- Amazon.co.jp ・本 (218ページ)
- / ISBN・EAN: 9784782802038
感想・レビュー・書評
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門脇先生の本。
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ア・プリオリな知識がなぜ「ア・プリオリ」なのかは科学的に解明しうる(かならずしも実際に解明されることを意味しないが)命題で、その結論を予想すると、「人間の脳がそうであるから」ということになるんじゃないかな。と同時に、ある種の脳機能障害を研究すれば「ア・プリオリ」が普遍的でないことが明らかになるんじゃないかな。
「因果律」という誤謬は脳機能障害だしな!
知識の正当化は会話という社会的な実践から生じるというローティのプラグマティズムは知識の政治(動員ゲーム)化であり、それを経営学の実践理論に昇華したのが野中郁次郎。わりとコミュニタリアン。
ウィトゲンシュタインが倫理と神秘の領域を、哲学的思弁から保護するために、あんな面倒くさい論考をした、それはカントと同じ目的だ、という見方はぼくも同じ。
ぼくの中では反神秘主義という意味での物理主義と、しかし複雑系である人間が実際に解明され尽くすのとはないだろうという意味での形而上学は、両立するんだよなあ。理念と経験の二元論。
複雑系はあたかも自由意志を持っているかのようだというデネットに共感。真理としては決定論が正しいとしても、経験的主体としては自由意志があるものとして生きることができる。
人間と動物を区別したり、心に特別な位置を与えるのは、単に現代の科学の限界だと思う。しかし、科学が現実に心を解明していない現代においては、人間を動物と区別したり、心を特別なものとして扱うことは、理にかなっている。それは実践的に、プラグマティックに、多数派の同意を得られる思想だから。
SF的未来から現代を振り返った視点を想像すれば、もう全部が物質的身体と無意識のせいってことでよくね、という気分にもなる。 -
著者は現象学やハイデガーの研究者だが、とくに現代の英語圏の哲学の中でのハイデガーの思想の意義を解明する仕事にたずさわってきた。現代の認知科学をめぐる諸問題に、やはりハイデガー哲学の立場から答えようとしているアメリカの哲学者、H・ドレイファスを紹介したことでも知られていたが、2010年2月に、早すぎる死を迎えた。
近代科学の成立以後、哲学の問題は科学的なアプローチによって解決できるとする自然主義の立場と、それに反対する反自然主義の立場が、激しいせめぎあいをおこなってきた。本書は、現代における自然主義と反自然主義との主戦場である、知識・言語・行為という三つの問題圏で、それぞれの立場からどのような議論がなされてきたのかを分かりやすく紹介している。
最終章「ハイデガーと現代哲学」は、著者自身が共感をもっているハイデガーの立場の現代的意義が解説される。そこで著者は、ハイデガーの議論を反自然主義的な「実践的全体論」(ドレイファスの表現)として解釈する見方を支持している。
本書は現代哲学の教科書として書かれている。だが著者は、英米哲学と大陸哲学を分断するよく用いられる見方は皮相だという。著者は、現代哲学の運動は、自然主義と反自然主義との対立というもっと深刻な次元で生じていると述べる。とはいうものの、本書ではやはり英語圏の議論の紹介に多くのページが割かれており、現代の大陸哲学の動向についての解説が少し不十分であるように思った。