- Amazon.co.jp ・本 (225ページ)
- / ISBN・EAN: 9784789605724
感想・レビュー・書評
-
『海が呑む』で初めて読んで、こないだは『イエスの言葉 ケセン語訳』を読んだ山浦さんの、別の本を図書館で借りてみる。
ケセン語では、じぶんの子ども、よその子ども問わず、子どものことをよく「タカラモノ」と呼ぶそうだ。「おい、タカラモノ。こっちさ、来[こ]」とか、「我家[おらい]のタカラモノァ風邪ひいた」というふうに。「タカラモノ」は子どもだけではなく、とても大事な人にも用いることがあるという。
山浦さんには8人のタカラモノがいる。この本は「一人の父親が生まれ、育ってゆく過程の点描でもある」。『イエスの言葉 ケセン語訳』の、前身のような本でもあった。
いま・現代の経験からすれば、聖書に書いてあることは「うそ八百」だと思えたり、なんでこんな理屈にあわないことが書いてあるのかと思ったり、それは子どもらも同じで、こんなことを神様がしたとは思えないとか、こんなことがありうるはずがないとか、率直に疑問をぶつけてくる。そうした子どもたちと山浦さんとのやりとりが、ひじょうによかった。
▼子どもには常識も権威も伝統も通用しない。自分の頭で納得できないとすぐに抗議する。(p.36)
たとえば、神が七日間で天地創造をしたというのはおかしいとか、神様はどうしてカインの捧げものを拒否したのだとか、あの話はありえないとか、おとぎ話のようだと、子どもらは言うわけである。
山浦さんは子どもらにこんなふうに話す。
▼「いいかね、少し頭を使って考えてみろ。このまえ、おまえは"勉強がわからなくて骨が折れます"という作文を書いたではないか。骨なんかどこも折れていないのに、うそ八百を書いたではないか。おまえはうそつきか。そうではあるまい。それなのにどうして、骨折したなどといいかげんなことを書くのかね。知らない人が読んだら、さぞびっくりするだろう。
いいかね、聖書を読むわれわれは、この"知らない人"なのだ。でも、"知っている人"が読めば、そんなことはあたりまえのことなのだ。勉強がわからなければ骨が折れるのは、われわれにとってあたりまえのことだ。骨折するわけではないのに、骨が折れるのだ。こんなあたりまえのことをいちいち説明する人はいない。
聖書に書いてあるうそ八百も、書いた人にとっては、あたりまえのことなのだ。ただ、そのあたりまえが、われわれの考えるあたりまえではないのだ。これは当然だね。何千年もまえのイスラエル人のあたりまえが、われわれに通じるはずがない。だから、われわれにとって大切なのは、あたりまえが意味するところをあばくことさ。…」(p.38)
そして、神のおこないを書きとめたのは人間であって、その時代の考え方や当時の文化・教養に縛られている。だからといって、未来の人間が未来の基準で過去の人たちの書いた話を笑うのは公平ではないと。当時の世界観が、その書いたもののなかにあらわれるのは当然で、今の理論にそれが合わないからといって、軽蔑するのは愚かなことだと。「ほんとうに大切なことは、人々が何を考えたかということよりも、何を考えなかったか、何に思いいたらなかったか、ということの中にひそんでいる」(p.177)のだと。
カインとアベルの話について、なぜ神はアベルの羊をうけいれ、カインの作物はうけいれなかったのか、ということは、山浦さん自身にとっても長らくの疑問だった。この答えを、ある偶然から山浦さんは発見する。
外国語の辞書で「遊牧民」という単語を引くと、その意味の中に「怠け者」というのがあって、山浦さんは驚く。なぜ遊牧民が怠け者と同義語になっているのか、この言葉にこんな意味を与えたのが遊牧民自身であるはずがない。では、だれがそんな風に考えたのか?
古代の人類の生産手段の大きなふたつは、遊牧と農業であったが、聖書の舞台である西アジアでも、このふたつが人類を二分していた。農民には農民の理屈があり、遊牧民には遊牧民の論理がある。そして、聖書は、遊牧民によって、つまりは「羊飼いこそは、人間の職業の中でもっともすぐれたものであり、神様にかわいがられるべき」と考える人びとによって語り継がれてきた。
そういった、聖書を書いた人たち、語り継いできた人たちの「思い」が神のおこないの記述をややゆがませることもあっただろう。今に照らせば、おかしなことに思えたり、納得のできないこともあるだろう。でも、それはそれでいいのだ。
▼「問題は、聖書は科学の教科書ではないということだ。聖書は神様がどんなふうに人間を愛し、どんなふうにして人間をほんとうの幸福に導こうとなさったかを記録した本だ。それ以外のことは、聖書とは関係のないことなのさ。」(p.154)
聖書をケセン語訳するココロについても山浦さんは述べている。
▼そもそもイエズス様という人は、ガリラヤの田舎者だ。…ガリラヤというのは北方の田舎で、住民は半分異民族の血がまじっており、そのことばは、ひどくなまっている。要するにズーズー弁なのである。ガリラヤは日本における東北なのだ。東北人は、かつて日高見[ひたかみ]の国という独立の国であったが千二百年前に大和帝国に滅ぼされたエミシ族の末裔である。半分異民族であって、そのことばはガリラヤ人のようになまっている。ナザレからろくなものが出ないといわれたように、白河以北一山百文とさげすまれた。その屈折した思いが、われわれ東北人の胸にガリラヤなまりの田舎者だった【あの人】への、ひとつの思いいれを作りだす。(p.41、【】は傍点)
山浦さんは、医学をおさめた医者でもある。いわば科学の世界の人である。そして、信仰も大切にもっている人である。宗教と医術はたぶんむかしはそんなに遠いものではなかったのだろうが、いまは「科学技術」の光がまぶしいから、科学と信仰とはしっくりこないのではないか、ともにあわせもつことは難しいのではないかと、私などは思ってしまう。だが、こんなふうに科学と信仰をあわせもつことができるんやなと、山浦さんの話を読んで思った。
1940年うまれの山浦さんは、私の母と同世代だ。その人が8人の子もちというのは、やはりカトリックの方やからかなーとも思う。カトリックは、避妊も中絶もみとめていないときくが、そこのところは実際どうなんやろと思う。
(6/30了)詳細をみるコメント0件をすべて表示