名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題

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  • Amazon.co.jp ・本 (283ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784782800225

感想・レビュー・書評

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  • ソール・クリプキの著書には二冊の有名な邦訳がある。一冊は『ウィトゲンシュタインのパラドクス』、そしてもう一冊がこの『名指しと必然性』だ。またこの本は「可能世界」という言葉が登場することでもよく知られている。

    ラッセルvs.クリプキの本と言ってもいいかもしれないし、私たちが現実と呼ぶものと、可能性と呼ぶものとの繋がりを見出す本だとも言えるかもしれない。私たちが生きる現実は<これ>しかないのに、どうやって私たちは可能性を考えることができて、しかもその可能性が、<この現実>の可能性だと言うことができるのか。それがこの本を通じて探求される謎だ。

    クリプキはこの謎を追求するために、名前を持ち出す。誰かに、あるいは何かに、名前を付けること。いわば、名づけられている私たちが<この現実>の側の存在で、名前のほうが可能世界の存在となる。

    私たちはみんな、名前をもっている。もっているという言い方が気に食わなければ、名前がある、といってもいい。
    でも、名前と私たち自身との間には、赤い糸のような繋がりがはっきりあるわけじゃない。あるとき、気付いたら、明日香とか健太とかセバスチャンとかクリプキとかが私たちの名前だった。

    どうして私たちはそうやって呼ばれるのだろう。名前と私たちの間にある繋がりは、どうやって保たれ続けているんだろう。私たちが死んだ後にも残されている数々の名前、たとえばプラトンやアリストテレスやソクラテス、ヒトラーに太宰治は、どうして<あの>プラトンや太宰なんだろう。

    たとえば、プラトンが『饗宴』を書いたのは確かだとして、それがどうして、私たちの想定している<あの>プラトンだと言えるんだろう。もしかして、全然違う人が『饗宴』を書いて、そしてプラトンは別に存在していたかもしれないじゃないか。
    あるいは、『走れメロス』を書いて、本名は津島修治というらしい、入水自殺した人物を、どうやって、私たちが知る太宰治だと確信できるだろう。もしかして、それらすべてを行わなかったにも関わらず、太宰治である人物が存在したかもしれない。

    それにそもそも、可能性を考えるとは、何をすることなんだろう。


    最初は複雑怪奇なだけに見えるかもしれないこの本の中で、読者は可能性の有様について知る。名指すという行為が可能性の中に入りこむことによって、私たちがこの名前で呼ばれ、そしてかつて呼ばれており、そうでなかったことはあり得ない、と述べることの意味があらわになる。

    本書の全体を通して主張はシンプルだが、細部まで見始めるとその多重性にめまいがする。そしてその複雑さが一つの単純な主張に収束していくことに気付いた時の快感は、何物にも代えがたい経験になるはずだ。

  •  原著1980年刊。
     後期ウィトゲンシュタインの、疑問文だらけの妙に刺激的な思索に惹かれ、言語哲学なるものに興味を持って、その重要論文集というのも読んでみると、もの凄く頭の良さそうな人たちが不思議な議論を展開していた。この「言語哲学」の系譜に連なる重要な哲学者の一人が、クリプキである。
     読んでみると、独特な専門用語があるものの、理解しがたいということはない。むしろ論旨は明晰であって、難しすぎて頭脳を酷使させられ、眠くなるという現象は起きなかった。非常に明快な文章をたどったという印象がある。
     名指されたものの同一性に関することとか、確かに興味深い問題が提示されている。
     さらにクリプキの書物を読んでみたいのだが、残念なことに入手可能なクリプキの邦訳本はほとんど無い。

  •  翻訳本ならではの読みづらさはありますが、講義録ということもあってか、比較的読みやすい文体であるように感じます。言語哲学の本でありながら、後半は科学哲学的な内容(自然種や理論的同一視、心と脳の問題)も帯びてくるところが面白いです。しかし言語哲学のそれまでの議論の経緯をある程度把握できていないと、理解しながら読み進めるのが難しいと感じました。

    私はミドリムシが動物なのか植物なのか考えるための参考のひとつとして、本書を読みました。感想、学べたことなどをnoteにまとめています。(https://note.com/midori_elena/n/nbccb7705fe89?magazine_key=mb1d3161dcc72

  • 第2回アワヒニビブリオバトル「名前」で紹介された本です。
    2015.07.08

  • 同一性について考える手がかりがあると思って、読んでいったが
    固有名の指示とは何によってその固有性が担保されているのか、という問いだけではなく
    一般的な指示語についても語るし、指示語との必然的なつながりと
    アプリオリな繋がりなど思った以上に丁寧な議論である。

    話としては非常にややこしいものではあるけれども
    クリプキはかなり段階を踏んで腑分けをしているので
    そこから先に行くまでの分類、見取り図としての力を持つ書物であるのは間違いないところだと思う。

    この手の難解な書物では訳者解説などに助けを求めたいところで
    今回のあとがきも哲学的な潮流の中での位置付けを行なっており
    十分にサポートしてくれている。
    しっかりとした参照点になる書物と思う。

    >>
    たとえば、アリストテレスはそもそも存在したか否かと問うことによって、その名前はいったい指示対象をもいつのかどうかという問題を提起してもよい。この場合問われているのは、この物(男)が存在したかどうかということではない、と考えることは当然だと思われる。われわれがひとたびその物を捉えてしまえば、それが存在したことを知っているのである。実際に問い糾されているのは、その名前にわれわれが結びつけている諸性質に照応する物があるのかどうかということ(p.32)
    <<

    指示対象が所定の性質を持たないとした場合に、そもそも指示自体が不成立になってしまいかねない。
    にも関わらず、このような言明が可能であるなら所定の性質とは独立に指示が成立している。
    これが一つのテーゼだ。

    これは実在が属性の集合によって成り立ってないということでもある。

    >>
    辞典のこの記述を満足するものは何であれ必然的に虎である、ということは真なのだろうか。そうではないと私には思われる。ここで記述されたような虎の外見をすべて備えてはいるが、内部構造が虎とは全く異なる動物を発見したとしよう。(中略)虎にそっくりに見えながら、調べて見ると哺乳類ですらなかったことがわかるような動物が、世界のどこかで発見されるかもしれない。それらは実際は、極めて特殊な外見をもつ爬虫類であったと仮定しよう。その場合、この記述に基づいてわれわれは、何頭かの虎は爬虫類であると結論するだろうか。しないのである。(p.142)
    <<

    面白い思考実験である。これは固有名詞だけでなく、ある種のカテゴリーについての指示について話している。循環論法でないかは非常に微妙に見えるが、言明による指示は支持されたと同時に先立って成立する内容があるようでもある。

    一読してスッキリ分かるというものではないが、とてもスリリングなところのある本だ。

  • 分析/総合、アプリオリ/必然の区別のところがちょっとよくわからなかった。

    非常にまわりくどいというか、予防線を張りまくっているという印象の文体。

    もう一回読み直さねば。卒論で使うし

  • クリプキ最初の一冊

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