子玉川という百貨店の立地として、想像もつかぬ場所にSCを開発するなどという構想を思い至る遠因となったに違いない。

    173
    渋谷パルコの立地は、すでに出店を果たしていた西武百貨店渋谷店の駐車場として確保されたものであった。その後検討の中で、当時ブームであったボーリング場が候補となったが、経営効率を考慮し下層階をショッピング・フロアにする案が浮上し、その後ボーリング・ブームが沈静化したため、最終的に上層階にレストランと劇場を併設するファッションビルをつくるというプランで結論を見た。
    一九七三年六月一四日、渋谷パルコがオープンした。

    179
    渋谷パルコの建設設計は清水建設であったが、その意匠については、実質責任者である益田通ニによる一貫したこどわりが、その後の各地におけるパルコ建築においても貫かれた。
    これ以外のファッションビルでも、ビルデザインに関しては、当時の新進気鋭の建築デザイナーが積極的に採用された。例えば、フロムファーストは、総合プロデューサー浜野安宏により、山下和正が起用された。ハナエモリビルは丹下健三、ラフォーレ原宿は入江三宅設計事務所、青山ベルコモンズは黒川紀章建築都市設計事務所、渋谷109は竹山実であり、当時のそうそうたる若手建築デザイナーたちが、こぞって商業建築設計を行なったのである。外装に意匠を凝らすのは、他のショッピングセンター・タイプとファッションビルの大きく異なるポイントであった。

    192
    ファッション分野では、「ビギ」、「コムサデモード」、「ニコル」などのデザイナーズブランド・キャラクターブランド、生活雑貨の「アフタヌーン・ティールーム」などはファッションビルと共生することで事業拡張を図っていったのである。

    しかし、生活者の趣味や志向が更に多様化した八〇年代後半以降、必ずしもショッピングセンターやファッションビルディングなどの商業集積に頼らずとも、顧客からの支持を得て、独自の路面店展開が可能な専門店が次第に増え始めてきた。規制緩和の流れを受け、ファッションビルのテナントでは面積的にも収まらないような外資系ブランドの日本市場への参入が目立ち始めたのもこの時期であった。

    前者に関する代表的な小売ブランドでは、ファッションでは「ビームス」、「シップス」、「ユナイテッド・アローズ」などが挙げられる。生活雑貨では、「無印良品」や「ロフト」、「フランフラン」などがそうである。
    後者では、「GAP」、「トイザらス」、「スポーツオーソリティ」、「タワーレコード」など単独店舗でも数百坪から千坪規模の面積を占有するカテゴリーキラーと呼ばれるメガ店舗群(ビッグ・ボックス)が挙げられる。

    200
    まさに速水健朗が命名した「ショッピングモーライゼーション」(ショッピングモール化現象)が進む社会を象徴的に示す事象であるとも言えよう。

    202
    センターの老舗のひとつノースランド・センターも、ニ〇一五年四月に営業を終了し、六一年の歴史に幕を閉じた。ニ〇一三年にノースランドの核テナントのひとつであった大手アウトレットが撤退、その後、同じく中核テナントであったJCペニー、メーシーズが撤退を決めたことで、次々とテナントが退店。最終的に運営会社はモールの経営を諦めた。全米一ニ〇〇のモールの約五分の一では、空室率が一〇%を突破したという。

    日本や米国など、すでに消費そのものが成熟フェーズに入り、商業環境も飽和した国においては、ショッピングモールというビジネスモデルそのものが、次第に衰退局面に入りつつあるのかもしれない。

    米国のデッドモールが増える一方で、ショッピングセンター・ビジネスモデルの成長フィールドは、経済発展の著しい中国や東南アジア諸国、ドバイ、イスタンブールなどの中近東地域に移りつつある。

    208
    ビクター・グルーエンが思い描いたショッピングセンターの理想の姿は、彼が幼少期を過ごした欧州ウィーンのような商業と文化、コミュニティが豊かに調和した社会であった。米国の郊外に欠落したコミュニティ空間の実現を、ショッピングセンターに託すことによって、その地に住む人々が心豊かに快適に生活することが可能となる社会を実現しようとするものであった。

    214
    エベネザー・ハワード『明日の田園都市』
    街の中心部には円形をした中央公園が配置される。この公園を取り囲む形で、市役所、主要コンサート講堂、劇場、図書館、博物館、病院などの公共施設が配置される。そして、これらの施設は「水晶宮」と呼ばれるガラスのアーケードで囲われる。水晶宮は、公園の雨宿り場所ともなり、温室ともなる。加えてアーケード内には、各種の商品が販売されてされるショッピング空間が形成される。人々が集える公園に、各種の公的機能、商業が一箇所に集うことで、理想的な都市のコミュニティが形成される。

    219
    ニ〇一五年一〇月に、埼玉県桶川市の駅前のショッピングセンター「パトリア桶川店」の三階フロアに市立図書館と大型書店(丸善ジュンク堂)の複合フロア(OKEGAWA hon プラス+)がオープンした。

  • ショッピングモールの誕生から現代日本での広がりまでの歴史が分かる。類書は案外ないので助かる。

  • 2020.12.29 とにかく良く調べられていて素晴らしいと思う。もう少し、現代のお話のボリュームがあると良いとは思うが、一通りのショッピングセンターの米日の変遷が分かる。勉強になった。

  • 日本ショッピングセンター協会JCSC 一つの単位として計画、開発、所有、管理運営される商業・サービス施設の集合体で駐車場を備えるもの

    ショッピングモール→テナントがモール状(通路状)に配置されているもの

    パサージュ(通路・抜け道)

    モールの神様 ビクター・グルーエン エンクローズド型
    大戦後の新しい街を創造するプロジェクト194X
    買い物のために平和に満ちた場所 長時間にわたる買い物でも疲れを感じさせない

    江戸の呉服商 三越、伊勢丹、そごう、松坂屋→昭和初期には百貨店へ
    昭和 電鉄事業の百貨店への参入

    1930年 浅草~上野地下鉄 地下街

    1960年代 スーパーマーケット 東京青山・紀伊国屋(1959年には1,000店舗)

    ダイエー 駅前立地型の商業施設 SSDDS self service discount department store
    1961年 神戸三宮ダイエー

    1968年 香里店(大阪府枚方市) 郊外型ショッピングセンター
    ダイエーは自社事業で店舗開発を進める方針

    ジャスコ(ダイエー、イトーヨーカ堂、西友に準ずるポジション)
    積極的なスクラップ&ビルド 岡田家「大黒柱に車をつけよ」
    三菱商事との共同出資 大阪市・ダイヤモンドシティ

    中小小売店の反発→百貨店法(届け出の対象が企業単位・各フロアを別法人として出店)→1973年大規模小売店舗法
    1991年日米構造協議・非関税障壁であると指摘

    ファッションビル 1969年池袋パルコ(イタリア語で公園の意)
    渋谷パルコが基幹店 メッセージ 「モデルだって顔だけじゃダメなんだ」「死ぬまで女でいたいです」「鶯は誰にも媚びずホーホケキョ」「時代の心臓を鳴らすのは誰だ」 刺激的で教宣的なメッセージ
    イメージ広告を行う企業はわずかだった時代

    ファッションビルが多く出店した地区 原宿、青山地区→旧代々木練兵場(代々木公園とNHK)がGHQに摂取→米軍関係施設→アメリカ文化に憧れる人が集った。

    不動産系のディベロッパーの事業参入 ららぽーと船橋

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著者プロフィール

さいとう・とおる
1958年生まれ。1982年西武百貨店入社。
流通産業研究所、パルコを経て
1997年大手広告会社入社。
現在、研究部門で生活者・トレンド研究、消費・流通などの
分析を行っている。
著書『吉祥寺が『いま一番住みたい街』になった理由』、
編著書『超高齢社会マーケティング』ほか。

「2017年 『ショッピングモールの社会史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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