本書は4章構成になっており、第1章では「社会学」「社会」についての定義を示し、その社会学が学問として取り扱うべき問題の範囲について述べられている。そこでは、社会とは諸個人のあいだの心的な相互作用のことであり、社会学は国家や家族といったような持続的でありはっきりとした名称の与えられた人々の相互関係だけに注目するのではなく、個人と個人がいかに関係し、結び合っていくかといった「社会化」の動きに注目すべきだということを、主として歴史学との比較の中で論じている。第2章では、人々の「社会化」の動きの一般的傾向を「水準」という切り口から考察している。様々な立場の人が集まって社会を形成する際には、「集合すれば人々は愚かになる」という作用と、「(それでも)人々の全体の意見というものはいわば神の声であり、尊重されるべきである」という作用の両方が働き、その集合体的行動の性格は参加者たちの「中間」よりも、彼らの下の限界あたりに落ち着くと述べている。第3章では、第1章で定義された純粋社会学、形式社会学の例として社交という活動が取り上げられ、つづく第4章では哲学的社会学の例として18世紀と19世紀における人生観の在り方について、哲学者の議論を踏まえながら、その当時の社会状況に即した形での分析を行っている。
私は歴史学を専門として勉強しているので、第1章で社会学なるものを定義する際に引き合いに出された歴史学と、彼の述べる社会学の在り方について自分なりの考え方を論じてみようと思う。
本書においてジンメルは、歴史家たちは歴史について述べる際に、経済形式の変化やその経過こそが政治形態や文化のあり方、さらには個人のあり方に影響を与えたという史的唯物論からの説明に留まっているとしている。これに対して、イタリア初期ルネサンス美術を例に挙げることで、経済的転換は確かに重要であり、この転換は政治・美術の転換として見出されはするものの、これらの一方が他方に対して直接の原因になるわけではないと主張している。そして前者のような見方が歴史学、後者のような類推を社会学的であるとしている。まず私が思うのは、この時代においてすでにマルクスの史的唯物論への克服が目指されていたことに対する驚きである。日本の戦後歴史学、特に民衆運動について考えていた歴史学者がマルクスを援用して民衆運動を階級闘争だとして位置づけ、その本質を見誤っていたことは近年しばしば指摘されることだが、経済も文化も、さらに言えば政治も諸個人のあいだの心的相互作用に端を発するものである以上は、どれかの要素が決定的にどれかの原因となっているのではなく、相互連関的な関係にあると“社会学的”に考えることは妥当ではないか、またそうあるべきだと感じた。
次に、現代の歴史学は、上記のような社会学的類推がだいぶ以前よりもできるようになってきたのではないかと感じる。では、本書でジンメルが強調するように社会学が「すべての科学にとっての新しい道、科学のひとつの方法」を含むためには、歴史学との関係の中でsどうあるべきなのか。私は、それは社会学の草創期においてジンメルが行ったように歴史学と社会学とを厳格に切り離すことではなく、むしろ月並みな言葉でいえばお互いが協力することではないかと考える。現在、歴史学のまわりには(というか人文学のまわりには)多くの問題が横たわっているように思う。第一には、歴史学がもっぱら何らかの手段として利用に供されるという問題である。例えば、近現代の「歴史」は政治の場で用いられて領土画定に「根拠」をもたせ、或いは賠償金を請求するための、他国を黙らせる格好の交渉材料となっている。そこではこんな事実が確認されるだとか、こんな近世の地図があるだとか、歴史的に古くからあることやそのこと自体があった、ということばかりが注目され、「近世にはそもそも領土という概念自体が希薄であり、その概念が正式に出てきたの近代以降である」といったような、当時の常識や価値観はすっかり無視され、あくまで現在の価値観に照らし合わせて利用されている。また、近世の「歴史」は、日本ならば「江戸時代=戦争がない=平和」などという図式の下で道徳教育の材料になる。そうしてそれ以前の歴史はこれを補強するために動員される…。第二には、何の根拠もない「地域の歴史」が何の批判も加えられることなく受け入れられ、あまつさえ地域のアイデンティティー形成に一役買ってすらいるという問題である。例えば、兵庫には「清盛塚」という塔があり、それは考古学的にも歴史学的にも清盛とは無縁であるのだが、「清盛塚」なのである。またその近くには清盛を祀る寺もあり、どこの史料を典拠としているのかさっぱりわからない解説パネルがそれらしく作られていたりする。
両者の問題に共通するのは、文献史学の根本となるべき史料がまるで無視されるか、或いはその一部が全体としての妥当な解釈から離れて故意に切り取られ、利用されているということである。そして、「史料」と「その妥当な解釈」をもとに議論を進めていくという共通理解をも無視しているために、彼らとはまともに交渉することすらできない点が最も問題なのである。だから、私たちがすべきことはその相手と何とか交渉を試みてむやみやたらに、或いは闇雲に挫折することではなくて、また交渉しようとして妥協を重ねることでもなくて、なぜそういった史料を無視したものが受け入れられるのか、そういったものが受容される社会とはどういうものであるかを考えて批判を試みることではないかと考える。しかし、これは今の歴史学が持っている脆弱性と言えるのかもしれないが、こういった歴史的な資料に乏しいような問題は、なかなか歴史学では扱いづらい。そこで、個人と社会との関係を考える社会学的な方法に習いながら、解決を目指していくことが必要なのではないかと考える。