1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産

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  • 新曜社
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  • Amazon.co.jp ・本 (1011ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784788511644

作品紹介・あらすじ

本書は「1968年」に象徴される「あの時代」、全共闘運動から連合赤軍にいたる若者たちの叛乱を全体的に扱った、初めての「研究書」です。本書は、「あの時代」を直接知らない著者が、当時のビラから雑誌記事・コメントなどまで逐一あたって、あの叛乱がなぜ起こり、何であったのか、そして何をもたらしたのか、を時代の政治・経済的状況から文化的背景までを検証して明らかにします。その説得力には、正直驚かされます。また読み物としても、『〈民主〉と〈愛国〉』で証明済みですが、その二倍の頁数の本書においても、まったく飽きさせることなく一気に読ませてくれます。

下巻では、新宿事件、爆弾事件、ベ平連、ウーマン・リブ、そして連合赤軍を取り上げ、「あの時代」の後半期に起きたパラダイム転換が、後世に何を遺したのか、その真の影響を明らかにします。そこではじめて、ある意味で局所的な事象にすぎなかった「あの叛乱」を取り上げた今日的な意味が浮かび上がります。

感想・レビュー・書評

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  • 1970年前後の若者(主に学生)の「叛乱」を描いた物語の下巻。本書執筆の意図として、小熊英二があげているのは下記の通りである。上巻の感想にも引用したが、もう一度、引用しておきたい。
    【引用】
    本書は全共闘運動をはじめとして「あの時代」の若者たちの叛乱、日本の「1968年」を検証する。その目的は、過去の英雄譚や活劇物語として「1968年」を回顧することではなく、あの現象が何であったかを社会科学的に検証し、現代において汲みとれる教訓を引きだそうとすることである。
    【引用終わり】

    上記の問い、すなわち、「あの現象が何であったか」について、筆者は下巻で下記の通り述べている。
    【引用】
    一言でいうなら、あの叛乱は、高度経済成長にたいする集団的摩擦反応であったといえる。
    【引用終わり】
    最初の東京オリンピックが1964年、大阪での万国博覧会が1970年の開催であり、1968年の日本は、高度経済成長の真っただ中であった。そういった、高度経済成長に対して、当時の学生が違和感を感じたのは、4つの要因・背景があると、筆者は述べている。
    ①大学生数の急増と大衆化。当時の大学進学率は、せいぜい20%程度であり、現在と比べると圧倒的に少ないが、それでも、それ以前からすると、急上昇していた。大学生は、かつてのエリートではなくなり、大学を卒業したからといって世の中の中心で活躍する人ばかりではなく、サラリーマンになるしかないというような閉塞感を学生は感じていた。
    ②高度成長による社会の激変。高度成長により、世の中の姿は大きく変わろうとしていた。高度成長で激変していく社会構造への不安と戸惑いが学生にはあった。
    ③戦後の学校教育は、戦前・戦中の反省を踏まえ、民主主義を強調した(もちろん教育ばかりではなく、世の中全体がそうであったが)。それは、クラス運営のやり方(議論を尽くすホームルーム等)等を通じて、この時代の学生がまだ小さな頃からなじんできたものであり、ある意味で、全共闘世代の学生たちは、初等教育で教えられた行動様式を、そのまま実行したのだとも言える、と筆者は記している。
    ④当時の若者のアイデンティティ・クライシスからの脱却願望。「近代」から「現代」へのはざまにあって、「自分とは何か」というアイデンティティ・クライシスに集団的に見舞われた日本初の世代が、60年代末の若者たちだった、と筆者は記している。
    大きくまとめて言えば、高度経済成長による世の中全体の変化の中で、学生たちは、一種の閉塞感を感じていて、その閉塞感を打ち破る方法の一つとして彼らが考えたのが、政治運動への参加であり、全共闘運動であったというのが、「高度経済成長にたいする集団的摩擦反応」ということの意味である。

    ところで、上記した通り、当時の大学進学率は20%程度である。大学で、全共闘運動に何らかの形で関わった学生の割合は20%程度ではないかと言われており、実際に学生運動に関わった者の同世代の中での比率は5%程度ではないかと考えられている。すなわち、学生運動に関わった学生たちは、同世代の中では、もともと比率的にはマイナーな存在であった。それでも、運動の初期の頃は、多くの学生また一般市民の共感を得た運動ではあった。それは、当初の運動の目的が、学費値上げ反対や、前近代的な大学運営方法に対しての改善要求等の具体的で分かりやすく、また、学生の言い分ももっともだと思えるものだったためである。それが、69年1月の東大安田講堂での紛争あたりから、学生・一般市民の支持を失っていく。それは、運動が、具体的な学園改良を要求したものではなく、全共闘に参加している各セクトが目指す「革命」に向けてのものになったためと考えられている。セクト間の対立も激しくなり、内ゲバが起こるようになる。そして、連合赤軍事件・あさま山荘事件が起きるに及んで、運動は(少なくとも大衆的な運動は)ほぼ消滅してしまう。
    セクトが運動の中心を担うようになってからは、目指すものが、「革命」および「自セクトの勢力伸長」となり、一般学生、一般市民からすれば関係のない運動になってしまったこと、また、意味の分からない暴力が頻発し、ただの暴力集団にしか見えなくなったことにより、支持を失っていき、運動の衰退を招いてしまったということになる。

    筆者は、そういった運動に対して、「彼らはトライすることはした。どれほど稚拙にせよ、もがいてみることはした」という評価はしているものの、4つの点で批判をしている。
    ①それ以前の「戦後民主主義」をあまりに無知かつ性急に非難しすぎた、過去に学ぼうとしなかった点。要するに独善的になっていた点。
    ②運動後の去就。運動に携わった多くの者は、結局は高度成長下の企業社会に入って行ったこと。大部分は一時的なモラトリアムの中での活動であったこと。
    ③運動のモラル。機動隊との衝突の中で、自動車を横倒しにしバリケードとしたり、一般の商店に被害を与えた。また、内ゲバ、セクト内リンチ死等の意味のない暴力が横行した。同じことをアメリカでやっていたら警察から射殺されていたはず。
    ④指導層の責任意識。自らの作戦や指揮の拙劣さのために、部下(下部メンバー)に多くの負傷者や逮捕者をだしても悔いるところがなかった。

    長くなったが、以上が下巻の内容だ。
    上巻と同じく、1000ページを超えるボリューム。上下巻だと2000ページ超の本。「あの時代を検証する」ためには、膨大な細部を調べなければならない。そして、それを納得性の高い形で記述するには、相当丁寧に行わなければならず、ボリュームが膨らんでいくのは当然のことだと思う。
    私自身は、筆者の「あの時代の検証」結果は納得できた。一方で、運動後期の内ゲバや連合赤軍事件の中で、多くの若者が意味もなく亡くなっており、特に本書中の連合赤軍事件の「総括」に関しての記述には心が痛んだ。
    筆者は、「彼らはトライすることはした」とは書いているが、基本的には当時の学生運動に対して批判的な立場をとっている。
    それに対して、当時、運動に関わった人たちから、本書に対して多くの批判が寄せられたと聞いた。実際にネットで調べてみると、それらの批判のいくつかを読むことは可能だ。批判では、おおよそ2つのことは共通している。
    1つは、記述に事実誤認があるというものだ。結論に影響を与えるような事実誤認があるのであれば、事実確認をすれば良い。
    もう1つの批判は、本書の調査の方法論に関してだ。本書で筆者は調査を文献でのものに限定している。要するに当時の関係者にインタビューを行っていない。それに対して、当時の関係者から批判が寄せられているのである。しかし、それは、「本書執筆のためには文献調査という方法をとった」すなわち「今回はインタビューという方法をとらなかった」というだけのことだと思う(将棋で「それも一局の将棋」という言い方があるが、要するにそういうこと。この局面で別の手を指していたら、という考えはあるが、そうしていたら、それはまた別の将棋の一局になっていたという意味である。批判する人がインタビューによった執筆をすれば良い話だと思う)。
    また、本書は「研究書」「学術書」であるので、"Google Scholar"で検索しても、批判論文が見つかる。私が読んだのは、ある国立大学(今は国立大学法人というのかな)の教授が書いていた本書に対しての批判的な書評だ。教授は東大全共闘のメンバーで安田講堂にも立て籠もっていた1人だった。批判の内容は省略するが、私が「えっ?」と思ったのは、東大闘争の目的の一つは、東大をはじめとした国立大学の粉砕ではなかったのかな?ということだ。そういうことを目的に闘争に加わっていた人が、国立大学の教授になるのは如何なものだろうか?ということは感じた。

    大部の著作を読み終わったばかりであり、十分に頭が整理できていないが、とりあえずの感想。

  • リブについて記述された17章および結論箇所だけ読む。17章は書かれた田中美津本人は批判しているようだけど、読者としてはまとまっているし、なんとなく全体をつかめた気になるし、非常に分かり易いと感じた。当事者の証言を集めて再構成してあり、小熊自身の目をひく分析というのは少ない。だけど、費やした労力には拍手。

    719 
    田中は72年には、戦災孤児救援活動から、街頭闘争、新左翼くずれの男との同棲という変転中ずっと脳裏にあったのは、「あたしが生きるとは何か」「自分が何者であるか」だったと述べている。また当時の自分の悩みは「生きてない実感」であり、デモや街頭闘争にでたのも「スクラムを組み、インターを歌う中で、確かにここに己れがいる、というその実感があったからで、機動隊との衝突を心ひそかに期待したのも、より強くそれを実感したいがためであった」という。『いのちの女たちへ』127,235

    770
    1950年生まれの高橋源一郎が、2003年に「学年が2つぐらい上だと、ほとんどどうしようもないストレートな左翼なんだけど、1年下がると半分ぐらいの学生は消費社会化した左翼になっている」高橋の2008年の回想、「体の半分は非政治的。政治運動をやればやるほど、残りの半分が抵抗する。昼にデモに行ったら、夜はジャズを聞かないとおさまらなかった。引き裂かれていたんですね」

    792
    現代の日本で政治運動に若者が集まらないのは、連合赤軍と内ゲバに象徴される負の遺産と共に、<心><生きてない実感><アイデンティティ>といった問題を、社会や政治と切りはなして論じる慣習や言説にとりかこまれすぎているからだ。身体感覚。他者と肉体接触をすることで(スクラムのデモなど)生きている実感を得ることが可能だった。

    801
    あの時代の叛乱は、これまで政治運動として語られることが多かったが、実際には若者の自己確認運動や表現行為の側面が強かった。

  • どんどんしんどくなっていくのだが、新宿騒乱事件のあたりと、ベ平連の初期に関するあたりは非常に風通しがよい

  • 学生叛乱を記述した本の下巻

    闘争が活発化してからと、連合赤軍事件を迎えて下火になっていってからを記述している。
    その過程でベ平連と女性解放運動にも触れている。

    以下、印象に残ったこと。

    ①闘争が一般市民の理解を得られなくなっていくさま。
    闘争が、大学自治から、より抽象的な「自分探し」を求める闘争へ。
    (東大闘争を模倣した)したがって、就職や留年が間近に迫った一般学生の支持は得られない。
    さらにセクトの介入→その中で連合赤軍事件が起き、さらに運動からは離れていく。
    こうした運動の流れが、本来の目的を見失った組織がどうなるかを示していると思う。

    ②運動の理由と教訓
    筆者は運動を、「高度経済成長に対する集団摩擦反応」としている。
    自発的な「運動」ではなく、「反応」としている点が面白い。
    ※逆に現代だったら、そんなことは起こらないだろう。インターネットで他の人とつながれる。
    メンタル系の書籍もあるのでそうした現代的不幸も解消できる。

    そして彼らの失敗から学ぶべきことは、過去の思想や経験を十分に理解しないまま葬ることの不毛さ。
    当時の学生たちは戦後の知識人たちの積み上げてきた経験や知識を十分に読まないまま批判していき、闘争に走ってしまった。
    正直、現代でもそういったことは言えないだろうか。(十分な理解を得ないまま、対象を批判していないだろうか)

    ③連合赤軍事件の総括
    確かに学生たちを運動から遠ざけた一因。
    筆者としては、運動と距離を置くべきではないし、そのような結論に至るわけではないと考える。
    概して、これまでの多くの連合赤軍事件論は、「総括」の理由付けの解明に無駄な努力を注いでいるように思われる。
    社会の病理とか、そんなものではない。
    森と永田が、自らの身を守るため、逃亡や反抗の恐れがあるとみなした人間を、口実をつけて「総括」しようとしていたのではないか。
    事件の中に、見たいものを見ているだけだ。
    これも正直、現代につながる感じはある。凶悪事件が起きたときに、その総括を誇大に、センセーショナルに考えすぎていないか?
    対象にレッテルを張りすぎていないか?本人のおかれた特殊状況を考慮しているのか?


    ④1970年のパラダイム転換
    マイノリティへの注目。在日問題や米軍基地問題など。
    学生運動もそれに乗っかる形で注目される。
    →筆者は、これに対し、「サヨク」がきれいごとでできているという意見がある人もいることを指摘。
    その指摘には不十分な点が多いことに言及しながらも、日本のマジョリティに語り掛ける言葉がなくなっていることにも言及。

    これは、人々の意識、思想、言説の変化が、社会の実態変化より約10年遅れることを示してもいる。
    社会が変わっても、人間は発想の転換が容易にできない。
    →そうなると、闘争につながる。
    「言葉が見つからない」なかで安直に現体制を批判するのは良くない。運動のエネルギーの源泉になるが、その放たれたエネルギーはどこへ行くのか。

  • 長い長い下巻を読み終わる。
    ベ平連、ウーマン・リブ、連合赤軍。
    どれもしっかりと知っていたわけではなかったので、非常にためになった。
    現代の歴史を学ぶことがどんなに重要か。

  • 下巻も出たのか・・・。
    財布に余裕があるときに買おう。

  • 丸山真男は「我が国においては近代的思惟は超克どころか真に獲得されたことすらない」と宣言している。
    p182

    1960年安保闘争の敗北直後の1960年10月
    『民主主義の神話』が出版された。
    吉本隆明は60年安保が市民の政治参加だったと述べる丸山真男を批判し、丸山の言う市民民主主義はブルジョア民主であり、丸山の見解は進歩的啓蒙主義、擬制民主主義の典型的な思考法をしめし、現在、日共の頂点から流れ出してくる一般的な潮流をたくみに象徴している」と断定した。
    p184

    1972年の連合赤軍事件は、山岳ベースでの12人のリンチ死から、あさま山荘での銃撃戦にいたる事件をいう。
    同志12人を総括の名のもとに死亡させた衝撃は大きく、1960年代の若者たちの叛乱の終焉をもたらしたと言われる。
    p500

    赤軍派の結成集会は1969年9月。
    赤軍派議長となった塩見孝也の「過渡期世界論」がブント全体に知られていた。

    メンバーとしては、1971年にパレスチナに渡った重信房子が有名。
    重信は、父親が戦前に血盟団事件という右翼青年将校のクーデター未遂事件に関与していた。
    p501

    血盟団事件とは wikipediaより

    日本赤軍のリーダーの重信房子の父親は血盟団員であり、赤ん坊の房子は井上に膝に抱かれたことがあるといわれる。

    井上日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を標的に選定し、配下の血盟団メンバーに対し「一人一殺」を指令。
    血盟団に暗殺対象として挙げられたのは犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らなど、いずれも政・財界の大物ばかり。
    井上はクーデターの実行を西田税、菅波三郎らを中心とする陸軍側にもちかけたが、拒否されたの。
    1932年(昭和7年)1月9日、古内栄司、東大七生社の四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘や海軍の古賀清志、中村義雄、大庭春雄、伊東亀城と協議した結果、2月11日の紀元節に、政界・財界の反軍的巨頭の暗殺を決行することを決定し、藤井斉ら地方の同志に伝えるため四元が派遣された。
    ところが、1月28日第一次上海事変が勃発したため、海軍側の参加者は前線勤務を命じられたので、1月31日に海軍の古賀、中村、大庭、民間の古内、久木田、田中邦雄が集まって緊急会議を開き、先鋒は民間が担当し、一人一殺をただちに決行し、海軍は上海出征中の同志の帰還を待って、陸軍を強引に引き込んでクーデターを決行することを決定した。
    2月7日以降に決行とし、暗殺目標と担当者を以下のように決めた。
    池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)を古内栄司
    西園寺公望(元老)を池袋正釟郎
    幣原喜重郎(前外務大臣)を久木田祐弘
    若槻禮次郎(前内閣総理大臣)を田中邦雄
    徳川家達(貴族院議長)を須田太郎
    牧野伸顕(内大臣)を四元義隆
    井上準之助(前大蔵大臣)を小沼正
    伊東巳代治(枢密院議長)を菱沼五郎
    団琢磨(三井合名会社理事長)を黒沢大二
    犬養毅(内閣総理大臣)を森憲二
    井上準之助暗殺事件[編集]
    1932年(昭和7年)2月9日、前大蔵大臣で民政党幹事長の井上準之助は、選挙応援演説会で本郷の駒本小学校を訪れた。自動車から降りて数歩歩いたとき、暗殺部隊の一人である小沼正が近づいて懐中から小型モーゼル拳銃を取り出し、井上に5発の弾を撃ち込んだ。井上は、濱口雄幸内閣で蔵相を務めていたとき、金解禁を断行した結果、かえって世界恐慌に巻き込まれて日本経済は大混乱に陥った。また、予算削減を進めて日本海軍に圧力をかけた。そのため、第一の標的とされてしまったのである。小沼はその場で駒込署員に逮捕され、井上は病院に急送されたが絶命した。
    暗殺準備
    四元は三田台町の牧野伸顕内大臣、池袋正釟郎は静岡県興津の西園寺公望、久木田祐弘は幣原喜重郎、田中邦雄は床次竹次郎、須田太郎は徳川家達の動静を調査していた。第一次上海事変での藤井斉の戦死を知った井上らは陣容強化のため大川周明を加えることを画策し、2月21日、古賀清志は大川を訪ねて説得し、大川はしぶしぶ肯いた。また2月27日、古賀と中村義雄は西田税を訪ね、西田の家にいた菅波三郎、安藤輝三、大蔵栄一に、陸軍側の決起を訴えたが、よい返事は得られなかった[1]。
    一方、井上は井上準之助暗殺後に菱沼五郎による伊東巳代治の殺害は困難になったと判断し、菱沼五郎には新たな目標として政友会幹部で元検事総長の鈴木喜三郎を割り当てた。菱沼は鈴木が2月27日に川崎市宮前小学校の演説会に出ることを聞き、当日会場に行ったが、鈴木の演説は中止であった。
    團琢磨暗殺事件
    翌日再び目標変更の指令を受け、菱沼の新目標は三井財閥の総帥(三井合名理事長)である團琢磨となった。團琢磨が暗殺対象となったのは三井財閥がドル買い投機で利益を上げていたことが井上の反感を買ったとも、
    労働組合法の成立を先頭に立って反対した報復であるとも言われている。菱沼は3月5日、ピストルを隠し持って東京の日本橋にある三井銀行本店(三井本館)の玄関前で待ち伏せし、出勤してきた團を射殺する。菱沼もまたその場で逮捕された。
    逮捕・裁判
    警察はまもなく、2件の殺人が血盟団の組織的犯行であることをほぼ突き止めた。
    井上はいったんは頭山満の保護を得て捜査の手を逃れようとも図ったが、結局3月11日に警察に出頭し、関係者14名が一斉に逮捕された。
    小沼は短銃を霞ヶ浦海軍航空隊の藤井斉海軍中尉から入手したと自供した。裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の三名が無期懲役判決を受け、また四元ら帝大七生社等の他のメンバーも共同正犯として、それぞれ実刑判決が下された。しかし、関与した海軍側関係者からは逮捕者は出なかった。四元は公判で帝大七生社と新人会の対立まで遡り、学生の就職難にあると動機を明かした。

    元東大全共闘の小阪修平は「赤軍派の登場は、多くの学生に颯爽としたイメージで受け取られた」という。
    p509

    赤軍派の大菩薩峠での逮捕者たちは、社会を反映していた。
    トップは赤軍派の指導者の名があり、京都大学など一流大学出身者だった。
    その下にサブリーダーがいて、二流大学の出身者だった。
    最底辺は、青年労働者や無名校の学生たちだった。
    赤軍派日本の国家権力打倒をめざしていたが、学歴優先主義だった。
    p519

    1960年安保を戦ったブントが、幹部は東大出身者が占め、機動隊と衝突するのは、法政大や中央大の部隊だった。
    p520

    大菩薩峠で打撃を受けた赤軍派は1970年1月の集会で、世界同時革命の国際的拠点を築く方針を宣言した。

    彼らは、北朝鮮の体制を支持していなかった。
    もともと反帝国主義、反他スーリにズムを掲げ、ソ連をはじめ既存の社会主義国は堕落しているというのが多くのセクトの主張だった。
    赤軍派は、北朝鮮や中国の民族主義を低く評価していた。

    キューバだけは、ゲバラの劇的な死もあって、例外的に支持する社会主義国だった。
    p521

    よど号ハイジャック成功。
    我々は、明日のジョーである。 p523

    元東大全共闘の船曳建夫によれば、当時の学生運動会は狭く、知人の知人の知人くらいになれば、必ず一人くらい赤軍派がいた、とのこと。
    p666

    国際比較 p817

    1968年は、世界的な学生叛乱の時期であったというのは、間違い。
    大部分のアジア/アフリカ諸国は学生叛乱を経験していない。
    中国の文化大革命、ゲバラの活動、チョコ事件などは学生叛乱ではない。

    学生叛乱が起きたのは、日本、アメリカ、フランス、イタリア、西ドイツなどである。
    イギリスでは、同時期、大学生数の急増はなく、学生の大規模な叛乱は起きていない。
    p817

  • 高校闘争については1969年春の卒業式における都立青山、九段、大阪府立市岡高校の叛乱が有名であったとのことで、同年代でありながら全く知らない世界でした。高校生の場合には大学生と異なり、処分される可能性が濃厚であること、機動隊が簡単に導入されたことなど、更に絶望的な環境の下で闘った送られる側の一つ上の先輩たち、そして勇気ある送辞を読んだ同級生の一人での勇気ある行動には尊敬の念を覚えます。べ平連については私自身が70年6月23日の記念すべき日に「自分自身の満足感のために」デモに参加したことがあり、やはり同じような気持ちで参加する人たちばかりの運動体であったこと、それ故に、入口としての甘ちゃんのように見られた限界が良く理解できましたし、新左翼の1つのように見られるようになっていったことから、小田実らも一致できなくなり、解散していった流れが良く理解できました。連合赤軍の挫折はあまりにもリアルな詳細な記述で、この挫折感が70年代以降の学生運動に大きな心の傷を与えていたことを痛感しました。ウーマンリブの始まりなどは全共闘運動の挫折から出てきたものであったことが書かれていますが、そういう意味であの時代の学生のパワーが残した唯一の遺産だったと思いました。この上下巻を読み終わった後は、感動的でしたが、とにかくあの時代「政治運動」と思っていたものが、実は「自己確認」のための非常に個人的な運動であったこと、そしてその結果が70年6月以降の新たな目標を見出すことができず混迷を深めただけでなく、現在の個人主義の風潮を生むということに繋がっているように思います。

  • 全共闘運動の後半に入る。やはり文献資料を吟味し、その実証的研究は評価できる。いかに当時のマスコミ、政党機関紙が事実を歪曲していたかがわかる。取りあげられているのは「武装闘争」に突入した、いわば「最前線」である。ないものねだりだが、杉の棒での防衛、ハンスト、討論会など多様な形態の闘争は存在した。
    だからあくまでも「最前線」のマスコミなどで取り上げられた部分の記述であるので、それを考慮に入れないと誤解を生む危険性がある。

  • いわゆる「現代的不幸」の相克と著者は言う。1968の総括として秀逸なできだ、と言えるだろう。

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著者プロフィール

慶應義塾大学総合政策学部教授。
専門分野:歴史社会学。

「2023年 『総合政策学の方法論的展開』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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