どうしてこの国は「無言社会」となったのか (vita)

著者 :
  • 産学社
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  • Amazon.co.jp ・本 (178ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784782571033

作品紹介・あらすじ

電車で足を踏まれたのに無視されたことありませんか?



「無言社会」を考えることは社会のあり方を考えること。

すなわち社会観の問題である一方で、自分はどう生きるかを考えること、つまり人生観や人生論の問題でもある。

人生は社会に収まるものではない。人の誕生や死は、社会を超えるできごとだ。

だから、自分が 生きているこの社会を絶対視すること、社会の内部でだけ人生を考えることは、まるごとの自分の人生を考えるには、ふさわしくない。



そのためにも、普遍の視点、社会を超える視点、そして、社会の外部に出る視点が重要であることを伝えたい。



本書は学術書ではない。エッセイ風の読み物である。肩の凝らないように配慮しているつもりなので、気楽に読んでいただきたい。

(「はじめに」より)



※装丁:山口昌弘



第1章・「無言社会」という時代

 何があっても無言な人々

 ホンネはインターネットの中だけ

 声を出す機械たち

 ノリの悪いことはいえない



第2章・ 声を出さない理由

 恥意識と「無言」

 日本的男らしさと「無言」

 秘の共有

 やさしさに甘えて「無言」

 集団への気づかいと「無言」

 声を出すことの「重さ」



第3章・ これからも「無言」でやっていけるのか

 あうん文化の限界

 「無言ストレス」の発散としてのクレーマーたち

 それでも社会は変われる

 「線的」関係の基盤の動揺

 「かまわれない自由」を優先する社会

 「無言社会」への適応が招く不適応

 集団嫌いの集団主義

 「楽しさ」というつながる努力と工夫

 「秘」の文化は守られるのか



第4章・「無言社会」を越えて

 ほんとうは毎日が神秘で奇跡

 社会というステージで役者になる

 演技の自覚

 答えを求めて、自分に問い続ける

 私たちはみんな「何者でもない人(nobody)」

 死を想い、社会を超える



声を出せなかった「コミュ障」の私 ~やや長いあとがき~

感想・レビュー・書評

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  • 印象に残った言葉たち↓

    日本人にとって、意見を持つこととそれを表明することは別。
    個人よりもまず先に集団があり、集団の合意があるか分からない状況で意見や主張を通そうとするとワガママ、自分勝手と捉えかねない。

    仕事で『はっきり言わないと分からないのはバカ』=『はっきり言わなくてもわかってもらえる』甘えの上に成り立つ。

    日本では人が言い間違えをしたとき、笑いが生まれる。それはおそらく緊張からの解放によるものだが、笑いの種類としては『揚げ足とり』の笑いである。
    そうした習慣があるため日本人は話す内容ではなく、話し方を気にしている。

    男性高齢者が陥るパターン。
    会社(『無言』が通用する世界、一を聞いて十を知るを求められてきた世界)でずっと働いてきた人は、定年退職後に会社との関係が切れると家族、近所から「構われない孤独」に陥る。
    加えて、高い地位にまでのぼりつめた人は、過去の栄光を話したがる。(みんな感心して、近づいてきてくれるだろうとの期待)しかし周りは無神経な人ととらえてしまう。

    日本人ほど集団嫌い&人間不信に陥っている人々も珍しいのでは?→そもそも日本的コミュニケーション(はっきり表現しない=お互いに腹を探る、ことばから真意を読み取る努力が不可欠)が不信の原因。

    自分のことを「コミュ障」と自虐的に呼ぶ人が多いのは、社会が「適切なコミュニケーション」を過大評価し、この社会で生活する私たちがその評価を重視するから。その根底には「社会がすべて」と考え、社会が提示する価値基準はすべて「絶対」とみなす思い込みがある。

  • 社会学者によるデュルケムのなんちゃらとか難しいこと一切無しの軽〜いエッセイです。先生の博論「自己コントロールの檻」では、社会の心理主義による自己崇拝社会が到来し、「本当の感情」や「感情を害さない優しさ」「相手の気持ちを理解すること」などが求められ、超高度な感情コントロールが要求され、そこから逸脱する人を監視し、自分も逸脱しないよう更に自己コントロールに励むという地獄を指摘したのでした。あれから約15年、あの地獄は、ついに「無言社会」となりました。今回は恥の文化やちっとも集団主義じゃない日本人など、無言社会における人々が共有している社会文化的側面を書いています。文化心理学は心の性質そのものが文化と表裏一体のものとします。現代日本社会はお馴染みの甘えの構造は維持されたまま、かまわない、かまわれない自由を謳歌したい。そして孤独死社会や無縁社会と言われるまで極まった模様。さらに地獄は広がっていったようです。最後に「じゃぁ、どうすればいいのか?」について軽く触れられてますが、社会の外に出るか出ないかみたいな話になるのですが、さすがにそれは若者には難しいんじゃね?と思いました。

  • 日本人にも自分なりの意見はあるが、それを表明することはしない。周囲への配慮があるからである。

    そして無言という「サービス」は現代になり更に加速している。

    最近話すことが減ったなと思う自分。仕事もプライベートも何も話さなくてもやっていける社会になってしまった。
    周りの大人がそうしているように自分も「ちょっとした一言」をケチるようになってしまったのだ。
    自分には結構大事な問題だと思った。

  • 直接顔を合わせる対面関係では声を出さない日本人が、ネット上には膨大な言葉を書き込む。とても対照的だ。ネット社会は無言社会を象徴している
     本当にいいたいことは、ネット社会で言えばいいという感覚が浸透してきているようだ。

  • 2013/11/20読了

  • 資料ID:21302369
    請求記号:361.4||M

  • 無言社会についての論評だが、P173で著者のいみじくも告白めいた記述がある.”社会学は分析や説明に長けているかもしれないが、「ではどうすればよいか」という問に答えるのは苦手だ” 確かにそう思うが「社会というステージで役者になる」ことが解決法の一つで、ある程度演技であっても声をかける努力が必要なのかなと感じた.

  • 日本人が声を出さない1つの典型的場面が講演会。
    本音はインターネットの中だけ。
    本当はやりたくないのに、声を出せないのはどの世代でも同じ。
    根底にあるのは、バカにされたくないという強い願望。悪口や噂のネタにされたくないから、言いたくても言えない。
    日本社会はまず集団があって、そのあとに個人が来る。

  • 大学教授の著作だが、堅苦しいところがなく、身近な話題で考えさせられる。
    確かに「無言」は、日本の、特に核家族化が進行した現代の社会的問題に根差しているのだと思われるし、その社会が世界とは異なっているから変わる必要があると主張されても急に変わるものでもないから、その社会を構成する一員たると同時に、問題意識につきあっていくという対処はありだと認める。
    だけど、他生のご縁の方に意を決して声をかけていくのなら、キャラを演じ、ノリを大切にしながら仲間ごっこを続けることも絶対視することなく、自分自身の心地よい塩梅を考えてもよいと思う。
    13-64

  • ひととひととが無言でかかわり合う、そんな社会について語られた本。
    著者が言うには、エッセイらしい。
    あまり目新しいことは書かれていないけど、考えさせられる。
    こういう社会学系の話が好きなひとにはいいと思います。
    著者プロフィールに哲学を勉強中、とあったのがなんか新鮮でした。

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著者プロフィール

1962年、兵庫県神戸市生まれ。

神戸市外国語大学卒業後、関西学院大学社会学部卒業。同大学院社会学研究科博士課程修了。

博士(社会学)。

現在、皇學館大学文学部コミュニケーション学科教授。

専門は理論社会学、現代社会論、消費社会論。

現在は哲学を勉強中。

著書に『「お客様」がやかましい』『ほんとはこわい「やさしさ社会」』(以上、ちくまプリマー新書)、
『自己コントロールの檻―感情マネジメント社会の現実』(講談社選書メチエ)、
『日本はなぜ諍いの多い国になったのか―「マナー神経症」の時代』(中公新書ラクレ)、『かまわれたい人々』(中経出版)。

共著に『変身の社会学』、共訳に『自己論を学ぶ人のために』(以上、世界思潮社)
などがある。

(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


「2012年 『どうしてこの国は「無言社会」となったのか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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