- Amazon.co.jp ・本 (144ページ)
- / ISBN・EAN: 9784783735151
作品紹介・あらすじ
強制収容所の極限状態をへて、言葉を失っていく体験を根底に、沈黙に抗する詩を表した石原吉郎。1964年、H氏賞受賞し、今日さらに深く読み継がれる戦後詩の代表的名詩集を復刻する。資料集16頁添付。名著は常により新しいモチーフとテーマを啓示する。永久保存版思潮ライブラリー新刊。
感想・レビュー・書評
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『望郷と海』が衝撃だったので以前一度だけ読んだ『サンチョ・パンサの帰郷』のほうも読み返してみた。そしたらサンチョ・パンサとは誰か、そして彼にとって帰郷がどのような体験だったのかがなんとなくわかった。
所収中いちばん好きな詩は「思い出そうとしているのだ/なんという駅を出発して来たのかを」が印象的な「葬式列車」。また「おれが忘れて来た男は/たとえば耳鳴りが好きだ」で始まる「耳鳴りのうた」、「けれども この町へはもう/かえってはこないのだ」で終わる「くしゃみと町」など、忘却や喪失にこの詩人の原体験がある気がした。
【引用】
葬式列車
なんという駅を出発して来たのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
駅に着くごとに かならず
赤いランプが窓をのぞき
よごれた義足やぼろ靴といっしょに
まっ黒なかたまりが
投げこまれる
そいつはみんな生きており
汽車が走っているときでも
みんなずっと生きているのだが
それでいて汽車のなかは
どこでも屍臭がたちこめている
そこにはたしかに俺もいる
誰でも半分はもう亡霊になって
もたれあったり
からだをすりよせたりしながら
まだすこしずつは
飲んだり食ったりしているが
もう尻のあたりがすきとおって
消えかけている奴さえいる
ああそこにはたしかに俺もいる
うらめしげに窓によりかかりながら
ときどきどっちかが
くさった林檎をかじり出す
俺だの 俺の亡霊だの
俺たちはそうしてしょっちゅう
自分の亡霊とかさなりあったり
はなれたりしながら
やりきれない遠い未来に
汽車が着くのを待っている
誰が汽罐車にいるのだ
巨きな黒い鉄橋をわたるたびに
どろどろと橋桁が鳴り
たくさんの亡霊がひょっと
食う手をやすめる
思い出そうとしているのだ
なんという駅を出発して来たのかを詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2019年6月29日に紹介されました!