陸軍将校たちの戦後史-「陸軍の反省」から「歴史修正主義」への変容

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  • 新曜社
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  • Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784788518391

作品紹介・あらすじ

戦後、親睦互助を目的として戦友会を結成した旧陸軍のエリートたちは、戦争を指揮したことに自責の念を抱いていた。その彼らがなぜ「歴史修正主義」に接近し、政治団体として会を先鋭化させていったのか。陸軍将校たちの戦後史と戦争観の変容に迫る。

*これまでの軍隊経験者の戦後史研究はおもに、末端の兵士や下士官(準エリート)を扱ってきた。本書は、旧陸軍の上級者であった者たちに焦点を絞り、彼らの戦後史と戦争認識を明らかにしている。

*戦友会を対象とした従来の研究群においても、戦友会の非政治性や、戦後世代へ会を継承することの困難さが指摘されてきた。一九九〇年代に会の政治化を遂げ、元自衛隊幹部へ門戸を開いた本書の事例は、戦友会研究の蓄積にも一石を投じるものである。

感想・レビュー・書評

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  •  偕行社の戦後史を見る。副題にもある思想の変容を、著者は世代間相違に見る。初期は、若い期を迎え入れるために政治的中立。1970年代後半からは、会の中心世代となった若い期が古い期の戦争指導の責任を追及=「陸軍の反省」。しかし90年代からの社会での「戦争責任」追及では若い期の加害行為の責任も問われたため、彼らは「歴史修正主義」に接近。
     同時に会員数減少は不可避であり、2001年には元幹部自衛官の参加が認められる。とは言え著者は、元自衛官と元陸軍将校の歴史観や専門知識のずれも指摘。そして偕行社には元自衛官もなかなか定着しないことや、陸修会との合併を紹介している。

  • 陸軍将校たちの戦後史
    「陸軍の反省」から「歴史修正主義」への変容

    著者:角田燎(立命館大学立命館アジア・日本研究所研究員)
    発行:2024年3月19日
    新曜社

    先日読んだ田辺聖子の本にも、戦時中、女高生など若い女の子たちは、陸軍よりも海軍に行った男子たちに憧れた。断然、海軍ファンだったと書かれていた。戦後、「海軍善玉、陸軍悪玉」や「好戦的だった陸軍、リベラルだった海軍」といった風潮の中、エリートだった陸軍将校たちは苦境を迎える。

    一つは、敗戦の原因は陸軍にあったというような世間での評価。公職追放後に就職もままならない。教員になった元陸軍将校たちは日教組でも異端児扱いされた。もう一つは、元陸軍将校内での世代間対立だった。古い期の人々が無謀な作戦を立て、若い期の人々は作戦を立てる権限がなく最前線での指揮をし、多くの戦死者を出した。若い期の人々は、古い期の人々に対して責任を追及したいという気持ちがあった。

    「偕行社(かいこうしゃ)」という公益財団法人が、本書での研究対象である。主な構成員は陸軍将校。陸軍における少尉以上の人々であり、基本的には陸軍士官学校のOB。陸軍士官学校の士官候補生は、在学中に終戦を迎えた61期まで存在する(年に複数期ある年もあるため61年とは限らない)。なお、1937年の盧溝橋事件以降に入学した53期から、軍の拡大にともない採用人数、卒業者数が飛躍的に上昇し、61期は5000人を超していた。

    著者は1993年生まれの若き研究者。2022年提出の博士論文を原形とした論文であり、6章立てでの構成のうち4章で整理される歴史の流れは分かりやすい。ただし、論文だけに読み流せるほど内容は簡単ではない。

    偕行社は、1877年に陸軍将校の会合場所として東京九段上の集会所が設置されたことに始まり、1889年に半官製組織となる。集会所の支所もでき、戦前は「偕行社記事」を発行して陸軍将校の研究研鑽の側面と、各地の集会所などのように福利厚生の側面があった。戦後は陸軍解体とともに解散となった。偕行の意味は「共に軍に加わろう」。

    ●第1章では、偕行社が戦後にどうのように復活していったかが紹介されている。

    1950年に朝鮮戦争が始まり、警察予備隊が設立されると、状況が少しずつ変わる。51年に旧軍人の採用方針が決定、旧陸軍正規将校40期以降の公職追放が解除された。それを機に40-58期を中心に同窓会組織の結成が議論されるが、若手(50期代)と古い期(40期代)の意見がまるっきり合わない状態だった。まずは同期生会をそれぞれ作ることになり、資金や手間のことを考えて各同期会会報を一つにまとめて「月刊市ヶ谷」を1952年3月に発行した。この名称は若い期への配慮があったが、古い期が中心となる中で、やがて機関紙も「偕行」と改題された。

    しかし、会員獲得(会費納入)はうまくいかない。機関紙に対する紙代納入者が少ない。保険事業で補う試みも失敗、おまけに陸軍将校だったふりをして詐欺めいたことをするなどの悪用の憂き目にもあった。政治的中立が掲げられたが、若い期からはもっと生活に役立つ情報を求められる一方、古い期からは軍事評論などの記事が望まれた。古い期は、最終的に政治的運動を視野に入れていたが、若い期は政治運動の中で再び「動員」されることを嫌い、偕行社から遠ざかっていくという構図だった。

    ●第2章では、会が大規模化していく過程や靖国神社の国家護持運動との関係について紹介。

    1960年頃には古い期の人々が物故し、若い期の取り込みが一層必要となる。そこで、宿泊施設などを備えた「偕行会館」の整備を目指した。靖国奉仕会(旧国防婦人会)から市ヶ谷の土地建物を寄付され、1966年に建て替え工事が完了し、簡易宿泊や会合(宴会)ができるように。親睦が促進され、陸軍や陸軍将校への社会的評価も徐々に変化していった。

    1960年代後半になると、旧軍人という色目で見られていたのが敬意を払ってくれるようになり、むしろ信用されるように。大会社の社長、マンモス労働組合の委員長、料亭の主人、映画俳優もおり、「顔が広い」という財産を得ることになる。そして、「偕行」の中心記事である「花だより」(各同期生が責任編集をしている投稿欄)を通じて、自分たちのエリート性を再確認する場にも。それでも、若い期の活動は盛んではなく、花だよりも途絶えることが珍しくなかった。最若年期の59期~61期はとくに参加が少なく、58期以前が公職追放になったのに対して、そういう経験がないことや、61期に至っては戦場にも行かなかった事情などもある。

    靖国神社国家護持運動が政争の具となっており、最若年期には大学に入り直して共産党員も多く在籍し、こうした運動に反対の声もあがった。偕行社が掲げる政治的中立を犯しているのではないか、との批判である。

    ●第3章では、古い期の責任追及をしてきた若い期が、1990年代になると「歴史修正主義」に接近し、「教科書改善運動」に参加した理由などを探っている。

    1975年になると、敗戦30年、古い期は物故し、最若年期が最も多い層となる。彼らも40代後半から50代、社長や重役などが増える。「同台経済懇話会」というエリート元陸軍将校の経済クラブが発足した(1975)。設立総会では福田赳夫が講演。会費も安くなく、入会金2万円、年会費5000円(のち実質1万円に)で、エリートになれなかった元陸軍将校は入ることができなかった。

    70年代後半になると、「偕行」上で、陸軍の歴史を振り返る中で25期の冨永恭次の評価について論争が起きる。フィリピンから無断で台湾に撤退した最高司令官として批判されていた人物だった。ここに、同期や陸軍を庇おうとする傾向と、敗戦の責任と向き合って自己批判や反省を行おうとする傾向が対立。後者は若い期に多かった。

    1982年の「教科書問題」に端を発し、「南京大虐殺」への関心が高まり、会員からも「なかった」の投稿が複数なされた。偕行では体験談を募集した。否定する意見もあったが、実際に目撃した投稿もあり、最終的には16000人が捕虜や敗残兵、便衣兵として撃滅、処断されたと推定した「南京戦史」を刊行することに。「戦時国際法に照らした不法殺害の実数を推定したものではない」という但し書きつきで。

    1990年代になり、戦争責任をめぐる日本政府の軌道修正が明確になり、負の歴史の清算が始まる。93年、細川護熙「私自身は侵略戦争であった」という発言。95年、村山談話。一方で、90年代半ばからは、侵略戦争認識の背景にあるのは「東京裁判史観」だとの主張が行われ、歴史修正主義の台頭を見る。偕行社でも、戦争責任を問う声があがったが、次第に「戦争責任」が「敗戦責任」についての議論となり、侵略戦争に加担し、加害行為を行った若い期自身の責任を問われることがないように、「陸軍の反省」からは目を塞ぎ、「歴史修正主義」へと接近していった。

    1986年からのバブル景気で、偕行社の土地建物も値上がりし、87年に27億6000万円で所有物件を売り、高額な家賃のビルに入って娯楽施設を備えた「クラブ化」がなされた。靖国神社への1億円の寄付なども行う。ところが、バブルが弾け、収入が減っていく。会費不足の分を補っていた収入が減る。将来は自衛隊幹部に引き継いでいくべきだとの議論が始まった。

    ●第4章では、同窓会としての偕行社から、政治団体化していく様子を見ている。

    当初、古い期が中心となった敬老会的な存在だった偕行社は、次第に中心が若い期となり、さらに元陸軍将校で元自衛官、さらには陸軍の経験のない元幹部自衛官へとつながっていく。元自衛官獲得のために施策も行われ、公益財団法人化を目指した。

    2022年4月、陸自幹部退官者の会「陸修会」が結成された。新規会員募集がうまくいかない偕行社は、将来的な会員や資産の減少による解散が議論されるようになった。

    そんな中で、偕行社と陸修会との合併話が持ち上がる。わざわざ陸自幹部による会をつくり、それと合併させることによって、「陸軍の伝統を引き継ぐ」陸上自衛隊幹部の外郭団体として再出発することになる。合同後の名称は「陸修偕行社」となることが決まった。

    *陸軍士官学校への入学は一般的には満16歳以上19歳までの男子を公募、旧制中等学校4年第一学期修了程度の学力試験、体格検査により選定された。このほか、陸軍部内の現役下士官・兵等で25歳を限度に所属長の許可があれば受験できた。また、陸軍幼年学校も存在したが、幼年学校は13~14歳の少年を対象に旧制中学一年程度の学力により公募され、幼年学校三年の課程を終えると無試験で士官学校予科に進み、中等学校経由で直接入学してきたグループと合流する。士官学校、幼年学校とも受験倍率が高く、エリートだった。

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著者プロフィール

1993 年、東京都東久留米市生まれ。立命館大学立命館アジア・日本研究機構専門研究員。主な著作に、『陸軍将校たちの戦後史──「陸軍の反省」から「歴史修正主義」への変容』(新曜社、2024 年)、「特攻隊慰霊顕彰会の歴史──慰霊顕彰の「継承」と固有性の喪失」(『戦争社会学研究』4 巻、2020 年)などがある。

「2024年 『戦争のかけらを集めて』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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