こども東北学 (よりみちパン!セ)

著者 :
  • イースト・プレス
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レビュー : 24
  • Amazon.co.jp ・本 (152ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784781690209

作品紹介・あらすじ

「東北」って、いったいなんだ!?-もしかするとそれは、架空の場所?そして幻想の呼び名?3.11以降、あたりまえに語られるこの名称の起源と、「まん中」との関係の歴史を、じいちゃん、ばあちゃんの声なき声を交えてやさしく説き起こしながら、「原発」大国日本が切り捨ててきた事実をみつめる。まったく新しいスタイルで語られる、宮城出身の俊英による異色の日本近代史と、私たちのゆくえ。

感想・レビュー・書評

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  • 著者の山内明美氏は、一橋大学の博士課程で歴史社会学を専攻する
    社会学者の卵です。南三陸町出身の1976年生まれ。小学校高学年か
    ら高校までの多感な時期に天皇の崩御、ベルリンの壁やソ連の解体、
    そしてバブル崩壊など、既存の価値観が音を立てて崩れ落ちる瞬間
    を目撃し続けた、いわゆる「ナナロク世代」の一人です。

    いわば崩壊と共にあったナナロク世代の著者が、今度は、津波で故
    郷を喪失するという未曾有の事態を経験します。その経験の中から
    絞り出すようにして書かれた本書は、三陸で暮してきた家族のこと
    や、中央=<まん中>に対する恥の意識など、極めて私的なことを
    引き合いに出しながら、<東北>とは何かを解き明かしていきます。

    <東北>とは何か。それはまず言葉の問題としてあります。東北地
    方に住まう人にとって、「東北」という呼称はとてもぎこちないも
    のなのだそうです。だから「三陸生まれ」とは言うけれど、「東北
    出身」とはまず言わない。それは、「東北という呼び名の向こう側
    にいつも『まん中』が透けて見える」からです。

    確かに東北は九州などと異なり方角を表す言葉ですし、同じ方角で
    も関東や関西(関の東西)のような序列のない言葉ではなく、明ら
    かに<まん中>を起点にした言葉です。しかも北東は陰陽道では不
    吉とされた鬼門の方角。実際、自然災害が多く、凶作にも頻繁に見
    舞われる、辛酸に満ちた地域でした。「みちのく(道の奥)」も、
    最果ての地、もっと悪く言えば「僻地」のイメージです。

    つまり、<東北>とは、<まん中>から遠く離れ、近代化から取り
    残された地域、遅れたものの象徴としてあるのです。「東北的なる
    もの」とは、東北に限らず、日本が近代化の過程で捨て去り、或い
    は忘却してきたものの象徴だと言えるでしょう。

    そして、この<東北>についての問い直しから始まる本書が教えて
    くれるのは、いかに私達が多くのことを忘却してきたのかというこ
    とでした。ちょっと前までは凶作になると娘が身売りされたことも、
    農地解放で地主制が撤廃されるまで貧富の格差の中で普通の人は満
    足に教育も受けられなかったことも、コメの自給率が100%を超え
    た1960年代半ばまでは長く日本がコメの輸入国だったことも、敗戦
    で失った植民地に替わって東北地方が食糧供給基地として都市を支
    え続けたことも、私達は忘れています。食糧のみならず、人もエネ
    ルギーも、東北を始めとした地方が供給基地となってくれていたこ
    とも、私達はつい先日まで忘れていました。

    何よりも、私達は、人間が食べないと生きていけない生き物だとい
    うことを、そして、食べていくためには、土や海の恵みが必要だと
    いうことを忘れていました。その結果、私達は自らの手で土や海を
    汚してしまったのです。そのことにどれだけ自覚的でしょうか。

    私達がこうして忘れてきてしまったこと、私達の後ろ側に連綿とつ
    らなっている幾多の生とのつながりを見つめ直すことからしか、復
    興は始まらないのではないか。そう本書は鋭く問いかけてきます。

    震災後に読んだ震災関連の書物の中で、最も深い部分を揺り動かさ
    れた一冊です。そして、最も大切なことに気づかせてくれた一冊で
    もあります。是非、読んでみてください。

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    ▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)

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    だれだって自分のいる場所が中心になっているはずなのに、「あな
    たのいる場所は、あちら側」と言われている気分。妙な感覚だ。も
    っとも、そこまでじゃなくても、東北という呼び名の向こう側にい
    つも「まん中」が透けて見える、というふうにぼんやりとでも感じ
    たことがあるひとは、意外に多いのではないだろうか。

    時代をすこしさかのぼった祖父や祖母がもっている情景というのは、
    自分がいま生きている現在とは、ぜんぜんちがうものだということ
    には気がついていた。

    こうした格差で覆われていた日本の村々の地主制が撤廃されたのは、
    戦後、GHQによる農地解放がなされてからの話だ。それまでの貧富
    の差が激しかった時代、みんなが同じ学校へ行けなかった時代、ま
    だ、とてもちいさかったこども時代の祖母は、学ぶ機会を与えられ
    ないばかりか、毎日15キロもの道のりを歩いて子守り仕事をすると
    いう自分の境遇を、どうやってうけ入れたのだろう。

    ひとが生きるって、そう簡単なことじゃない。どんなひとも困難を
    背負っているし、過酷な生き死にをくぐり抜けてきたのだ。いま、
    わたしたちがここにあることの後ろ側には、いまのわたしたちとは
    異なる現実の中での無数の生がある。そして、そこに生きたひとた
    ちはすべて、いまのわたしたちとつながっているはずだ。

    93年の凶作のあのとき、わたしは、青立ちの田んぼを見ながら、
    さめざめと泣いた。日が暮れるころ、父が、田んぼに火を放った。
    百姓が田んぼに火を放つ。言葉にできない絶望感というものを、こ
    のときわたしは、はじめて知ったのだと思う。心にぽっかり穴が空
    いたみたいな気持ちだった。それが飢饉だと知った。(…)
    そして、時代が時代なら、「おまえは娘身売りだ」と笑われたこと
    を、わたしはいまでもときどき思い出す。

    私の通っていた小学校は、僻地教育のモデル校に指定されていて、
    「発音練習」は僻地教育の重要なカリキュラムとみなされていた。

    方言で書いた作文を、学校の先生がていねいに標準語に添削してく
    れたときのどうしようもない気持ちは、忘れようもない。

    東北は、たんに、ここが東北と名指されることだけで、できあがっ
    た場所ではない。こうしたいくつもの僻地が積み重ねられた、最果
    ての土地というイメージとわかちがたく結びつけられた名称なので
    はないだろうか。方言や訛り、奥まった土地すなわち道の奥、を彷
    彿とさせる「みちのく」という呼び名や、僻地あるいは辺境という
    地理的な位置づけ。

    村の規範に縛られずに自由に生きてみたいと思いながら、田畑に囲
    まれていない暮らしというものがどういう生活なのか、わたしはう
    まく思い浮かべることができなかった。「家」に縛られない暮らし
    は自由だけれど、いまでも、故郷を離れて暮らすことに、なにかと
    ても大事なものを失いつづけているような喪失感がある。自由な生
    き方を許してはくれない故郷へのやりきれない気持ちと、そこで育
    ててもらった感謝の気持ち。

    生まれ育った村で、みずからを「おら」「おい」「おれ」と呼んで
    いた自分が、東京で暮らすようになってから急に、「わたし」と自
    称しなければならないとき、どうしようもないぎこちなさを感じて
    しまう。だれにも告白したことはなかったけれど、「わたし」とい
    う主語で語りはじめようとするとき、いまだにいちいちつっかえて
    しまうのだ。

    スーパーマーケットに食料があふれればあふれるほど、わたしたち
    は、一次産業そのものに無関心になっていった。食べものが少ない
    時代には、あれほど、みんなコメにも魚にも執着していたのに。

    放射能汚染の不安が日本社会を覆いはじめたとき、わたしがいちば
    んはじめに感じた違和感は、いま起きている土と海の汚染が、自分
    のからだの一部で起こっている、ということを誰も語らないことだ
    った。遠くの災いみたいな話をしている。人間は食べなくては生き
    てゆけない。当たり前のことなのに、どこかでやり過ごせる、と考
    えているのかもしれない。

    世界で唯一、原子爆弾での「加害」を受けた国が、まるで腹を空か
    せた蛇が自分のしっぽを食べるようにして、原子力発電所の事故は
    起きてしまった。この国に生きるひとの多くが、もはや、原発と田
    んぼが共存している風景を不思議だとは感じないほどの鈍感さの中
    で、自分自身への「加害」が起こってしまったのだ、とわたしは思
    う。わたしたちは、あたり前に生きようとする意志さえ、喪失して
    しまったのだろうか。

    敗戦した日本の貧窮はすさまじいものだった。日本を復興したのは、
    経済人ばかりではない。食糧不足を補うために一次産業に従事する
    ひとびとの努力は、筆舌を尽くしがたいものがあったはずだ。そし
    て、日本は、経済成長に突き進む中で、農産物の輸入開放をすすめ、
    結果、マーケットには輸入食料品があふれるようになった。

    欲望のままに、おそらくは、本来の必要なエネルギー以上のものを
    確保するために、あるいはこれ以上の経済的繁栄を妄想するがため
    に、人間ばかりではないだれもがその内側に宿している、「生きよ
    うとする力」が奪われてはならない。逆に、その力を仲立ちとして、
    もっと繊細に世界をみるべきときが来ているのだと思う。

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    ●[2]編集後

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    昨夜、娘用に借りてきたジブリのアニメ『天空の城ラピュタ』を見
    ました。いつ以来でしょう。本当に久しぶりでした。

    『風の谷のナウシカ』に続く、ジブリとしての劇場公開二作目に当
    たる本作は、1986年の公開当時、興行的には失敗と言われた作品で
    す。歴代のジブリ作品の中では最低の観客動員数で、宮崎駿監督は、
    この作品の失敗に懲りて、二度と少年が主人公の作品は作らない、
    と誓ったのだそうです。

    今では信じられない話ですが、バブルに向かってまっしぐらの日本
    人の感性には全く響かない、空気の読めない作品だったのでしょう。

    でも、今見ると、これが実にいい作品なのです。

    天空に浮かぶ王国を築き上げるほどの科学技術を持ったラピュタ人
    達は、高度な文明を持っていながら滅んでしまいます。一部は地上
    に降りて生き延びたのですが、その王族の末裔である女主人公のシ
    ータが、ラスト近くで叫んだ以下の言葉がとても印象的でした。

    「今、ラピュタがなぜ滅びたのか、私よくわかる。
     ゴンドアの谷の詩にあるもの。

      土に根を下ろし 風と共に生きよう
      種と共に冬を越え 鳥と共に春を歌おう

     どんなに恐ろしい武器を持っても、
     たくさんのかわいそうなロボットを操っても、
     土から離れては生きられないのよ」

    「土から離れては生きられない」…。宮崎監督の、25年前のメッセ
    ージが、予言的な響きを持って胸に迫ってきますね。

  • 東北人からみた東北についてはよく理解できたが、できれば東北に住んでない人からみた東北についてをもっと知りたいと思った。

  • 「まん中じゃないところに目を向けてみよう」

    これが、この本のずばり言いたかったことではないか
    東北に育った著者が、自身の認識と周囲とのずれ、
    自身が都会に行って初めて見えてきたもの、
    そういった実体験にもとづく客観的で、視野の広い
    「東北学」の一冊

  • 私自身東北(山形)を見つめ直したのは、ここ数年の話。
    首都圏の感覚で捉えてはいけない、東京の資本に侵されてはいけない、と真剣に考えた。
    これほど豊かなものを大企業に食いつぶされるのは悔しい。そんな私を支えてくれるような本だ。

    今までの歴史の蓄積を信じて、大地を、海を信じて
    進んでいきたい。

  • 私は、震災後の東北はおろか、
    震災前の東北ですら何も知らない。

    地方と中央。
    度重なる自然災害。
    本来は適さないはずの場所で営まれる米の栽培。
    東北に生まれたことへの恥じらい。

    こういうものは、
    いわゆる都市で生まれ育ったわたしには、
    本当にわからない感覚だ。
    わかってほしいとも思われないかもしれない。

    でも、知りたい。
    できることなら寄り添いたい。
    同じ日本人として、
    日本に暮らす者として。

  • 2011年、東北という土地は大きな傷を負いました。
    3年経ったいまでも復興活動は続いているけど、新しい東北に生まれ変りつつあるのではないかと漠然と思っています。
    このこども東北学を読んでその思いをさらに強めました。
    「まんなか」に従属した地方としてではなく、その根をその土地に張り巡らせたものとして、東北が変わっていく流れが途絶えないことを祈ります。

  • 東北という地方についてとても考えさせられる1冊。今まで自分では想像することのできなかった考え方や、知らなかった世界に触れることができました。

    安藤昌益の言葉の引用で、「自分で食料を生産できない人間がえらそうなこというな(ざっくりとそんな感じのこと。詳細は違います。)」っていうのが、「そうだよなー」となんだか納得。

  • こども向きだと侮る勿れ、簡単に読める文体ではあるが、内容は寧ろ大人向きはないだろうか。とっつきやすい文章でも、テーマは重く、筆者の実体験などをも通じたエッセイ的な東北学が展開されていく。
    筆者は東北地方の出身。当事者であるがゆえに、雑多な印象を受ける部分もあったが、当事者だからこそ、入り込んで真に迫る部分もあり、後者のインパクトが強い。

    大都市側と農村側("まん中"と"東北")がもっている細かな心理的部分を全て拾いきることは、地方都市出身である私には難しいことなのかもしれない。というより、筆者の体験談を読んで、我が地元は地方都市型な地域なのだと再認識させられた。
    私の地元は、電車の車窓から田園風景が広がるような地域で、世間一般的には「田舎」の部類に入る地域だ。いや、「田舎」の部類に入る地域"だと思っていた"と言うべきか。
    エッセイの語り口で述べていく筆者の地元談は、私が18年間、故郷で経験してきたような田舎談とはまるで違った。軽くカルチャーショックを受けた面すらあった。

    この国の"東北"が身を削りながら"まん中"を支える極端なシステム論的構造は、依然として想像以上に根深く残っている。"東北"が"まん中"に対して持つコンプレックスも同様に根深いものなのかもしれない。
    ただ、震災を契機に、これらの構造は見直されつつある時期に突入している印象は受ける。東北地方は自分たちの"まん中"を歩んでいってほしい。

  • 百の姓をもつもの。
    それは百姓。
    もう百どころか、一つだってあやしい。

  • (2013-04-20)

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