- Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
- / ISBN・EAN: 9784788516342
作品紹介・あらすじ
私たちは「万葉集」についてどういうイメージをもつだろうか。大多数の人にとってそれは、「天皇から庶民まで」が「質朴な感動を雄渾な調べで真率に表現した」、日本民族が誇る国民歌集というものではなかろうか。著者は、万葉集についてのこの強固なステレオタイプのイメージはいかにして出来上がったかを問い、 古典が明治近代の国民国家の文化装置として成立したことを、文学史を博捜して緻密な論理で跡づける。
感想・レビュー・書評
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著者の独善??
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東2法経図・6F開架:911.12A/Sh57m//K
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「令和」の年号が「万葉集」からきたということでちょっと話題になった著者の本。「あとがき」を読むと、2001年にでたこの本が「新装版」として再刊されたのも、そういう経緯らしい。
さて、内容は、タイトルからも想像できるように、明治が新国家として、国民を統合していくプロセスのなかで、国の文化の歴史の始源として、「万葉集」が「発明」されたという話。
わたしたちが当たり前で大昔からそんなものだと思っているものは実は近代になって発明された概念である、みたいな話は、ポストモダーンな歴史学のなかではよくあるパターン。
国民国家を統合していく過程で「国民文学」が「発明」されたという話は、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」の議論と基本同じかな?
明治時代に「万葉集」を「発明」した人々は、欧米の「国民国家」に対抗するため「日本国民」の始源の物語を作る必要があった。そこで参考にされていたのは、ゲーテにも影響を与えたドイツのヘルダーだったりする。
ヨーロッパ各国の国民文学やドイツにおける民謡の概念が、1世紀以上あとの日本において、「万葉集」を「発見」したり、「日本民族」の民話、民謡などを「発見」し、収集、まとめていくことに影響する。
そういう話が日本でもありますよというところに止まらずに、当時の文学者・知識人の「ディスコース」をかなり具体的に精査しながら、論が進んでいくところが本書のすばらしさ。
本の内容は省略するが、明治〜大正期に、万葉集を読んで、評価した人たちは、「テクスト」をしっかりと読まずに、自分の思想なり、観念をもって、それに合致する歌をもって「万葉集」を理解したという議論が印象的。
先入観を持たずになにかを読むことはそもそも不可能だし、「テクスト」の「正しい」解釈が存在するわけでもない。
人によって、時代によって、「テクスト」の意味は、作られていく、変化していくものだということだが、自分の日頃の本の読み方は、まさに自分の知っていること、自分がまだ言語化できずにいるがなんとなく考えることを発見しているだけだな〜、とちょっと反省。
個人的には、島木赤彦の万葉集理解の変化というか、深化・進化のプロセスは面白かったな〜。