- Amazon.co.jp ・本 (239ページ)
- / ISBN・EAN: 9784782802090
作品紹介・あらすじ
道徳的善悪そのものを疑うまったく新しい倫理学教科書。
感想・レビュー・書評
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これは、おそらくモデルは永井自身なのではなかろうか?と思われる。本著は、M先生が講義をする。その講義を元に、猫のアインジヒトがM先生を批判する。そして、M先生の講義に参加し、アインジヒトの批判をきいている、祐樹と千絵がそれぞれの意見を述べていくこととなる。
で、永井自身というのは、永井の哲学観自体はアインジヒトに託されている。だが、アインジヒトのようにあり続けられる存在は、人間には存在しえない。それはどういうことか?早い話、永井ですら、いくらアインジヒトが永井の分身であろうが他者とコミュニケーションをするためには、そして、この社会で生きていくためには、M先生にならざるをえない、ということである。アイジンヒトとは、簡単に言えば、「独我論者」である。つまるところ、まず確固たる自分がいる。そして、自分は、いかなる状況であろうが、自然的には、「自らが有利である」ことを望む。そして、自ら有利である以上、他者に不利益になる。だが、それでも構わないのである。もちろん、他社に利益を与えることもあるが、それはあくまで、「自らに不利益を与えない」という条件の下、にである。そして、自分というとき、この自分とは、「今の自分」である。だから、独我論→利己主義→利今主義、と変化していくこととなる。仮に未来の自分を想定したとしても、それは、今の自分が想定している以上、「今の自分に含まれる」わけである。また、他者、というのも、自分が認識している、という時点で自分に含まれる。とすれば、他者=自分ともいえるのではないか?言えるのである。しかし、ここでいうところの、「中心的な自分」=「今の自分」なのである。よって、他者や未来の自分は同格であるが、それは、あくまで「今の自分」に包含されるものでしかない。だから、先ほどの言葉が言い直される。
「他者や未来の自分に対して有益なことをしてもよいが、あくまでそれは、今の自分に不利益を与えないという条件の下において、である」
これこそが、アインジヒトの正体であり、おそらく人間の本質的な姿であろう。だが、これでは、我々は社会生活を営めないのである。だから、我々はそれぞれが、互いに互いを、あるいは、自らをだますことになる。それが、M先生なのである。M先生は、理想を追い求める。社会的なつながりこそが我々を我々足らしめている。道徳を守ることこそが我々にとって善なのである。これは散々アイジンヒトによって批判される。者秋的なつながりこそが我々を足らしめるとはどういう論証によって説明しうるのか?それは今我々が実際に社会的な生活を営んでいるということから逆算的に説明することしかできないではないか。とすれば、その論証は不十分である。また、道徳を守ることが善と言う。確かに道徳を守ることによって自ら不利益を被ろうとも、それによって、幸福感が得られれば善いではないか、とする考えである。つまり、道に迷っている人を助けて遅刻する場合などがそれにあたる。とはいえ、これはアイジンヒトとはまるでかみ合わない。アイジンヒトは、不利益をこうむっている時点でルール違反である、とするのである。だが、我々は、実際に自らに不利益を与えてでも道徳的命令を実行する場合が見受けられる。これは結局のところ、M先生的世界観が実現されていることの証左なのである。ただ、それが絶対的である必要はないし、実際に、ここで助けない人も多々いるわけであるから、M先生が絶対的に正しいとは言えない。
そして、アイジンヒトはここでこう切り返す。自分は猫であるが、もし、自分が現実世界に存在すればM先生のように行動するだろう。なぜならば、自らをもそして他者をもだまし、自分以外の人間が道徳的に行動してくれるならば、彼らは自らを不利益にしてでも自分に利益を与えてくれる。それは逆に言えば、自分自身は優先的に利益を与えてもらえるし、自分自身はあくまで道徳的に行動しているふりをすればよいわけである。結局のところ、我々はみな、自分をだましているわけである。だまして、あくまで道徳的に行動しているふりをする。そうすると、はためからは誰もが道徳的にふるまっているように見える、とすれば、自分以外の誰もが自らを不利益にしても自分に利益を与えてくれる存在となりうるのである。とはいえ、今のこの言い回しは危険である、とするのは、これでは、「世界の中心としての自分」がいなくなるからである。そして、世界の中心としての自分がいる場合、今みたいに「誰もが」などとは言えないのである。なぜならば、その誰もがの中で「自分だけは例外的に特別な存在」だからである。よって、今のような言い回しは本来は語りえないのである。だが、それを語りえてしまう、というのはどういうことなのか?要するに永井ならこういうのかもしれない。
「語った瞬間に意味が変わった」
ちなみにメタ倫理学というのは興味深い。
「実在論」:人間の意思から独立に客観的に実在する。
「反実在論」:人間の意思から独立に客観的に実在しない=主観的に実在。
「内在主義」;道徳的認識には動機となって人を動かす力がある。
「外在主義」:認識したからと言ってそれだけで人を動かす力があるとは限らない。
ちなみに、これはメタな部分での信念みたいなものであるので、同じフェミニストでも、実在論者と反実在論者では、内在主義者と外材主義者とではまるで性質が異なってくるのである。だが、表面上は同じに映じるかもしれない。とはいえ、人間の意思とは独立に客観的に存在するというのは通常ありえないだろう。少なくとも、認識できなければそれはないものと一緒である。もちろん、私たちは、例えば、小説を読む際に神の視点に降りている、あるいは、映画を見る際に画面を俯瞰している、だからどうしても、認識していなくても実在していると言いたくなるが、それは俯瞰できるという条件があればだし、俯瞰できるということは認識できるということであるではないか。だから、反実在論が優勢となると個人的には思われる。また、内在主義のように道徳的認識が確実に自らを動かしてくれるとはとても言い難い。要するに実際はケースバイケースなのであるから、外在主義と言える。よって、我々は、「反実在論的な外在主義者」なのであろう。少なくとも、現実態的には。そして、理想態的には、あるいは、社会関係的には、我々は「実在論的な内在主義者」なのであろう。詳細をみるコメント1件をすべて表示-
corpusさん一点だけ。独我論と利己主義は似て非なるものだと『私 今 そして神』という永井の本にありました。つまり、私は独我論者だと主張できないのに対して...一点だけ。独我論と利己主義は似て非なるものだと『私 今 そして神』という永井の本にありました。つまり、私は独我論者だと主張できないのに対して、利己主義者は自分がそれだと主張できるのです。2023/05/27
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永井均の著書はわかりやすい。
同様に会話文になっている哲学に関する本で、私が読んだことのあるものに『娘と話す 哲学ってなに?』があるが、それとは異なり、ソクラテス、プラトン、アリストテレス…と順に具体的な哲学者とその考えを提示し、考察していく。
大学の倫理学概論で教科書として使用していたが、なるほど概論/入門向けだと思う。 -
[ 内容 ]
道徳的善悪そのものを疑うまったく新しい倫理学教科書。
[ 目次 ]
アインジヒトとの遭遇 何が問題か?
プラトンとアリストテレス(真の幸福について)
人はみな自分の幸福を求めているか?
ホッブズとヒューム(社会契約について)
社会契約は可能か?
ルソーとカント(「自由」について)
利己主義の普遍化は不可能か?
ベンサムとミル(功利主義について)
利己主義と“魂”に対する態度
ニーチェとキリスト教道徳
現代倫理学(メタ倫理学と正義論)
これからの論議のどこがつまらないか?
なぜ道徳的であるべきか?
語りえぬことについては黙ってやらざるをえない
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
ちゃんと読めていないので、是非また読みたいと思う。
最後の結論(アインジヒトの正体)にはアッと言わされた。
100225 -
2F 150/N14r
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読了
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倫理学の教科書だけど別に道徳的じゃない。しかし考えることについてこれほど誠実な姿勢を他に思い描くことができるだろうか?