子どもの「お馬鹿行動」研究序説

著者 :
  • かもがわ出版
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感想 : 5
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784780308402

作品紹介・あらすじ

遊びの重要性が強調されるにつれて、遊び観はどんどん「学び」化していくという奇妙な時代。自分たちだけにしかわからないおもしろ物語の誕生にこそが子ども期の経験の神髄として、子どもの「お馬鹿行動」に注目した極北の発達心理学研究。

感想・レビュー・書評

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  •  この本でいう「お馬鹿」とは、【どうでもいいような結果しか招かないことに多大な労力を払う】【大きな努力を払ったのにたいした結果しか得られない】【どうでもいいようなことに熱中したり大喜びする】【そういった意味での落差の大きさが目立つ行動の総称】であるという。
     私も、意味もなく、階段やエレベーターを使わずに、壁をよじ登って、マンションの7階まで到達することなどをしていた。(失敗したら落下して死んでいた)
     探検ごっこが一番多かったように思う。
     人間が入らないところなどを目ざとく見つけて、入っていくのだ。田舎に住んでいたら、洞窟などに入って死んでいた可能性がある。都会でまだ良かったかも知れない。
     私の場合、P214の一覧表でいえば「獲得系」の「修行系」にあたると思われる。
     著者はリアルお馬鹿行動と正当お馬鹿行動と分けているが、あんまり大事な区別ではないように私は思う。それに分かりにくい。そいつがまじで馬鹿な人間なのか、それとも真剣さによるお馬鹿行動なのか。その区別はかなり難しい。私がマンションによじ登るのは、真剣ではあったが、同時に私はきわめて馬鹿だったし、へんなこだわりもあったし、強迫性障害の可能性もあり、それがリアル(マジでばか)か正当(真剣に馬鹿をやる)かははっきり言いきれない。
     本著は、ざっと読み流して、最後の一覧表だけ参考にすれば良いと思う。中身は結構、ぐらぐらしていて、ぼんやりしていて、逆に概念整理が乱れてしまう。

     途中、バーバラ・ロゴフの「文化的営みとしての発達」におけるシグニファイングが取り上げられていた。「シグニファイング」とは、米国の黒人低所得層コミュニティで見られるからかい遊びのことだ。アフリカ系アメリカ人の青年のあいだでは、こういう会話ができない人は不器用でかっこ悪いと見なされる。このようなからかい合いは、自分の欠点を受けとめ、あまり気にしないようにするのに役立っているし、「マイノリティコミュニティメンバーがコミュニティの外で受けることになるであろうもっと深刻な侮辱を受け流す準備」になっているのだと言う。これは、ポトラッチの風習における意地と見栄を張り合う贈り物競争から通底する人類の原理だ。

     子どもによる、大人世界への擬似的接近として、<大人社会への批判的対峙行動>がある。
     児童期の子どもたちというのは、幼児期の子どもたちとは違って生活力という点で自立性の高い能力を獲得していながらも青年期に至っておらず、まだまだ大人たち(あるいは大人社会)の庇護の元で日常をすごし、大人への準備期として位置づけられている時期の子どもたちである。この子どもたちがその当の庇護者である大人たち(あるいはその社会)のあり方に批判的な目を向けるという行動は反準備的行動とも言える。これは、チンパンジーなどの類人猿社会ではまずみられない行動で、近代以降の特徴であるかもしれないと著者は述べている。
     「エミール」には<大人社会への批判的対峙>に相当する記述が見当たらないという。しかし、「エミール」や「文化的営みとしての発達」にも、本当に一切、反抗する子どもの描写や、若者が支配的な立場に立つ社会などの描写がないわけではないので、様々に検討されることだろう。が、あまり今ほど気にされていない、認識されていないのは確かだ。「盗んだバイクで走り出す」のような感じは、近代から始まった、「大人になりたくない」の現象で、たぶん、多くの分析がなされていることだろう。
     だから、日本の場合、子どものころから協調と調和が強調されるので、少年期や青年期に「醜いおとなの世界の現実」に幻滅を感じたり、反抗したりすることが、原ひろ子「子どもの文化人類外」に述べられているというのは面白かった。
     対大人への立ち向かいは、おちょくり、反抗、ずる、大人文化のデフォルメ、大人世界の妖しさに分類できる。こうした分類は、最後の一覧になっているが、これは非常に便利な分類なので、かなり良い成果を出している本だと思う。「大人世界の妖しさ」だが、私のときも公園で遊んでいると謎の大人が乱入してきたりしていた。普通の社会人はいない時間帯なので、本当に謎であったが、だいたいはホームレス風の人だったと思う。謎の大人というのは、大人にとっては恐怖でしかないが、子どもにとっては何か不思議なものであった。大人世界を妖しく感じることも「お馬鹿行動」として分類に入れているのは、加用文男の最も凄いところだと思われる。

  • ▼福島大学附属図書館の貸出状況
    https://www.lib.fukushima-u.ac.jp/opac/opac_link/bibid/TB90328122

    (推薦者:人間発達文化学類 教員)

  • 子どもの「お馬鹿行動」の引用が、小説、マンガ、自伝エッセイだったりする。
    いろんな人の「自分の子ども時代」の「お馬鹿っだたと思うエピソード」をもっと集められると傾向分類が見えやすくなるのではないかと思う。
    「お馬鹿行動」は親や、子どもに関わる大人にしてみれば、避けて通れるものなら避けて欲しいと思ってしまいがちだけど、子どもにとっては、そこを通ることで、成長のステップになることは間違いないと思う。(経験上)
    妹尾河童の「少年H」と東野圭吾の「あの頃ボクはアホでした」は、是非とも読んでみなくては!!と思いました。

  • 「お馬鹿行動」を「研究」するギャップが面白そうだな、と思って読んでみたのだけれど、どこが研究なんだかよくわからなかった。子供のお馬鹿行動の実例が面白いので、こればっかり読みたい。

    ぼくもずいぶん馬鹿なことをやった。回っている換気扇の羽根にわけもなく指突っ込んでケガしたり、目をつぶって自転車を運転してドブに落ちたり、両手に木工用ボンドを塗りたくって乾くまで我慢したり。今となっては理解できない・・・と言いたいところだが、ちょっと理解できる。まずいかな。

  • 子どもというのは時に、何だかわけのわからないことをしでかしてしまうものだ。水たまりにわざわざ突っ込んでみたり、歩道のブロックの茶色いところだけを歩いてみたり。大きくなったら何になりたい?と聞かれれば「象!」と言ってみたり(いや、そりゃ意味が違うからっ)。ポケットにはち切れんばかりの小石を詰め込んでいたり。

    あれやこれやの子どもの謎行動を、ここでは「お馬鹿行動」と呼ぶ。
    著者は子どもの遊びの研究者で、本書にもタイトルに研究と入っている。大枠としては、子どもの「お馬鹿行動」をざっくり分類し、その背後にあるものを探るという形で、保育や教育に携わる人には参考図書として役立つ本でもあるだろう。
    が、一般読者として読んでも、子どものお馬鹿行動の例があれこれ紹介されており、何かこれがむちゃむちゃおもしろいのだ。読んでいるうちに、自分のかつての「お馬鹿行動」も記憶の底から呼び覚まされてしまうから不思議。
    独創的で破壊力ある「お馬鹿行動」の世界へいざ。

    本書では、学童保育での出来事や保育者自身の思い出の実例に加えて、「少年H」、「窓ぎわのトットちゃん」、「ちびまる子ちゃん」などの文芸・漫画作品の例も紹介している。
    筆者は数々の事例をまずは「リアルお馬鹿行動」と「正統お馬鹿行動」に大別していて、前者は真剣度の高いもの、後者はからかいやおちょくりが混じった「笑える」成分多めの遊び要素が高いものといったところのようだ。この分類が妥当なのかどうか、門外漢にはよくわからないのだが、これまでの発達心理の研究を踏まえてのことなのだろう。
    「リアル」の方は、実社会を真似た度合いが高く、2つのグループが対立するごっこ遊びが一歩間違うと本当にケンカになってしまいそうな場合もある。
    「おもしろい」という意味では、「正統」の方が圧倒的におもしろい。ごっこ遊びでも空想が混じるままごとのようなものが含まれてくる。仲間内で通じる(大人になってから考えると何がおもしろかったのかさっぱりわからないような)うちわうけのギャグやゲームがある。ぐるりと植えてある木を延々と回るとか、「エースをねらえ!」などの人気アニメの真似をずーっと続けるとかである。
    一人でも仲間通しでもやってしまう、「ふとノリ行動」。ふとしたノリでやってしまったことが思わぬ結果を生むものである。ぶらんこに乗りながら手を離したらどうなるかと離したら落ちて頭を打ったという体験談がある。その後、あほになっていないか心配になり、自分の名前やその日の日付をこっそり言ってみたというのが妙におかしい。

    今でこそ、もっともらしい顔をして真面目なことを言ったりしているが、自分だって、お馬鹿な時代はあった。
    友だちとの遊びの1つに「数字言葉」がある(当時は呼び名などついていなかったが)。ある言葉をある回数言って、別の言葉にするという、だじゃれの変形みたいな遊びである。「やく、やく、やく」→「やく」が3つ→「やく・ざ(3)」とか、「はいた、はいた」→「はいた」が2→「配達:はいたつ(2でツー)」とか。およそくだらないのだが、出来上がる言葉が最初の繰り返す言葉から離れていて、意表をつけばつくほどよかった。やっているうちに口がだるくなってきて、いい加減あきてくるのだが、それでも何だか延々とやっていた。
    爪の白いところは神経が通っていないはず、と思い、ホチキスでばちんと留めてみたこともある。なるほど、その部分自体は痛くなかったが、爪が反っくり返ってしまってめちゃくちゃ痛かった。泣いた。「バカだねぇ」と言われながら、おばあちゃんに切ってもらった。
    石も集めていた。アスファルトに白い字が書けるやつがお気に入りだった。ポケットに入れっぱなしで洗濯して怒られたこともあった。

    子どもの「お馬鹿行動」は、一般には成長の1つの過程であり、未熟なものとされるのだろうが、本書の数々のエピソードに吹き出しつつ、ついでに自分の過去も思い出したりしているうちに、何だかそれだけでもないような気がしてくるのだ。子どもの突拍子もない発想は、すべて「幼さ」から来るわけでもないような。その「くだらなさ」に可能性が秘められているような。その自由さが新しい世界を開くような。
    そう思うと、昨今の「遊び」の「学び化」、「規制化」がちょっと心配なような気もしてくる。
    けれどまぁ、そうはいっても意表をついてくるのが子どものお決まりでもある。理屈で考える心配を越えて、おそらく今日も子ども達は「お馬鹿行動」にいそしんでいることだろう。

  • 小学生くらいの子どもの大人から見ればお馬鹿としかいいようのない行動。ああ、確かにある。
    自分の子どもの事を思い出しても、本当にお馬鹿だなあぁと思ったことが…。読んでいて、いろいろ思い出してしまった。

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