知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

著者 :
  • 産業図書
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感想 : 17
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784782802083

作品紹介・あらすじ

これまでの知識の哲学を解体し、自然現象としての知識を捉える新たな認識論のパラダイムを構築する、ユニークな教科書。

感想・レビュー・書評

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  • 筒井淳弥さんおすすめ

  • 本書で考える問いはどんなものか。以下のような場面を想像してみよう、という筆者の提案からはじまる。


    あなたと弟が学校から帰ってきたら、テーブルの上にきれいな包装紙に包まれた箱が置いてあった。二人は同時に「シュークリームだよ、きっと!」と叫ぶ。…
    箱を開けてみると本当にシュークリームが入っていた。なんでシュークリームだと思ったのかと尋ねる弟に、あなたは「なんかそんな気がしただけ」と答える。一方弟の答えは、「今朝、おかあさんがおやつにシュークリームを買っておくから帰ってきたらおねーちゃんと一緒に食べなさいって言ってたんだもん。」。「なーんだ。あんた知ってたんじゃない!」

    二人ともシュークリームが入っていると強く思っていて、二人の思っていたことは正しかった。でも弟はシュークリームが入っていたことを知っていたと言えるのに対し、あなたの場合はそうは言えないみたいだ。この違いは一体どこにあるのだろう?


    この冒頭のエピソード大好き。筆者が言う「哲学の問いは日常の中に転がってる」というのをよく表してるし、「うーん、何が違うか。理由があるか、ないか、かな?」と読者を引き込ませるし、読み進めるうちに「ハテ。一体この本で何を考えていたんだっけ?」となった時に「ああそうだ、シュークリーム」と問いに立ち戻れる。

  •  認識論を続けて読んだが、今一つ興味が持てなかった。。。どのレイヤーの話をしているのか、すぐついていけないくなりますな。


     …伝統的に認識論は次のような二重の目標を持っていた。第一の目標として、知識の基準をたてる、つまり知識の正当化基準を明確にすること。第二の目標として、その基準に従って知識を求めていけばわれわれは心理に達することができるという具合に、その正当化基準そのものを真理の獲得という目的に照らしてメタ正当化すること。第Ⅰ部では、このうち知識の基準をめぐる議論をたどってみた。信念の正当化が全体としてどんな構造になっているかを考えると、われわれは遡行問題という厄介な問題に直面してしまう。この問題に対する二つの解答パターンとしては、内在主義的な解決と外在主義的な解決とがある。ところが、どうも内在主義的な解決策はうまくいきそうもない。そこで私は、ドレツキの情報論的な知識の理論を実例にとって、知識をもつためにわれわれは正当化を心に抱いている必要はないという外在主義的な立場をとことん突き詰めていくとどうなるかを追跡した。その結果、第Ⅰ部で本書がたどり着いた立場が、「ラディカルな外在主義」である。つまり、正当化は知識の構成要件ではないのではないか、そして、知識の問題は認識者を自然界の中に置いて、知識を自然現象の一種として捉えるような視点でアプローチすべきではないかという考え方だ。こうして、知識とは何か、そもそも知識に正当化が必要か、知識の哲学が考えるべき問いは何かということまでが根本的に再考を迫られることがわかった。
     だとすると、なんでまた、正当化とくに知識全体の基礎づけの問題が知識の哲学の最も重要な問いだとされ、そしてその問いがよりによって認識者の心の中を探ることによって内在主義的に答えられなくてはいけないと考えられてしまったんだろうということが逆にとても不思議に思えてくる。これが第Ⅰ部の残した問いだ。第Ⅱ部ではこの問いに答えることを目指した。その答えを一言で言えば、伝統的な知識の哲学が内在主義的で基礎づけ主義的になってしまったのは、「知識なんて本当はないんだぞ」と主張する懐疑論に対して「やっぱり知識は可能なんだ、よかったよかた」ということを示そうとする際に、根本的に方針を間違えたからだ。知識の哲学はずっと、懐疑論との対決という課題に動機づけられてきた。懐疑論は、たとえば、われわれには自分が培養槽の中の脳であるかどうかが知りえないということ、自分がいま超リアルな夢を見ているのではないということはわからないということ、あるいはわれわれがしょっちゅう見間違い、聞き間違いをすることなどからスタートして、だからおよそ知識というのはありえないのだと結論する。
     これに対して、哲学者はまず、「そんなことはない。われわれはこのことは確実に知っていて、間違えるということはない」と言えるような確実で不可謬な知識を見つけてきて、その確実な知識に基づいて他の「知識」とされているものを正当化するという路線をとった。…この路線をとった哲学者の代表としてデカルトを取りあげて、その議論が懐疑論への対抗論証として成功しているかどうかを検討した。懐疑を免れているような確実な知識を探し求めるとき、デカルトが目をつけたのが心の中だった。なぜなら、外界の事物についての知識は懐疑論者の格好の餌食だからだ。何が信用おけないと言って、心の外にある事物についての信念ほど信用できないものがあるだろうか。見間違い、錯覚なんて日常茶飯事だ。培養槽中の脳は、自分が椅子に座って本を読んでいると間違って思わされている。でも自分がそう思っているということは確実に正しいのではないか。こうして、心の中の領域に確実な知識を見つけて、それをもとに他の知識を正当化していく。このようなやり方によって、いったん懐疑にさらされた知識が信頼に値することを示し、懐疑論に対抗しようという、内在主義的で基礎づけ主義的な知識の哲学がスタートした。しかしながら、デカルトの議論は懐疑論の論駁としてはどうやら失敗だったと評価せざるをえない。
     …
     このように、心の中からの基礎づけ路線というのはどうもダメそうだよ、というヒュームの警告があったにもかかわらず、哲学のムーブメントというものは、いったん弾みがつくとなかなか止まらない。内在主義的な基礎づけ主義の傾向は二十世紀の半ばまで続いてしまった。とても乱暴な言い方だけど、近代の哲学と現代の哲学の少なくとも半分は哲学的懐疑論への間違った対抗戦略が生み出したとんでもない一大伽藍だと言ってもよいかもしれない。しかしながら、…そもそも懐疑論は、「もしかしたら思った通りではないかもしれない」というちょっとした疑いを、知識の不可能性という全面的な懐疑へと水増しするための議論パターンだった。これに対抗する正しいやり方は、確実な知識を見つけてくることではなく、日常的で健全な「疑い」を知識の不可能性へと膨らませる論証の筋道のどこがおかしいかというものでなくてはならないはずだ。これが、「屁理屈には屁理屈で」という路線だ。…
     というわけで、…われわれの知識が全体として信頼に足る確実なものであることを基礎づけ主義的に明らかにすることで懐疑論に抵抗するという課題を放棄しよう、というのが本書のここまでの結論だ。

     …新しい認識論はこうした問いの立て方をとらない。知識は或る条件を満たした信念の一種ではないと考えるからだ。むしろ事態は逆で、信念の方を、知識の様々な実現の仕方の一つだと位置づけなければならない。

     …そこで新しい認識論は、自然言語や人工言語といった外部表象が、なぜ認知活動で用いることができ、そしてそれが真になるようにつとめることが、なぜ人間の認知活動の本来の目的(それは真理ではないかもしれない)に照らして有用であるかを説明しなくてはならない。つまり、言語的表象とその真理がもつ道具的価値を説明するという課題が新しく生じてくる、というわけだ。

  • 著者も前書きで述べている通り、自然主義の立場に偏った認識論入門書。入門書なのでいずれの項目もあまり詳しくは書かれていないが、伝統的な認識論と新しい認識論のだいたいの流れはつかめる良書。ただ、誤った記述がまれに見受けられるのでマイナス1点。

  • 認識論の教科書。


    【目次】

    はじめに(二〇〇二年五月 戸田山和久) [i-iv]
    目次 [v-ix]

    第1部 知識の哲学が生まれる現場(1)

    第1章 なにが知識の哲学の課題だったのか 001
    第2章 知識に基礎づけが必要だと思いたくなるわけ 023
    第3章 基礎づけ主義から外在主義へ 045
    第4章 知っているかどうかということは心の中だけで決まる 067

    第2部 知識の哲学が生まれる現場(2)

    第5章 「疑い」の水増し装置としての哲学的懐疑論 091
    第6章 懐疑論への間違った対応 109
    第7章 懐疑論をやっつける正しいやり方 131

    第3部 知識の哲学をつくり直す

    第8章 認識論の自然化に至る道 155
    第9章 認識論を自然化することの意義と問題点 173
    第10章 認識論にさよなら? 193
    第11章 知識はどこにあるのか? 知識の社会性 217

    終章 認識論をつくり直す 239

    参照文献と読書案内 [253-266]
    索引 [268-272]

  • 知識の古典的定義に始まり、新しい認識論が生み出されるまでや、今日的意義が次第に明らかになってくる。
    哲学が現代でも様々な理論や解釈を生み出し、現代社会に応じたものになっていることを感じさせてくれる。

  • 本書は哲学の二大カテゴリである形而上学と認識論のうち後者を解説しています。「教科書」とあるため敬遠されるかもしれませんが、そう銘打つだけあって、知識ゼロの人でも理解が容易の内容となっています。私は日ごろ哲学に触れない理系の学生なので、頭の体操としてちょうどいい本でした。哲学に興味があるけど、どこから手をつければいいかわからない人にお勧めの本です。
    (北九大 情報工学専攻 T.K.さん)

  • 人はいかにして世界を知ることができるかという、いわゆる認識論のテキスト。総花的に理論を説明するのではなくて、そもそも知るとは何かを「正当化された真なる信念(Justified True Belief)」から一つ一つ検討していきます。読み手にも頭を使って考えさせるので、なかなか手応えがあっておもしろい。ただ、半分くらいでもう置いてけぼりになったので、そのうちまた読みなおそう。

  • *購入


    親しみを感じさせる文体ですが非常に深い内容です。教科書としてはぴったりなのでしょう。
    例も豊富で、文体も比較的やわらかめ、言葉を尽くして説明してくれている感はあるのですが、どうしても内容的にとっつきにくい…
    なんどか読み返して慣れようと思います。

  • 認識論っておもしろいんだなあ。

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著者プロフィール

1958年生まれ
1989年 東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学
現 在 名古屋大学大学院情報学研究科教授
著 書 『論理学をつくる』(名古屋大学出版会、2000年)
    『誇り高い技術者になろう』(共編、名古屋大学出版会、2004、第2版2012)
    『科学哲学の冒険』(日本放送出版協会、2005)
    『「科学的思考」のレッスン』(NHK出版、2011)
    『科学技術をよく考える』(共編、名古屋大学出版会、2013)
    『哲学入門』(筑摩書房、2014)
    『科学的実在論を擁護する』(名古屋大学出版会、2015)
    『〈概念工学〉宣言!』(共編、名古屋大学出版会、2019)
    『教養の書』(筑摩書房、2020)他

「2020年 『自由の余地』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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