- Amazon.co.jp ・本 (228ページ)
- / ISBN・EAN: 9784788506619
作品紹介・あらすじ
"個人と社会のインターフェイス"とは、「個人的なもの」と「社会的なもの」が定位され、隔てられていく界面であり、同時に、「個人的なもの」と「社会的なもの」が接し、つなぎ合わされる界面であるがゆえに、それが揺らげば社会そのもの、個人そのものが大きく変動しかねない結節状況である。本書に収められた論文がトレースした軌跡が、インターフェイスの現在を明らかにする。
感想・レビュー・書評
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ジャンルは現代メディア論。アプローチは各著者によって種々多彩。しかし、そのどれもが骨太で読み応えあり。
以下、気になった記述。
(1章)
・E.ロジャーズによるニューメディアについての指摘:双方向性、脱大衆化(特定個人間の中で流通)、無同期性(時間からの制約を脱却)。
・パソコン通信の利用による友人・知人の数と種類の増大を伺わせる。
(2章)
・コミュニケーション環境の変化を、池田謙一は「情報処理していく情報環境」と「参加する情報環境」と表現している。
・コミュニケーション研究の枠組みに、マスメディア視聴者の能動性を前提とする「利用と満足研究」がある。
(3章)
・フィーンバーグの指摘:コンピューターは階層管理のシステムであると同時に、コミュニケーションの道具ともなる。
・生活世界のコミュニケーションによって生成される、抽象化、脱文脈化されない人間的存在を社会過程に吹き込むことによってはじめて、テクノロジー自身の、テクノロジーに媒介された人間の、人間に対する暴走を阻止できる。
(4章)
・(メディアイベントが日常化した現在では)メディアによって伝えられる事柄は、実際に私たちが生きる日常世界に根を持つものであるにもかかわらず、「どこか他所の世界のこと」のように感じ取られてしまう。
・社会におけるコミュニケーションの問題として考えてみた場合に、消費行為次元のみでの多様性の高まりは、コミュニケーションの多元性にとって不可欠な共有性や共同性の崩壊、つまり社会集団の断片化や分散化を引き起こす危険性を多分に含んでいるように思われる。
・日本社会における特殊性として「公共性」が個人とは対立するものとして理解されてきたために、その概念は、ハーバマスの(ドイツ語)が内包していた「コミュニケーション過程としてのダイナミズム」を失ってしまったのである。
(第5章)
・(佐藤によれば)学校教育現場の報告によれば、映像教育の成否は、言語を通じた事前の問題理解度や、映像と同時流れるテロップなどの文字情報のあり方によって、大きく変わるという。
・真に有権者にとって有害なのは、人物・イメージ情報でなく、政治と政治報道における有権者軽視の姿勢ではないだろうか。
・クリントンの「私たちの代わり」にやっている感覚の印象を与える戦略。
・「タウン・ホールミーテイング」フォーマットについて、カーベルは「直接民主制の幻想」を与えるに過ぎないと指摘。
(第6章)
・社会心理学が立証した、鏡像知覚と保守的な偏向という現象。
・同じく、沈黙の螺旋=世界収斂モデルの提示。根底に孤立への恐怖感があるというが、問題。
・グラノベッターの「閾値モデル」。少数集団で、暴動に参加するなどに有効。
・ブルデューは世論調査には、①だれもがなんらかの意見を持ちうる、②すべての意見はどれも優劣のない等価なもの、③問題は質問されて当然 という仮定がある。また、個人の意見の純粋に加算的な総計として1つの世論だけがあるのだという幻想を押しつける。
・マートンは予言の自己成就予言という言葉を用いた。
(第7章)
・カルチャラル・スタディの古典『ハマータウンの野郎ども』の読み解き。詳細をみるコメント0件をすべて表示