詩歌の琉球 (弧琉球叢書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (278ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784790411048

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  • 琉球の人々が困難といえる状況にどのように反応し独自性を模索したのか、言語表現の面、歌詠みの立場から概観を述べたとあとがきに記されている
    かなり莫大な資料を読み解いての内容で読みごたえがあった
    沖縄の近代文学史について山城正忠と与謝野鉄幹晶子夫妻、石川啄木との交流エピソードはかなり貴重
    南之上宮境内に山城正忠「朱の瓦屋根の絲遊春の日にものみなよろしくわが住める那覇」歌碑建立 

    柳田国男の晩年の論文集『海上の道』で、琉球諸島のある南方から北上した人々を日本の祖型とする論を展開
    独自の文字をもたない琉球では表音文字である仮名文字の伝来で琉球語表記 琉球古典文学『おもろさうし』は平仮名表記の古歌謡 首里王府で採録
    琉球の雅名「うるま」は室町の頃の註本『下紐』に「琉球をうるまの島と云う也」の記述、「うる」は珊瑚の砂礫、「ま」は島の意

    おぼつかなうるまの島の人なれや我がことの葉を知らず顔なる(藤原公任)
    オモロは祭事の場で歌われる神謡 「一」は謡いだし、「又」は旋律の繰り返しを表す記号 節名という歌唱法があり、思いが転訛した「ウムイ」、外へ唱える
    17世紀からは和歌のエッセンスを受容した琉歌が隆盛

    見るやさぞ色香もいまさらにふるさといとどこひしかるべき(沖縄で最初の紀行文『思出草』識名盛命、1651-1715)
    誰も実よこれぞまことのからにしききたのみやこをたいいづる袖(沖縄最古の和歌『沖縄集』池城安憲、1635-95)
    しばしともいはぬはつらきいろながらまたかへり見る山ぶきの花(『沖縄集』平敷屋朝敏、1700-34)
    日琉関係を被害者加害者という二項対立でとらえない水平軸の思想(岡本恵徳)

    庶民の毛遊び(もーあしびー)の場での琉歌の応酬で男女の恋歌のやりとり 明治後期には風紀上問題視、禁止された
    琉歌を地唄とした組踊 沖縄独特の伝統楽劇 玉城朝薫(1684-1734)が初めて創り1719年冊封式典のあとの重陽の宴で初演
    玉津と山戸の恋バナ出会いの歌 昔手に汲だる情から出ぢて今のながゆる許田の手水「許田の手水」
    漢詩集はあっても和歌集はなかったが明治に入って刊行
    琉球処分により王国解体、国家滅亡の危機と認識、大和民族と琉球人が文化面で同根を示した宜湾朝保は非難される 士族の生活困窮した不満から清国が艦隊を率いて琉球救援という願望を抱く 搾取するのみだった日本より親国としての誠意を示していた清国統治を願った人々が多かった
    明治時代
    方言から共通語への移行したが、和歌壇は王国期の陰の下にあった 日本国民という意識は弱かった 明治の和歌は内地からの役人や出向者との交際の場で多く歌われた
    新しい教育を受け上京した沖縄の青年たちが与謝野鉄幹、晶子夫妻の新詩社 山城正忠、上間正雄、摩文仁朝信が中央の歌人詩人と交わり帰沖後沖縄の文芸を担い指導
    琉歌という伝統詩 上句八八、下句八八の三十音の短詩型 曲節を持ち三線にのせて歌うことができる抒情詩明治12年置県翌年沖縄での中央語による言語教育を行う教員速成のための「会話伝習所」設立 沖縄口は首里方言という琉球王国の中央語を大和口に対応 宮古語、八重山語、奄美語の三つの方言があり総称して琉球方言
    『沖縄集』宜野湾朝保選出 古今集以来の四季、恋、雑という伝統的部立の配列
    『おもろそうし』は春秋を詠んだ作品がない
    沖縄の近代は明治十二年の琉球処分から始まるが、それまでの二百七十年間は中古語句の冊封を受けながら薩摩藩の支配下となる日中両属の歴史 親中派と親日派として対立 近代化政策が軌道に乗るのは日清戦争終結後
    沖縄の近代短歌の文献は沖縄戦空襲や戦火によって多くの資料書籍喪失
    歴史的、戦略的に薩摩や日本という国家が沖縄に対して行ってきた罪業という表向きの理由だけでは覆うことのできない、個々の心にある「私の中にもある沖縄問題」が親しくなっても深いところで相方が相方に対してわかってもらえないというもどかしさを抱く
    また明日も劣等人種とののしらる身と思ひつつまろねしにけれ(摩文仁朝信、明治42年)
    かなしみて帰れば家のくらき戸は師の入り口のここちするかな(摩文仁朝信、明治45年)
    摩文仁朝信は帰郷中突然の死、いまだ二十歳

    山といふ山もあらなく川もなきこの琉球に歌うかなしさ(長濱芦琴、明治43年)

    山本正忠は沖縄の近代を代表する歌人 大正6年に歯科開業 
    礼知らず南蛮の子は帝ます都に入りぬ黒き額して(明治40年『明星』)
    ふるさとは琉球というあわもりのうましよき國少女はたよし(明治41年『明星』)
    故郷をたたえる歌も悲しむ歌も折々の想いと屈折を物語っている
    第一に標準語習得、短歌俳句、新体詩等の詩型を表現手段として中央の詩壇に参加
    酒の歌恋の歌はも三百にみたねど飽きぬいかがすべけん(明治42年『スバル』)
    啄木との喧嘩別れエピソード、その後啄木の故地訪問
    正忠の琉球はよし歌はあれ及かねど酒は共にすべけん(山口天泉)
    とあるように酒豪振りが記されている
    歯医者とは真珠のごとく愛でしわがわかき生命の墓場となれり(大正6年)
    なりはひの営みしげく年を経て恋を語らず歌を作らず(昭和11年)
    この岬啄木も来て泣きけんと思ふあたりにはなますの咲く(大正15年)
    草原にそれの半を沈めたる日傘に雨と降る蝗虫かな(昭和7年)
    この時期に与謝野晶子が懇切な批評を加えて正忠の歌を紹介
    鉄幹より同君の人格が多年の教養と体験とに由って開花期に入ったと奨励

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