<責任>の生成ー中動態と当事者研究

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  • Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784788516908

作品紹介・あらすじ

責任(=応答すること)が消失し、「日常」が破壊された時代を生き延びようとするとき、我々は言葉によって、世界とどう向き合い得るか。『中動態の世界』以前からの約10年にわたる「当事者研究」との深い共鳴から突き詰められた議論/研究の到達点。

感想・レビュー・書評

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  • 「暇と退屈の倫理学」の國分さんと、生まれつきの脳性麻痺による車椅子ユーザーとして当事者研究をしている熊谷さんの対談。 ASD、自閉症スペクトラムの当事者研究側として綾屋紗月さんのお話も度々出てくる。

    車椅子は周りに「見えやすい障害」、周りに「見えにくい障害」は本人にとっても実は、自分の欲求がわかりにくい。それは、自分の状況を現す言語が無いから。
    能動態、受動態の二態だけでは現せないから。
    という話の流れから、中動態の話になる。

    空腹感の感じ方の個人差から、予測誤差とトラウマの話、トラウマ記憶を思い出すのが嫌だから退屈回避をするという話に、実はトラウマしか意識できないという意識の話。
    「暇と退屈の倫理学」の先の話にまで思考が進む。
    胎児の発達、過食の話から、浪費と消費、傷の否認と消費は相性がよいなど。そもそも意志とは、自己とは、まで。

    「暇と退屈の倫理学」が面白かった人も、発達障害支援の観点から、言語学、哲学に興味がある方、様々な人におすすめ。

    医療現場等での「意志決定支援」はとても患者さんを尊重しているように見えるけれど、実は自分たちの責任回避だと。「意志決定支援」ではなく「欲望形成支援」を目指すべきだという、ケアの話もとても示唆に富んでいた。

    しかし、熊谷さんと綾屋さんとの対談で、二人という単位であっても、熊谷さんにとっての救いは綾屋さんにとっては苦痛の世界という話になり、ユングの「ある人にとっての救済はある人にとっての監獄になる」が、蘇る。

    能動/受動の世界で、患者として話を聞いてもらう認知行動療法ではなく、中動態の世界で、自分と似たような経験を持つ人との集まりで人の話を「聞く側」の方が、実は客観的に、だからこういう行動に出てしまったのかがわかってくる、という当事者研究の話は面白かった。

    セクハラする者への責任についての話も少し出たけれど、まだまだそこは未解明で残念。

    責任負う。責任を負わせる。とても難しい。
    意志の概念を使って責任を個人に押し付けるのではなく、社会全体で当事者研究をするべきというメッセージ。
    「何かがあったときに誰かを責めるだけの文化ではなくて、困ったことがあればみんなでシェアして、それを研究のテーブルに載せて対処法を探るという文化が根付くことが大事。
    本人だけが、あるいは周囲だけが頑張って職場に適応するのではなくて、社会モデルに基づき、職場のなかにある文化そのものを変えていく必要がある。」とのこと。
    なかなか、組織の権力者がまともかどうかに寄るところも大きいと思った。

    まだうまく考えがまとまらないが、
    ページをめくる毎に気づきがあった。

    本人の変えられない部分の把握と
    周りが変えられる部分の把握

    最後は孤独と寂しいは違う。からの思考、言語の話。

    國分さんと、熊谷さんの対談。
    感想がまとまるはずが無い。でも、とても面白かった。

  • 書評 『〈責任〉の生成 中動態と当事者研究』(國分功一郎・熊谷晋一郎 著・本体2000円) 信濃毎日新聞 2021年2月14日付: 新曜社通信
    https://shin-yo-sha.cocolog-nifty.com/blog/2021/02/post-a34e97.html

    【書評】國分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究ー』|Colorful Life
    https://colorful-life.online/2021/03/07/【書評】國分功一郎・熊谷晋一郎『%E3%80%88責任〉の生/

    <責任>の生成 - 新曜社 本から広がる世界の魅力と、その可能性を求めて
    https://www.shin-yo-sha.co.jp/smp/book/b548211.html

  • 意思とは切断、能動・受動は行為の所在と責任を明らかにする言語。しかし、行為や判断は過去や環境の影響を受ける。ゼロから自分から発することはない。しかし、言葉がそうなっているからそう認識させられてしまう、というリカーシブなことが起こる。言葉というのは厄介なものだ。
    感謝を伝えるときも困る。共起的な、相手の何気ない言動に有難いなと思うときに「〜してくれてありがとう」と言うのは言葉の選択を誤っているように感じる。作用するされるの関係ではないと思う。もっとちゃんと表現したいと感じさせる。
    知覚、パターン化、推測の話もあった。パターン化と推測が得意な人が重宝がられる。このへんも多様さをどう生み出せるのか。

  • 私は人生の岐路に立った時、その中の一つの選択肢を自分の意志で選択し、その先の未来の一切の責任を引き受けることが大切であると考えていた。
    が、その考えがこの本を読むことで相対化され、本当にそうなのか?と疑うことができた。

    •かつて古代ギリシアの時代は意志という概念は存在しなかった。言語体系が能動態⇄中動態から能動態⇄受動態へと変わる過程で、並行して思考体系も変容し、意志の概念が生まれたのではないか、というのが國分先生の仮説である。

    •意思の概念の誕生によって、「これはお前の意思でやったのだから、責任を取れ」というように、行為と「責任」はセットで考えられるようになった。しかし、責任(responsibility)とは本当にそういうものなのだろうか?

    •ここで熊谷先生の取り組んでいる当事者研究の話が出てくる。当事者研究とは例えば放火事件を起こした人に対し、本人と行為を一旦切り離し(=外在化)、「放火現象が起こった」として、そのメカニズムをみんなで一緒に考えようとする方法である。これは一見無責任なように思われる。しかし、一旦免責し、なぜそのような行動を起こしたのかをその人の過去や当時の状況振り返りながらみんなで分析することで、当事者に不思議と引責したいという気持ちが湧いてくるというのだ。

    •意思には過去を切断する作用がある。今まで自分がどのような人生を送ってきたかを考えず、いつもここから、意思の力でスタートできるし、その先の結果は自分で責任を負うという考えは、あまりにも現代人に馴染んでいる。これは司法制度や個人主権とも非常に相性がいい。
    しかしそれは何も考えていないことに等しい。自分の行為(選択)は本来、自分の過去や周囲の環境とは決して切り離すことはできない。自分の過去も現在も未来も引き受ける覚悟こそ、本当の意味での責任ではないか。それは自分の人生や運命に対する応答(response)でもある。

    •責任はものごとに対して応答するときに生じる。例えば目の前に倒れている人がいたら、すぐにその人を助けたいと思うように。目の前の人が倒れてるのは自分の意思とは全く関係なくとも、それに対して自分はなにか応答(response)しなければならないと感じること、そのように自分が中動態的に変容すること、それが責任(responsibility)である。

    •自助努力や自己責任といった、行為の責任を当人に帰属させるための冷たい「何か」は本来の責任ではないはずだ。

    本書のテーマは上記のような感じだが、他にもASDの方の身体感覚についての話や、國分先生の「暇と退屈の倫理学」にもある消費と浪費の概念の話など、興味深い話がたくさんあった。
    難しく理解できない内容もあったが、非常に勉強になった。

  • 対談形式なので難解な内容ながら、入り込みやすかった。中動態についても、「中動態の世界」より本書を読む方が理解が進んだように感じる。
    能動態と受動態がはっきりと分離されることによって、自由意志の誕生と結びつき、そこから自己責任の概念が生まれてきたのではという仮説はとても興味深かった。
    自分自身の関心領域に引きつけると、この考え方は主語に重きを置かないオブジェクト指向と相性が良いのではないかと考える。

  • 読まずにいられない組合せ。依存とは何か?に明快な答えをくれた熊谷先生と、中動態という概念で新しい世界の観方を教えてくれた國分先生の対話劇。質問者からの投げかけで思わぬ展開が拡がるなど、この本のプロセス自体に、「変わる」感じが出ていて、読んでいて、とても成長できる本。
    また、随所の議論を束ねると、「國分哲学の総ふりかえり(各書籍という点を線でつなぐ作業)」的な読み方もできる本で、それだけでも、読む価値あり。

  • 外材化を前提としたメカニズムの解明、つまり犯人探しをしてない。そして行為や状況を「現象」として捉えたうえで、その現象の研究成果を仲間に向けて発表する。
    例えば放火。一度その行為を外材化し、自然現象のようにして捉える、すなわち免責すると、外材化された現象のメカニズムが次第に解明され、その結果、自分のしたことの責任を引き受けられるようになってくる。とても不思議なことですが、一度免責することによって、きちんと最終的に引責できるようになるのです。
    過去を眺めることなく、未来だけを見つめて、「未来を自分の手で作るぞ」というのが意思だ、と。それは過去を自分から切り離そうとすることです。ハイデッカーによれば、そうしている限り、人はものを考えることから最も遠いところにいることになる。人間は必ず時間のなかに、歴史のなかにいるのであって、そこから目を背けている限り、ものを考えることなどできないからです。

  • ■ひとことで言うと?
    「責任を取る」とは、過去と対峙し、自己の過失を能動的に引き受けることである

    ■キーポイント
    - 「意志」と「責任」
    - 「意志」は出来事の因果関係を切断する
    - 出来事を私有化し、「責任」を個人に帰属させる
    - 「責任」= Responsibility = Response + Ability
    - 出来事に応答(Response, 能動的な対峙)するのが本来の意味での責任である(中動態的な責任論)
    - 「意志」の発明で責任の意味がズレてしまった(能動態/受動態的な責任論)
    - 「行為の原因をすべて自分の意志に帰属させるのは無責任である」

  • 『中動態の世界』と『暇と退屈の倫理学』で扱われたテーマを使い、当事者研究を中心に実践的に考察が深められていく対談講義の書籍化。能動/受動の構造を避けることで責任を回避していると批判されることもあるが、むしろ逆で、中動態的に自身が行為の場になっていると捉えることで初めて自分の行為の加害性と被害性の両方に向き合うことができるという視点は非常に面白いし、尋問型の社会で考えたい視点。國分さんの「覚悟」という表現はしっくりくる気がする。

    当事者研究と精神分析、あと認知行動療法ももう少し勉強しないとだ。あとやっぱり最近何勉強しても現象学に行きつく。

  • 任の生成。読了。前段で「中動態の世界」を読んでから入ったが、後者は参考書で、前者は実技授業といった印象。対談講座を書籍化したもので、読みやすくて面白い上に、内容も濃い。いきなりこちらから入っても楽しめそう。「当事者研究」は初めて聞いたキーワードだったが、新たな気付きが多かった。

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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