羞恥は社会的動物である人間の自己の「不適切な印象」に対する感情的反応であるという本。
乳幼児期には作用しない羞恥心という機能が人間にとってどのような意味があるのか何年も考え続けていた自分にとって、ある意味「これぞ読みたかった本」と言える一冊だった。
自己呈示の機能
1、自尊心の高揚
2、利益の獲得と不利益の回避
3、アイデンティティの維持
自己呈示の失敗が羞恥を引き起こす
1、自尊心低下説
2、社会的拒否説
3、関係混乱説
p. 29「真の罪の文化が内面的な罪の自覚に基づいて善行を行うのに対して、真の恥の文化は外面的強制力に基づいて善行を行う。恥は他人の批評に対する反応である。人は人前で嘲笑され、拒否されるか、あるいは嘲笑されたと思い込むことによって恥を感じる。いずれの場合においても恥は強力な強制力となる。」(ベネディクト、一九六七、258頁)
p. 46 羞恥が傍観者効果を生み出す理由として、ラタネらは次の三つの点をあげています。第一は他者に注意を向けることへの羞恥です。群衆の中では、誰もが他者に対して無関心を装わなければならないと言う規範があり、じろじろ見たり聞き耳を立てるのは、無作法だと考えられているというのです。したがって、人込みの中ではかえって他者は目立たなくなり、何らかのトラブルが起こっても周囲に発見されにくいと言うわけです。第二は援助に失敗することへの羞恥です。人工呼吸をするにしても警官を呼びに行くにしても、多くの人はそうした行動に馴れていません。もたついたり失敗したりすれば、それを傍観している大勢の人々の嘲笑や反感を買うかもしれません。ラタネらはこれを「稽古もしてないのに幕があがった状態」と表現しています。傍観者の存在はたんなる街角を劇場的な空間に変えてしまいます。通行人が人助けをしようと思えば、真っ先にその舞台の上に駈け登らなければならないのです。そんな場面の性質がハードルとなり人々は援助に躊躇を覚えることになります。
p. 90対人不安とは「重要な自己呈示に失敗することへの恐れ」と言うことができるかもしれません。
p. 129
これまで「羞恥は私たちに何を警告するのか?」という視点から、羞恥のメカニズムについて考察してきました。「自尊心が傷つくことへの警鐘」だとする自尊心低下説、「社会的に拒否されることへの警告」だとする社会的拒否説、「自己像への確信の動揺」とするアイデンティティ混乱説、「人間関係の停滞や混乱の結果」だとする関係混乱説、そして「人間関係の危機を知らせるサイン」だとする期待裏切り説です。これほど多様な考え方があると言うこと自体、羞恥と言う現象が複雑であり不可避なものであることを物語っています。そして、この不可解さこそが羞恥を研究することの魅力であり、また研究の方向性を指し示してくれる道標であるように思います。
p. 181
①個人は他者の期待に一致した印象を呈示することで、その関係を維持することができる。
②期待と一致しない印象は、他者から否定的、あるいは肯定的な評価的反応を引き出す。
③否定的な評価(非難、嘲笑)を受けた場合、他社の自己に対する期待は低下し、当該の対人関係を破棄する可能性が生じて「ハジ」の意識が喚起される。
④「ハジ」の意識は、その対人関係が個人にとって重要であるほど、あるいは、その対人関係を破棄される可能性が高いほど強まる。
⑤このとき、呈示した印象を否認できる可能性が高いほど強い「テレ」の意識が喚起され、呈示像を否認するための言語的、非言語的なメッセージの伝達が試みられる。
⑥肯定的な評価(賞賛、喝采)を受けた場合、他者の自己に対する期待は高揚し、当該の対人関係が強化される可能性が生じる。
⑦この時、高まった期待に応じられる可能性が低いほど強い「テレ」の意識が喚起され、呈示像を否認するための言語的、否言語的なメッセージの伝達が試みられる。
以上の命題は、あくまでも仮説の段階ですが、羞恥の理論的研究を進めていく上での一つの道標となれれば幸いです。